昭和20年2月12日 三郎から父芳一への葉書 入校から早や1年…「月日の過ぎるのは早 いものです」

 

今回は三郎が芳一に宛てた葉書。

上京し陸軍予科士官学校入校から1年が経過し、月日の経つのが早い事を感じながらも「今からは段々と暖かな方に向うのですから楽しみです」と漸く酷寒から解放されることを喜んでもいる。

昭和20年2月12日 三郎から芳一への葉書①
昭和20年2月12日 三郎から芳一への葉書②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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前畧
大分御無沙汰致しましたが
其の後お変りは御座居ま
せんか 御蔭で私も元氣に毎
日を送って居ますから御安心
下さい 月日の過ぎるのは早
いものです 最早二月も半
ば終らんとし この葉書が到
着する頃は丁度私が上京
してから一年になるでしょう
今からは段々と暖かな方に向
うのですから楽しみです
扨て 去ると謂っても昨日ですが紀元節に一月五日以来の
外出が許可され喜び勇んで常の如く■■様方にお邪魔
致しましたら岩本に頼まれたものがきれいにとってあり 私は
非常に嬉しくありました 水にひたしてあり全然かたくなく実
に感謝致しました お父さんの御言葉を讀み女々しき氣
持等絶對に起しませんから充分御安心下さい お母さん
敬兄さん 芳子ちゃん皆様の御心づくし「有難う御座居
ます」と云って頂きました 康男兄様の事は御心配でしょ
うがあまり氣をつかわれない様特にお母様にお願申し
ます 三月十一日迄外出はないのですが それまでにノートを心配して頂け
ませんでしょうか 三月十一日に着く様 ■■様方へでも送って頂きたいの
です お母様に腹巻が非常に暖かいとお傳え下さい では要用のみ
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「岩本に頼まれたものがきれいにとってあり」の「岩本」が解らないのだが、おそらく地元(三次)にある和菓子屋さんなのではないかと思う。実家から送られてきた後■■様方で、お餅等を固くならない様に保管しておいて下さったと云うことであろうか…

「康男兄様の事は御心配でしょうがあまり氣をつかわれない様特にお母様にお願申します」
とあるように長男康男の消息は未だ不明であり、(当然の事であるが)家族全員特に母千代子が心配している様子である。
康男が出征してから既に3ヶ月が経過しており、皆最悪の事態(戦死)を恐れながらも最後まで望みを捨てずに堪えていた。
父芳一はその様な状況下で三郎が弱気にならぬ様「檄」を飛ばしたのであろう。
「お父さんの御言葉を讀み女々しき氣持等絶對に起しませんから充分御安心下さい」
と三郎が応えている…

 

昭和20年2月13日 三郎から母千代子への葉書 「お母さんの手紙を讀んで居ると家の中が眼前に浮かんで来ますよ」

 

今回は三郎が母千代子へ宛てた葉書。

前回投稿した父芳一への手紙と一緒に認めたのであろう、翌日付にて投函されている。

 

昭和20年2月13日 三郎から千代子への葉書①
昭和20年2月13日 三郎から千代子への葉書②

解読結果は以下の通り。
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前畧 二月七日夜出された封書
本十三日受取りました 待ち兼ねて
居たので非常に嬉しくありました
三次に雪が降ってゐる様ですが皆元氣
との事安心致しました 此方も時々雪
が降りますが大した事はありません
雪の朝でも張切って上半身裸体となり
予科自慢の裸体操をやります
第二次の一年生が又入校して来て中
隊は満ち満ちて居ります 一年生も
大いに張切って居ります 三中からは
来なかった様ですね
お母さんの手紙を讀んで居ると家の
中が眼前に浮かんで来ますよ
外は雪がしんしんと降り人の足音がキシキシと聞える等 実に実感
が出て居ます 敬兄さんは寒さに負けては居られませんか 氣持ちは充分
丈夫に持って そうして用心して下さい 芳子ちゃんも日曜迄學校に行って
居るとの事 御苦労ですね だが何處も同じです 兄さんも日曜日
に作業等やってゐますよ 日髙君は神経痛で熱海の方へ療
養に行って居り阿野君も「カリエス」か何かで入院して居る様です
二人の兵科は不明ですが多分地上と思います お父様にも葉書は
出しましたが十一日に外出したら完全にとってあって非常に嬉しくありました
厚くお礼を申し上げて下さい 次は三月十一日と思いますが其れまで
外出を楽しみに大いに張切ってやります それから今日三原の修
君から葉書を頂きました 修君も広で働いて居るのですね
私もそれを思い感謝して居ります私達の様に満足に勉強で
きる所は他にありませんからね では風邪にかからない様にお願い申します
さようなら
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「第二次の一年生が又入校して来て中隊は満ち満ちて居ります」とあるが、
三郎たちは陸軍予科士官学校第60期生で昭和19年2月入校であるが、次の61期は戦況悪化における将校の消耗を補うべく多数の生徒を採用したため、昭和19年11月に1648名、昭和20年2月2700名、4月に幼年学校から900名が入校している。
3回に分かれての入校となったのは、三郎たち60期が航空士官学校や座間の陸軍士官学校(相武台)へ進学して部屋が空くのを待ったためである。
上記の状況からすると三郎は昭和20年4月に本科(陸軍士官学校)に入校したと思われる。

「日髙君は神経痛で熱海の方へ療養に行って居り阿野君も「カリエス」か何かで入院して居る様です」
おそらく日髙君、阿野君ともに三次中学の先輩か同級生と思われる。
「カリエス」とは結核菌などの感染による脊髄の病気で、結核が「国民病」と恐れられていた当時は大変心配な状態だったのではないかと思われる。

次兄の敬もそうであったように「病気である上に(お国の為に戦えないと云う)世間的に肩身の狭い思い」をしながら生きることは、本人はもとより家族や親戚も辛い思いを強いられる時代であった。

 

昭和20年2月22日 三郎から父母への葉書 「敵米国が遂に硫黄島に上陸しました」「十九日のB29の大挙来襲」・・・

 

今回は三郎が父母に宛てた葉書。

戦況がますます悪化し敗戦の様相が色濃くなる中、終戦後までの半年間程の通信物はこれを最後として小生の手許には無い…

 

昭和20年2月22日 三郎から父母に宛てた葉書①
昭和20年2月22日 三郎から父母に宛てた葉書②

解読結果は以下の通り。
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前畧 二月十七日出の御母さんの
封緘葉書昨廿一日受取りま
した 家の方には皆変り無いとの事
安心致しました 私も別段変りなく
毎日を過して居ります 敵米国
が遂に硫黄島に上陸しました。
実に憤慨に堪えませんが現
在の所仕方が有りません 硫黄
島より東京迄は鹿児島東京
間に等しいと言われますから空
襲等尚一層烈しくなる事
と予想して居ります 十九日のB29の大挙来襲其の前の
艦載機の来襲共に學校には被害なく学校上空にて
空中戦が展開されました 私達は防空壕の中に退避して空を
見上げて居ります 次に町役場の方より御父さん宛に臨時陸軍
軍人(軍属)届と云うものが来る筈ですがその中に不明と思われ
る所をお知らせ致して置きます 徴集年・・・昭和十八年(コレハ
受験ノ年ヲ書ク様ニナッテイマスカラ)役種兵種官等・・・陸軍予科士官学校
生徒 官等発令年月日・・・十九年三月六日(入校日)部隊編入年月
日・・・十九年三月六日(入校日)部隊編入区分・・・入校 残りは皆父上
でお判りと思います 私の家には康男兄様と二枚来る筈ですね
本日は朝から雪が降りつづけ今では約三十糎積もりました まだ依然
と降ってゐます 三月十一日の外出を楽しみに大いに張切って
やります では風邪を引かれない様に特に出張等されて
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「敵米国が遂に硫黄島に上陸しました」
昭和20年2月16日に米軍の攻撃によって開始された硫黄島の戦いは2月19日の米海兵隊の上陸により激戦の度を増してゆく。
絶対防空圏死守の為絶対に負けられない日本軍の頑強な抵抗に遭いながらも、圧倒的な物資に物を言わせた米軍の攻撃の中で戦闘は一ヶ月続き両軍合わせて4万人を超える戦死傷者を出すと云う大東亜戦争でも屈指の激戦となった。

硫黄島を奪われることは(三郎も手紙の中で触れている)距離的な部分のみならず、B29等米軍機襲来を事前察知したり南方の米軍飛行場にある戦闘機や爆撃機を攻撃破壊するための前線基地を失う事であり、本土空襲に対して「丸腰」になってしまう状況であった。
そして実際に硫黄島陥落後にB29による本土空襲は激化の一途を辿るのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

「十九日のB29の大挙来襲其の前の艦載機の来襲共に學校には被害なく」
学校に被害が無かったのは偶然ではなく、当時既に米軍は対日戦争に勝利した際の占領プランの検討を進めており、陸軍予科士官学校を占領軍の駐留地として確保使用する計画であった為、意図的に爆撃対象から外していたと云う話もあるらしい。

然し、将校生徒とは云え日本陸軍の軍人として中心都市東京の上空に米軍機が襲来する現実を三郎はじめ皆本当に悔しかったであろう…

「陸軍軍人(軍属)届」とは退役後に恩給を貰う際などに重要になって来る書類だと思うが、
「私の家には康男兄様と二枚来る筈ですね」
康男の安否は未だに不明の様である…

 

昭和20年8月29日 終戦後…康男戦死の報せ届く…

前回投稿した昭和20年2月22日に三郎が両親に宛てた葉書を最後に、終戦までの約半年間は通信関係の書類は小生の手許には残っていない。
実際には三郎と実家とのやり取りはあった筈であるが、本土空襲の激化等戦況の著しい悪化により日本国内の混乱はピークに達しており、郵便物が正常には配達されなくなったことは想像に難くない。

上述の様な状態により本ブログは半年間の空白を置いて戦後に突入する…

 

戦死公報封筒表
戦死公報封筒裏

 

死亡告知書 留守担当者宛

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死亡告知書
本籍 廣島縣雙三郡三次町一四五一番地
陸軍少尉 三原康男
右十一月十七日黄海南方方面ニ於テ戦死
セラレ候條此段通知候也
追而町長ニ對スル死亡報告ハ戸籍法第百十九條ニ依リ官ニ於テ處理可致候
昭和二十年八月二十五日

廣島聯隊區司令官 富士井末吉

留守擔當者 三原芳一 殿
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死亡報告書 三次町長宛

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死亡報告書
本籍 廣島縣雙三郡三次町一四五一番地
戸主         男 陸軍少尉 三原康男

右昭和十九年十一月十七日午後10時七分黄海南方方面ニ於テ戦死シタ
ルコトヲ確認ス
右報告候也
昭和二十年八月二十五日

廣島聯隊區司令官 富士井末吉

三次町長 殿
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遺骨交附二関スル件通牒

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遺骨交附ニ関スル件通牒
昭和二十年八月二十六日  船舶司令部矢野部隊長
廣島縣雙三郡三次町一四五一
三原芳一殿
左記者ニ係ル主題ノ件ニ関シ別途所轄联隊区司令部
ヨリ死亡通報アリタルモノト思料セラルルモ左ノ事由ニ依リ屍
體発見セラレズ遺骨ハ交附シ得ザルニ付右御諒承相願度

一、 戦死者官等級氏名生年月日
故陸軍少尉 三原康男(進級上申中)
二、 戦死日時場所      (午后十時0七分)
昭和十九年十一月十七日 二二・0七
黄海南方東経一二四・三四・五、北緯三三・三五海上
三、 屍體発見セラレザル理由
輸送途中敵ノ攻撃ニヨリ輸送船ト運命ヲ共ニセリ
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死亡告知書 留守担当者宛②

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死亡告知書
本籍 廣島縣雙三郡三次町
陸軍少尉 三原康男
昭和十九年
黄海南方
右十一月十七日東経一二四、三四五  ノ戦闘ニ於テ戦死
北緯三三、三ノ五海上
セラレ候條此段通知候也
追而町長ニ對スル死亡報告ハ戸籍法第百十九條ニ依リ官ニ於テ處理可致候
昭和二十年九月十日

廣島聯隊區司令官 富士井末吉

留守擔當者 三原芳一 殿
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戦後突入の最初は哀しい報せ…
長男康男戦死の報せであった…

康男が配属されていた船舶司令部矢野部隊より添付画像のうちの「死亡告知書」(上2枚)と「遺骨交附ニ関スル件通牒」の3枚が昭和20年8月29日午前9時に芳一の許へ届いた。
二週間程後に戦死場所の正確な経緯を記したものが届いている。(添付画像4枚目)

終戦直後の混乱の中、このような通知・報告がされている事に少々驚かされるが、亡骸はおろか遺骨さえも無い別れである。
この報せを受けた時の芳一や千代子、敬、芳子の心情を想うと胸が押しつぶされそうな気持ちである。

康男は三次にある三原家の墓に遺髪と遺爪だけを残し、今も黄海南方の海に眠っている…

三原家累代之墓

 

令和6年2月3日追伸

最近歳甲斐もなくアラン・ウォーカーの”Faded”と云う洋楽が気に入ってしまい耳から離れないのでネットで和訳をググってみた。

所謂「失恋ソング」だと思うのだが、歌詞の内容が康男戦死の報せを知った母千代子の心中とあまりにも重なる様に思えてならなかったのでリンクさせて頂く。宜しければご覧頂きたい。

https://youtu.be/eQhUSQGZQtE

象徴的に繰り返される”Where are you now?”或いは”海底の奥深くへ”等々、小生は涙を禁じえなかった(( ノД`)シクシク…)

 

昭和20年9月8日 陸軍船舶司令部矢野部隊長から芳一への返信 「御閲覧後 焼却下され度し」

 

前回康男が所属していた陸軍船舶司令部の矢野部隊から届いた「死亡告知書」及び「遺骨交附ニ関スル件通牒」を投稿したが、芳一は悲嘆に暮れる間もなく「わが子の最後」の状況を知るべく矢野部隊長に「申越し」を返信していた様である。

 

昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙封筒表
昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙封筒裏
昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙①
昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙②

「実は特事態発生の為」の部分はちょっと自信が無いが他に適当な語彙を見つけられなかった…
解読結果は以下の通り。

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御閲覧後 焼却下され度し(本状のみ)

拝復
再度御状拝誦 御心の中
拝察仕り候 お申越しの件
実は特事態発生の為 資
料は凡て焼却仕りし故 残りし
ものの中より判断せし部分のみ
御通知申上候間 何卒御宥
免ヒ下度く候

時下暑気去らず切に御自愛
ヒ過度く候
敬具
九月八日
矢野光二
三原芳一殿

追伸
残務整理の為 小官以下少数の者のみ残り居る
現況につき 万事意にまかせず御諒承を乞ふ
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「御閲覧後 焼却下され度し(本状のみ)」
とあるが、封筒にはもう一通「生死不明トナリタル迄ノ経歴」が同封されていた。
「焼却下され度し」とは占領(米)軍の進駐の際に余計な書類・資料が発覚するのを恐れた為と思われるが、芳一は焼却しなかったので「本状」はこうして残っている。
康男と同様に輸送船諸共撃沈され生死(亡骸)不明となった部下将校は相当数に上るが、今日の様にパソコンなど無く、しかも終戦直後の大混乱の軍部での残務整理は重要書類や武器等の処分などで多忙かつ煩雑を極めたであろう時に、その一人一人に対して手書きの「生死不明トナリタル迄ノ経歴」を書いたとすれば大変な作業である。
然しながら矢野部隊長以下残された部隊の方々が、戦死した多くの部下将校の「戦死の状況」を親族へ報せる為に書類を何枚も何枚も書き続けたのは生き残った者としての責務を強く感じていた為に違いないであろう…

次回の投稿でその
「生死不明トナリタル迄ノ経歴」
をご覧頂く。