母(千代子)から三郎への手紙。
三郎の陸軍予科士官学校入校後3回目の通信であるが、広島と学校(埼玉)の郵便配達の所要日数が3~6日(通信物の消印と三郎が付けていた到着日で判断。ひょっとすると学校内で滞留していた場合があるかも知れないが…。)と結構幅がある事を考えると、手紙が届くとすぐに返事を書いていた勘定になる。
千代子は自宅療養の状態で、体力仕事は勿論のこと手紙を書くことさえも”手が震えて思うほど書けない”と以前の手紙に書いているが、その病状の中での今回の5枚である。
特に難読な部分は無かったものの、やはり体調が影響しているのか”誤字・脱字”と思われる様な部分が散見された。
解読結果は以下の通り。
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九日出しのハガキ、今日芳子のと一緒に
受取りました。お前も元気で
日々楽しく、学校の様子もわかって
何より安心しました。
三次地方も大分暖くなって来ましたが、
何分今年は三月が二度あるとか、
雪が思い出した様に降りますよ。
幸に三人共とても元気で
淋しいながらも夜分は父様の帰宅
を待っておこたをかこんでラヂオを聞て
床につきます。芳子も女学校の
受験日が二十三し(四?)から三日間とか。
四、五日前に願書を出した。私も
お天気がよろしいと他家には畠の
手入れ、ジャガイモの下ごしらえなど、
どんどんなさるが、私はまだそんな事
はお許しが出ないので家の中の仕事を
ぼつぼつやっています。ホルモン注射をして
居ます。足のだいく(るい?)のがよくなれば
申し分ないが、病み上がりはなかなかしっかり
しないそうだよ。別に心配してくれるな。
去る十二日だったか、藤井君のお母さん
が荷物を取りにお出になったよ。
何でも兄様へお嫁さんをとられて
近々美(?)州へ送られるらしい。其の時
の土産にお餅を持って来て下さった。
又お前に餞別と。餞別はお返し
した。高等学校受験は四年生は
第一次発表で駄目らしかった。藤井君
も駄目だったとか。今度はどの方を受け
られるのか荷物があせりて、ゆっくりされん
ので充分お話が出来なかった。お前の
写真が送ってほしいとか申して居られた。
三中の生徒は布野の方へ奉仕に出て
居るとか。一週間位修さんも
行って居る。幼年学校は三次の方の者
は一人もとられず、二年の級長汽車通の
者一人だったとか。小国のおばさんが申し
て居られた。小国のおじさんも召集で出られ、
金口進さんも召集がかかりましたよ。
湯川武文君、自転車やの息子ですよ。(召集です)
年の多い人や若い人や次々出られるよ。
お前の学校の道具が片付きません。何だか一人では
手がつけられん。思い出多くてね。
近頃兄様二人より何の様子もないが多忙
なのでしょう。様子がなければ元気だと
思っています。お父様が餞別を頂た
家をぼつぼつ夜分お礼にまわられて居る。
旧かん内藤井様の方へもいかれた。先日マスクなど
送りましたが受取りましたか。芳子もお前
が出てからは、お菓子は一つも食べない。配給もなし。
時々牛乳でパンを作る位な事。あまり食べた
がりもしない。変りたのを作っては思い出す
から何にも配給だけで足りておりますよ。
どうか躰に気をつけて、友人と仲よくしてね。
先生の教えを守りなさいよ。家の方の事は
心配いりません。芳子の入学を祈って居る。
では又御様子します。サヨナラ
※内祝を全部すめました。(済ましました?)
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以前の投稿にも書いた様に千代子は小生が生まれる前に他界しているので、具体的なイメージが無かったのだが、こうやって手紙を読んでいると”案外せっかちで細かい女性だったのかなぁ”と思ったりもする。ただ戦時下と云う異常な環境の中で子供の事に必死になるのは当たり前のことで、この時期だけの事だったのかも知れない。
要らぬ心配をさせまいとしながらも、息子を心配する自身の気持ちを制御できない状況が文面から読み取れる。
”安心した”と言った後に”淋しいながらも”とか”病み上りはなかなかしっかりしない”の後に”別に心配してくれるな”とか…。かなり情緒不安定な様子である。
三人の息子たちが家から離れてしまったのだが、残った末娘(芳子:小生の母)の事にも一寸だけ触れている。女学校の入学試験が一週間後に迫っており、そちらも気になっている様子。小生の記憶では母(芳子)は真面目なタイプではあったが秀才ではなかった筈(?)なので一層心配であったろう。彼女の書いた手紙も今後投稿してゆく予定なので見て頂ければ幸いだが、少々”どんくさい”感がある。(笑)
家庭内の近況から友人・ご近所の状況、そして二人の兄と妹の事などをとめどなく書いている感じであるのだが、ご近所のあちこちに徴兵の波が押し寄せている事を書きながら不安に陥ったのか(多分一旦書き終わった後だと思うが)5枚目の右端に書き加えられた内容が辛い。
「お前の学校の道具が片付きません。何だか一人では
手がつけられん。思い出多くてね。」
戦況悪化が加速し、南方方面各地で日本軍が玉砕。”史上最悪の作戦”と言われているインパール作戦が開始されたのがこの時期であり、最悪の状況の中で青年将校の輩出も急ピッチで行われたのである。