1944に遭遇してしまった母の家族

小生、昭和34年生まれの59歳。今年還暦を迎える。
”昭和・平成”をそれぞれ30年づつ生きて来た節目の年に”令和”に改元とか何か不思議な巡り合わせを感じる。因みに今度即位される皇太子殿下は同学年(無論面識などないが)であり、子供の頃から入学・卒業が同時期だったので一方的に親近感を持っており一層お目出度い気分だ。

そういった”お年頃”なのでそろそろ終活でも始めるべきと考え、先ずは手始めに長年ホッタラカシになっていた祖父から母を経由して引継いできた遺品の整理を開始したのだが、その中に戦前~終戦後の母の家族(父、母、長男、次男、三男、長女の6人)を取巻く手紙・葉書・写真や書類諸々が積年のホコリとともに出て来た。

チョコッと眺めてみたが昔の人は達筆?なので全く内容が理解できなかったのだが、このまま捨ててしまうのも御先祖様(6人の家族全員既に他界している)に申し訳ないので、ここは一念発起し”解読してやろうじゃねーか‼(腕まくりまくり)”となったのだが…。

実際に”解読作業”を始めてみるとこれが想像以上に難敵であった。大半が戦前のモノなので文語体や旧仮名遣いに旧字体のオンパレード。これが人によっては素晴らしく達筆?なのだからたまらない。最初は1枚の葉書を”解読”するのに一晩かかった。だが不思議と嫌気はささず幾つかの手紙や葉書を読み解いてゆくうちになんかハマってしまった。少しだけ”シャンポリオンの苦心”体験が出来たかも(藁)

象形文字の様な筆跡をネットを駆使して調べることで旧字体や旧仮名遣いなどのちょっとしたトリビアを知る事も愉しく飽きない理由の一つではあるが、当時の一般人(母の家族やその知人)がどの様な事を考えどの様な気持ちで生きていたのか、その生の言葉を感じられる事がとても嬉しい。当時母の家族6人全員が今の小生より若かった訳であり、特に国民学校から女学校へ進学する時期の母の手紙を読んでいると異空間に迷込んだ様な不思議な感覚になる。

小生含め戦後(特に昭和30年代以降)生まれの人々は先の大戦の歴史を結果ありきで考えがちだが、学校などで学んだ歴史だけでなく(勿論これも重要だが)当時の一般人の生の状況を感じそれを追体験することが大切だと感じる。振り返って現在(特に周辺諸国との間に)歴史を発端とする様々な問題が勃発しているが、これらに我が国として正しく対応していくために嘘の歴史に惑わされることなく確固たる歴史認識を持つ上でもこの”追体験”が非常に重要だと思う。

と云った気持ちから今回このブログを開設した。特に若い人にいろんな事を感じ取ってもらいたいが、小生と同年代の方や実際に先の大戦時代を生き抜いて来られた大先輩の方々からもご意見頂ければ幸いである。また、小生は特に右寄りな考えを持っている訳ではないが、先の大戦で命を懸けて戦って下さった先人を蔑ろにする風潮には正直腹が立つ。そもそも大半の一般人は戦争など望んでいなかったと思っている。そう云った意味でも右だろうが左だろうが、或いは日本人であろうが(日本語が読めるなら)外国人であろうが、読んで頂きたい。

次回以降少しづつではあるが、手紙・葉書を読んだ結果等を投稿してゆくので乞うご期待。

昭和9年4月7日 康男(長男)広商入学

母方の実家にあった遺品の中から出て来た戦前~終戦後の手紙・葉書を投稿するが、基本的には時系列順で投稿する。

第一回目は長男の康男(小生にとっては大伯父にあたる人)が広島商業(旧制の商業学校で現在では中学入学にあたる)に入学。寄宿舎へ入るため母親の付添で広島へ行った際の状況を父親に送ったもの。

昭和9年4月7日 康男の葉書

十二、三歳の少年の書いた葉書なので全体的にはそれ程難しくもなく読むことが出来たが、それでも初っ端の”晝”がわからずググった。”昼”の事だったが、小生この年になる迄知らなかった。
また、当時では当たり前だったのかもしれないが”此(これ)、其(それ)、之(これ)”等はひらがなで書く事はあまりない。

小生が解読した内容は下記であるが、小生の無学に加え元々の誤字脱字等もあるので間違っている部分やおかしな部分があればご遠慮なく指摘して頂きたい。

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五日の晝、廣島に着きました。中村さん方で其の夜は
宿りました。中村さん方は非常に廣くきれいです。
其の日は雨が降ってうるさくありましたが、タクシーで牛田や
横瀬の方へ行きました。六日朝九時から入学式があり、教科
書や文方(房?)具や靴等を買いました。授持ちは紀本先生で
す。老人です。晝から寄宿舎に行きました。起床は六時
で九時に寝ます。昨晩はお母さんも寄宿舎で寝ら
れました。そんなに苦しい事はありません。学校まで
三十五分位かかります。僕は一年級の一組です。
今晩は新入生のかん迎会が舎であります。僕も何かやりま
す。敬や三郎やこよしさんによろしく。
さようなら    康男より
*****************************

両親にとっては次男以降とは違った意味で可愛い長男の商業学校入学。まだ戦争の影響もそれ程でもなかった時期であり、微笑ましい内容。
受持ちの先生を”老人”呼ばわりは笑ってしまった。
因みに 敬=次男、三郎=三男、こよし=長女の芳子のこと(小生の母で当時まだ2歳だった。)

前列右が康男

昭和14年7月1日 長男(康男)から父母への葉書

祖父から母そして小生へと引継がれた遺品の中の手紙や葉書の投稿第ニ回は、当時松山高等商業学校の学生だった長男(康男)が父母に宛てた葉書。

第一回目の投稿分からは既に5年が経過しており、文章内容も筆致もかなり大人びてきている。それに沿って小生の”解読作業”の難易度も一気に上昇してしまった。解読結果は以下の通りである。

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愈々七月になりましたね。本格的な暑さに入るのも間もない
ことでしょうね。当地は未だ梅雨が明け切らず毎日鬱陶しい
曇り空が続きます。然し最少ししたら真夏の太陽が輝き出す
でしょう。夏休みも愈々近づきました。十日迄授業で五日間勤労
作業がありますので帰省は十六日の朝になるでしょう。広島へちょ
っと寄って行かなければなりませんので、十六日の夜頃三次へ帰ろうと思います。
久しぶりに生れ故郷へ帰れるので大きな期待を持っています。
谷本のおばさんは未だ居られる様です。七月中は居られるのでは
ないかと思います。では暑さの折、折角お体に気を
つけて下さい。弟達にも注意してやって下さい。
                      さようなら
*****************************

先ず、”愈々や鬱陶しい”などの厄介な漢字を葉書のあの狭いスペースに書く事自体が狂気の沙汰である。現代ではパソコンの力によって可能になっているが、どれ程の若者が肉筆文字として葉書に書き込めるだろうか…。
また、年齢に伴って文字を繋げて書く技術に長けてきた様で、続き文字が多くなり難解度を上げている。眺める分には日本語の縦書きの美しさを感じることが出来て非常に良いのだが、内容を理解するには厄介である。
特に”に・も”は解りづらい。まあ文脈からある程度は判断できるが…。”最少し(もすこし)”と云う使い方も面白い。
特筆すべきは”折角”である。現代では”折角お体に気をつけて下さい。”と云う使い方は殆どしないのではないかと思う。

未だ開戦前でもあり内容的には戦争の気配はないが、実際には在学中に軍事教練を受け卒業時には配属将校になるのである。

昭和14年7月6日 長男(康男)から両親宛の手紙

 

今回は松山高等商業学校の学生であった長男(康男)が夏休みを前に両親に宛てた手紙。便箋3枚に亘った”大作”で、解読も結構難儀であった。

身内宛のものではあるが、”拝啓”で始まり”御両親様”と終るところは礼儀正しい。が、内容的にはお金の無心をしたりして案外ちゃっかりしている。やっぱり長男だなぁと思う。小生も同じ長男だから…。

 

昭和16年7月6日 康男の手紙①
昭和16年7月6日 康男の手紙②
昭和16年7月6日 康男の手紙③

以下、小生の解読結果。

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拝啓 其後お変り御座居ませんか。当地は漸く梅雨も上った
様で今日はカンカンの夏照りでした。冷たい水が恋しい季節
となった様です。三次も相当日中は暑いことでしょうね。
朝晩は真夏でも涼しかったですね。夏休みは丁度避暑
に帰る様なものだとみんなで言っていますよ。ブルジョア階級と
同じですよ。まあ申分ない身分ですね。
授業もあと三日です。勤労奉仕が五日間で十五日の午後、
高浜港を出帆しようかとも思います。作業は大抵午前
中らしいですから。十五日に帰るとすれば九時か十時過三
次へ着くことになります。四時高浜出帆しても四時間みて
おかねばなりませんからね。芸備線の連絡も丁度いい具合
に行ったら、いいと思っていますが、未だ確定したわけで
はないですが。成可く、早く帰ります。
それから七月分の諸費用ですが、“経済講話”、
“英文学書”等買って帰りたいのですが、休暇中に読みたいのです。
帰省費は勿論費りますが、松山の名物も買って帰ってもいい
ですよ。ちょっと変わったのもありますからね。
それから先月靴を買いましたが、十八円余りでした。
あんまり安いのもどうかと思う様なのばかりで、まあ手頃と
思いました。何やかと色々買って貰いましたが、大体之で
揃った様です。只一つオーバが残っているんですが、之はまあ
後のことですね。現在、庭球と俳句をやっていますが、今度
勧誘に依いて絵画の同好会へ入ることにしました。勿論趣味
として悪いものでもなく僕も好きですから。先輩の大黒さん
も入っているし、僕と仲のいい人が居るので入る気になった
のです。休暇中に畫いてみる予定で道具が一揃入
用なのですが、そんなに高いものではありません。以上、
色んなものを合計して二十八円位必要だと思うのですが、
勿論余ったら持って帰りますから少々余分に送って
貰えばいいと思うのですが。又金のことで小生も心苦しいの
ですが、金を離れて生活も出来ませんので、仕方がありません。
十日頃迄に御送付願えれば幸甚です。
昨夜まで灯火管制で、小さな臨時試験があるので
苦労しました。
敬達は休暇が大分少くなる様で可哀想ですね。
然し僕等も来年はどうなるか予測できない状態です。
学生から夏休みを取ってしまったら実際意味がないですね。
それに教師は益々不利な立場に置かれますし。
教師の質的低下は必然ですから…。こんなこと言って
も、とにかく休暇丈は廃せない方がいいです。
あと十日間です。お体に気をつけてください。
  七月六日                   康男
御両親様
*****************************

続き文字に一層磨きがかかった様子で益々難解化してきた。大半の場合は文脈から判断できるが、固有名詞(名前や地名)の場合は漢字の読みがあやふやだと迷宮入りの可能性が高い。今回も”高浜港”の読みに今一つ自信がなくネットでググった結果、四国にその港があることで漸く確定出来た。

昭和14年の時点ですでに”灯火管制”が敷かれていたのには少々驚いた。実際に本土への空襲が始まるのはもっと後の事(昭和19年頃?)だと思うが、すでに始まっていた日中戦争の影響でこの頃から訓練が開始されていたと言う事か…。
また、弟(次男の敬)の夏休みが短縮される事を心配している部分があるが、これも戦争の影響が既に出始めていた証であろう。来年には自分にも…と感じており若者にとってはとてつもなく不安な時代であったと思う。現代の政情不安などとは比較にならない社会情勢だったことが感じられる。

昭和14年7月13日 長男(康男)夏休み帰郷の連絡

今回は前回の手紙から一週間後に出されたもので、勤労奉仕の進捗が良く一日早く帰郷できる嬉しさを綴っている。元々は字の綺麗な人の筈なのだが、嬉しさのあまりか或いは時間が無かったのか今回の手紙の文字は多少殴り書き気味の様で難読ワードが多かった。

小生の解読結果は以下の通り。

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拝啓 お変わり御座居ませんか。
僕も勤労奉仕ですっかり黒くなって毎日一生懸命心身の
鍛錬をしています。最初の予定では十五日迄ある筈
だったのですが、作業があまりに早く進捗したので、
明日十四日限りとなりました。みんな喜んでいます。
高専の生徒でも実によく働きますよ。実際感心ですね。
如何に時局とは謂く中等学校以上にやりますよ。
いささか面喰いますよ。とにかく明日丈となると、みんな
帰心矢の如き防人心、ワァって歓声っをあげました。
僕の帰省も一日早くなる訳です。十日市着
十五日午後六時0二分か七時二十八分で帰るつもりです。
なるべく早く帰るつもりですが、遂に明後日は久しぶ
りで、お父さんお母さん、弟達の顔、そして生まれ故郷の山
河がみられる訳です。それ迄どうぞ元気で。 早々
                         康男
御両親様
***************************

二行目の”黒くなって”は最初”逞しくなって”かとも思ったが”しんにょう”には見えないので”黒の…”の方にした。続く三行目も”予定”がちょっと解らなかった。
真ん中(八行目)の”明日丈”を”あしただけ”と読むのも発見だった。元々そう云う意味なのか当て字的な遣い方なのかどっちだろう。
今回最大の難解ワードは9行目の”帰心やの如き〇〇〇”である。三文字なのか二文字なのかもよく解らない。とりあえず帰郷したい一心と云う意味で”防人心”と意訳しておいたが、解る方いらっしゃったら御教示頂きたい。小生はギブだ。

内容から勤労奉仕には商業高等学校だけでなく専門学校や中等学校からも動員されている様子がわかる。小生が小学生の頃にもたまに”勤労奉仕”っぽい学校内での作業はあったが、当時のはガチのやつでボランティア性などゼロだっただろうから本当に疲れたことであろう。現代では考えられないしあったとすればPTAや児童保護団体等が黙っていないだろう。でもたまには小中学生できれば高校生にも多少の勤労奉仕をさせても良いと思うけどなぁ…。

昭和16年1月14日 長男(康男)から父(芳一)への手紙

今回は前回分より1年半経過した昭和16年初めの葉書である。昭和14年後半~15年全部がすっぽり抜けているが、小生の手元の遺品の中には見当たらないので仕方がない。もしも何処からか出て来たらその時対応する。
今回の解読結果は以下の通り。

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拝啓 其の後父上様御変り無く御送日のことと
存じます。小生も相不変元気で通学しています。
歯医者へも数回通い、神経を取去ったのでもう痛み
ません。金属を被せる技工はこちらでしようと思って
いますがどうでしょう。芳子が級長になったそうですね。
うれしいことです。今後しっかり勉強させてやって下さい。
今月は授業料、加入諸団体の送別会費、歯の治療費
等、相当嵩みます。授業料は六十円、二十二日迄に必要です。
一緒に七十五円送って下さっても結構です。
では御願い致して置きます。  靴下は早速送ります。敬具
****************************

小生も大分昔の手紙に慣れてきた感はあるが、今回も結構難解だった。

今回の内容は授業料の送金依頼がメインである様だが、当時は学生が直に學校へ現金支払していたのだろうか。授業料は現在の6万円/月位だろうか、現在の大学にあたると思えば妥当な額かと思う。

2行目の”相不変”はもう漢文である。”あいかわらず”と発音するのだと思うが、当時は”あいふへん”と発音していたのか???ご存知の方がいらっしゃったら御教示乞う。

”齒醫者”は単独で書かれていたら多分解らなかったと思う。その後に書かれている内容で”ハハ~ン 歯医者のことだな”と判ったわけである。

末っ子の妹(芳子)が級長になったことを喜んでいる。彼女が小学5年生の時だと思うが小生の母なのでちょっとうれしい。他の葉書などを読んでみて感じるのだが、当時は現代よりも”級長(今風には学級委員か)”に威厳があった様に思う。”〇〇が級長になった”とか”副級長は〇〇だ”等の話題が結構出てくる。ある意味成績のバロメーターだったのかもしれない。だから親兄弟も喜んだのだろう。

中央が康男

昭和16年6月8日 長男(康男)の現況報告

松山高商自動車班

 

昭和16年6月8日 康男の手紙①
昭和16年6月8日 康男の手紙②
昭和16年6月8日 康男の手紙③
昭和16年6月8日 康男の手紙④

今回は便箋四枚の大作。数ヶ所??な部分があった。
解読結果は以下の通り。

****************************
大分暑くなって参りましたが、皆様御変りありませんか。
小生は相変わらず元気です。やっぱり暑くなると目方が減
って来るのは争えませんが、今年は昨年の様な失態を演
ずる様なことはありませんから、どうぞ安心していてください。
一昨日は松前町というところの東洋絹織の見学を致
しました。スフ・人絹工場で相当大規模なものですが、
今年出た先輩が職工と同じ菜葉服で妙な志那兵
みたいな帽子を被って、やかましい、暑い、綿片の一ぱいの
各工場を案内して呉れるのを見て、少々考えさせられ
ました。こんな工場へ入れば、最初は職工と同じ様
に各工場で一通り実習するらしいです。
どこでも、ですが工場は健康にはあまりよくない様です。
金融業の筆頭たる銀行なんか、真実非常に楽
ですね。大して創意の発揮は出来ないかもしれ
ませんが、現今の社会状態に於て専門学校出位で
自分の意志によって経営をする、という様なことはちょっ
と無理な話ですね。中央銀行といえば確かなこと
  ※余白に追伸のような書込みあり。
 (蓮池のオバサンが東京より帰られましたので、すみませんが御手紙を差上
げて下さいませんか。僕が厄介になった御礼だけでいいですから。)
此上無いですからね。僕みたいなのが結局一番幸福
なのかもしれません。未だ、先生から何も通知があり
ませんので、何んとも報告の申上様がありませんが、
まあ焦る必要も無いことと思います。大体夏休み
以降に於て取決めらるべきことなのですから、欲張るの
も我慢な話ですからね。大概大丈夫らしいですから
安心している様な訳ですが、万一の失敗?があったと
しても悪しからず御諒承下さい。ふつつか乍ら日銀
へ推薦された位ですから、今の世の中、落着いて、だまっ
ていても会社の方から雇いに来ますよ。こんなことを言
ってえらい呑気に構えている様ですが焦ったって仕様の
ないこと。最善を盡して天命を待つのみです。
が、重ねていう様ですが大抵大丈夫でしょう。日銀は最初
一、二か月は実習といいますか、事務の講習ですね。
それの為、東京へ行くらしいです。本社へ全国から専門学校
以上の卒業生たる新入行員が集まる訳です。
先日遂に本棚を買いました。結局十円近くしました。
整理がつかぬので仕様なしに買ったのですから、決して
不用品では無いと思います。卒業後の必要なもので
すから。卒業してからの勉強は相当重要なる役割
を成すものではないでしょうか。先日金融関係の本
二、三冊買いましたが、インフレ悪性への徴をみせている
今日、専門書の高いことは驚くばかりで、結局御父さんの
負擔になるのですから心苦しいですが仕方がありません。
明後日ゼミナールでは僕の研究発表がありますので
発表事項の整理に大童です。題目は「ディールの信用
理論」、昨夜は二時過ぎ迄。十数名の前で意志
発表を行うのは仲々いい経験になると思います。
自動車も相当練習してちょっとした運転手ですね。
同封の写真は敬のカメラで芳野君が撮影して
呉れたものです。ダットサンもちょっと綺麗でしょう。
二百円也には見えないでしょう。修繕代が四百円ですか
ら六百円ですかね。練習はとても面白いですよ。
他の班より少々経費が余計掛かって、班員の負擔が多い
のが難点です。近来は教授連が子供みたいに
のぼせてしまって授業がすむとすぐ飛んで来て乗る
ので、班員は迷惑此上なしですよ。下手なくせに
一人で乗ってよく毀します。練習用自動車は此の
写真の小型でなしにフォードの中型車でやっていま
す。県廳の保安課の技師が本校の講師をしていまし
て、ガソリンから自動車から色々と便宜です。県の自動車
の親玉ですからね。マンドリンの方も近来練習して
近々放送する予定です。僕共で四人、先日四日の
六時からハーモニカは放送しました。
先月末御送付の五拾円中、先月分経費として十円
余り、本棚 十円、参考書 八円、自動車班費 二円、
食券(晝食用) 五円、その他支出致しました。
右、日曜日の午前、気持よき微風に頬をなでられ
つつ、御報告致します。            敬具
六月八日                康男
御両親様
****************************

先ず、3行目の”争えませんが”に難儀した。母親が病弱な事を意識しているらしいが、体重の減少を”血のせい”と云っているとは思わなかったのでなかなか読めなかった。もっともこの1年前に体調を崩して(肺炎か?)療養した事があるらしく、そちらの方を指しているのかもしれない。

最終学年でもあり就職活動の一環らしく繊維織物工場の見学に行ったようだが、父親(小生の祖父)が銀行マンであったことから本人も銀行への就職を目指していたようで、”菜葉服”や”妙な志那兵みたいな帽子”とか工場現場での作業を少々バカにした眼つきで見ている様子が伺える。

1枚目の13~14行にある”銀行員なんか〇〇非常に〇ですね”の部分はよく解らなかったが、多分”真実”と”楽”ではないか…。間違っていたら御指摘乞う。ただ、これが正しければかなり強烈な父親への嫌味になると思う。

学校から日銀へ推薦されたようでそんな事も手伝ってか結構テングになっていたのかもしれないが、実際に翌年明けに東京の日本興業銀行で入行講習を受けた時の手紙もあるので受かったのかもしれない。しかし実際にはその後は陸軍に召集されて銀行マンとしては活躍出来なかった。

後半は楽しいキャンパスライフの様子が書かれている。当時既に自動車班なるものがあったことに驚いた。冒頭の写真はその様子であるが、今も昔も変わらぬ若者らしさが伝わってくる。因みに上の写真には裏書があって”怖しき喜劇”とのタイトルが記されている。
他にもマンドリンやハーモニカそして本分である勉強の話をして、父親へのお金の無心も”仕方ないんですよ~。”とやんわりアピール。やっぱこの伯父さん長男だわ。(藁)

昭和16年12月1日開戦直前の砌 長男(康男)から父(芳一)宛の手紙

今回は昭和16年12月1日の手紙なのだが、この時点で”学生生活に別れを告げるべき日も間近に迫って参り…”と早や卒業を仄めかしており実際12月26日に卒業している。
戦前は元来そうだったのかと思いきや、ググってみるとこの”昭和16年”から学徒動員のために大学や専門学校の修業期間が3ヶ月短縮されたのだ。因みに翌年の昭和17年は6ヶ月短縮されたようである。その他にも米・酒類の配給制開始や金属の供出を強要する金属回収令の発令など、国民生活に影響のある動きが大きくなった年である。
当然の成行きとして”徴兵検査”が待ち構えており、今回の手紙の中にも悩み迷う不安な気持ちが吐露されている。

昭和16年12月1日 康男の手紙①
昭和16年12月1日 康男の手紙②
昭和16年12月1日 康男の手紙③
昭和16年12月1日 康男の手紙④
昭和16年12月1日 康男の手紙⑤

今回は5枚に及ぶ”超大作”であったが丁寧に書かれており比較的読み易かった。
解読結果は以下の通り。

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拝啓 その後御変わりなく御送日のことと存じます。
当方も相変わらず元気で暮らしていますから御安心の程願上ます。
扨て愈々十二月に入り、学生生活に別れを告げるべき日も
間近に迫って参り、毎日多忙なる一日を送っています。
十二月に入ったと思うと、現金に寒さが加り、木枯しが我物顔
に振舞い出してきました。師走の感じは街に出て益々切
なりです。本日より実施の増税の為か、それともエビス市の為か、
昨三十日の繁華街の賑やかさは正に歳末を一か月繰上げた
という感じでした。何分一割から二割の値上げがあきらかに
されているので、どうせ費るものなら少しでも安く買う方が得だ
という心理状態は無理もないとは思います。こんなことを
喋々して僕を弁護するという訳でもありませんが、先日の御
父さんへ返事に帽子、ネクタイ、カフス等、買わないように申上げ
て置きましたが、同じ物を買うのに、たとえ二、三円でも余計出す
のは馬鹿らしいと考えましたので、芳野君等と一緒に昨日、
帽子とネクタイを買って置きました。帽子は先輩等の言を
参考に致し、少々高くついても、いい品を買って置いた方がよろしい
と思いましたので金十五円也の東京ハット濃いネズミ色のを
買いました。芳野君のも同じです。いいものは洗濯もよく利く
し、持ちも大分違いますし、体裁もいいですから、兵隊から
帰っても着られる様なのがいいと思いましたから。
ネクタイもどうせ三本や四本は入用と思いましたので、二本
丈買いました。両方で七円、合計二十二円也の買い物です。
洋服の方が学生の卒業繰上げと年末のため仕事が多いため、
ちょっと遅れましたのでその方をまだ支払っていません。が、少なく共
四、五日中には出来ると申して居ます。で、先月二十日過、二百
五十円御送付を受けましたが、其中、五十円は月謝と自
動車班費其他で支払いをなし三十五円は下宿代及食費
(中食費込)、八円余りは歯の治療費の一部として支出し、
二十二円を帽子等に費やしましたので、残額は百二十円余り
になりました。勿論、前述のもの以外に書籍代其他、送別会
の一部支払い、等々がありますから、そういう計算となる訳です。
それで、ワイシャツとカラー其他は、送って頂くとして、未だカフスボタン
を一揃い買わねばなりません。それに洋服代百五十円也の支払
いがありますので、また御願いをしなければならない様になりまし
た。今月分の諸支払い、荷造り費、帰省費、其他は別で
も又一緒でも構いませんが、洋服代不足分と
カフスボタン代三十二、三円、食費等経常費三十五円、帰省費、其他
荷造費、等々を合わせますと、八十六、七円御願いしなければならなくなり
ます。卒業となると三百円以上の金を費う訳です。全くすまない
と思います。銀行員となると一応は一人前の風体をせねばならず、
月給の少々は、すぐ飛んでしまいます。が、現役入営中は半額の
支給があるようですから、(今迄の例によると)兵隊に行っている間の入
金でまかないをつけるより仕方がありません。それにしても何かと
いえば金の費る世の中だと思います。僕が停年に達する迄
に、御父さん位の地位収入が獲られるかどうか。子供に僕が受け
た程度の教育を受けさせ得るかどうか。いささか心細い次第では
ありますね。然し、これ丈の学歴を持って出来る丈のやり度い
と思います。一生の半分は学校と兵隊で過して、結局自分で金
を儲けるのは、あとの半分ですからね。幸福といえば幸福ですね。
兵隊検査もあと一週間に迫りました。僕の予想では第一乙か第二乙だろう
と思います。何れにしても入営する様になりましょう。兵種決定、部隊決定
は十二月廿七日頃らしいです。丙種でも応召するこの時代、第一乙で入営する方
が大分いいとは思います。第二乙になると幹候にちょっとむつかしい様ですからね。
甲種にはちょっとなれないだろうと思います。ちょっと心配?なのは、
厚生省体力手帳に「要精密検診」の注意があるのです。例の二年の夏休み
の右肺の浸潤がレントゲンで少しみえるらしいのです。これで案外第二乙
になるかもしれず、丙種になるかもしれませんが、現在が至極強健なので、
問題にならぬかとも思います。検査官の裁量如何です。が、僕としては
こんなものにすがって、第三乙や丙種になるつもりはありません。
向こうがそうすれば仕方がありませんが、なるべくなら第一乙位で入っ
た方が少尉になる率が多いですし、若しかして運がよければ、
経理部の将校になれないとも限りませんからね。教科の成績は優
ですから、士官適化の推薦は貰える筈です。経理部候補生の試験
も、パス出来る自信はあります。まあ、出来る丈のことをやってみます。
あとは成行きにまかせます。それから、先日御願いした、褌の件、
出来たら至急御願い致します。
本日大阪銀行通信録受取りました。東京銀行通信録も受取ったこと
併せて御返事致します。                 早々
御父上様
*****************************

1枚目3行目の”扨て”は現代では使わないだろう。これだけを書かれたら”さて”と読めるかどうか自信がない。

手紙を書いた12月1日に増税があったので、前回”未だ買わない”と言っていた帽子・ネクタイ等々を前日(増税前)にちゃっかり買っちゃうところは相変らず”長男”全開である。小生の記憶では父親(小生の祖父)は”怖いおじいちゃん”のイメージがあったが、案外子供達には甘かったのかもしれない。

内容からすると既に”徴兵検査~召集~入隊”の流れは決まっていたようで、その際のランク分けの結果をかなり気にしている。甲種で合格し確実に将校へなれれば一番良いのだが、それ程身体能力に自信がない事に加え2年次に病気になった際の肺の浸潤が影響して、乙種どころか丙種になってしまう(そうなると将校にはまずなれない)かも…。と不安を吐露している。ただ学業が”優”なのでもしかしたら経理部の将校になれれば…と気を持ち直してもいる。
因みにこの年の7月に一度”徴兵徴収延期”を認められている。以下その證書である。

徴兵徴収延期證書

誰でもそうだと思うが、同じ兵隊になるなら出来るだけ上位階級になりたいし更には内勤(事務方)が良いと思うはず。その意味では恥ずかしい話ではないのだか、軍部等による検閲がされるとなると手紙・葉書の内容が大きく変わってくる。女々しいことは書かず勇ましいことが溢れるようになる。これは今後投稿する予定の三男が陸軍予科士官学校に入学した際の手紙・葉書をみると顕著である。

何にしてもこの頃辺りから一気に戦争の影響が増大し、若者の将来がそれに左右されてしまうのである。勿論若者以外の人々の生活にも暗い影を落としながら…。

昭和17年1月14日 康男(長男)日本興業銀行入行も…開戦~応召へ

昭和17年2月1日 康男応召入隊前夜撮影
昭和17年1月14日 康男の手紙①
昭和17年1月14日 康男の手紙②
昭和17年1月14日 康男の手紙③
昭和17年1月14日 康男の手紙④

今回は太平洋戦争開戦から1ヶ月程経った頃の手紙。
小生の解読力もかなり向上したようで今回の手紙の様にある程度丁寧に書かれていれば何とか読めるレベルになって来た。但しあくまで長男(康男)の場合の話で父(芳一)や母(千代子)になると状況は変わってくる。(*´Д`)
注)3枚目10行目にある”貰って”は本当は”口ヘンに花”なのだがこのブログ作成ソフトのフォントに登録が無い様なので”貰”にしてある。

さて、どうやら日本興業銀行に入行したようで(日銀はダメだった様子)東京在住の父(芳一)の知己の所に一週間位厄介になってオリエンテーションを受けたのち、第一ホテルに宿泊しながら実務実習に臨む様子が書かれている。因みに便箋は第一ホテル備えつけのものが使用されている。
解読結果は以下の通り。

注)以下の■■は当時東京在住であった父(芳一)の知人
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拝復 只今速達拝見致しました。愈々本日から第一ホテルに
投宿することにしました。たった今■■様の方へ最後の夕食
を御馳走になりに行ってホテルに帰って、やっと落着いたところです。
御送付になった牛肉でみんなですき焼に舌鼓を打ちました。
当地は牛肉は滅多に買えない様です。■■様の方へも
結局一週間近く御厄介になって誠に御迷惑をお掛けしたことと
思いますが、基本実によくもてなしを受けて全く感謝致し
ています。■■様御夫婦は気分のあっさりした方で、
最初は多少遠慮でしたが、しまいには慣れて遠慮も少く
なりました。兎に角一週間近くも御厄介になったのですから、
僕の方としては精神的にも物質的にも大いに助かった訳です。
御父様の方からも充分に御礼申し上げて置いて下さい。
第一ホテルはさすが東洋一を誇るだけあって八階建の素晴らしい
ものです。室の設備も先ず充分でしょう。洗面所から洋服タンス、
卓上電話、応接用机に椅子、ベッド其他、事務用机等々、
便利なものです。一番安い部屋ですからね。電話で言いつければ
何でも用が足りますし、まあ僕も初めてこんな立派な
宿へ泊った訳で、或いは二度とこんなことも無いかもしれません。
兵隊の方の事、みんな未だ入隊日等決まっていない様で心配し
ています。が兎に角、入ること丈は確かですから幹候問題集、
経理部幹候問題集等を買って少しでも勉強しています。
銀行の方も今日でようやく講演の方がすんで、明日から経理
部長の指導による実務的な実習です。友人も大分出来て
講習も気持ちよく受けています。籍表によりますと
髙商出が二十六名、普通商業が十九名、残りの百数名が大学
で、其中東大が殆どを占めている様な有様で、こんなところもちょ
っと外には無いでしょう。そんな中で仕事をするのですから自然他より
も教養も素性も髙くなる訳だと語り合っていますよ。
廣島縣人は五名もいません。福山の田中君の友達の人達と知合いに
なっています。松山を出て東京へ来ている友達の動静も大分判っ
てきましたので、心強いです。東京も一週間居ると殆ど平気
になります。最初は本当にやせてしまいますよ。気苦労が多いのでね。
今度の経験は実にいい効果を斉すものと思っています。
社会というものに一歩踏出して、沢山の人よりも少なくとも大きな多くの刺激
を貰って僕としては有難い体験だと思います。御期待に副う可く
大に頑張ります。辞令の写し左の如きものです。
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*          三原康男    *
* 書記ヲ命シ月俸金六十円ヲ     *
* 給ス               *
*    昭和十七年一月一日     *
*    株式会社  日本興行銀行  *
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東京市内の名所も休日が無いので、
殆ど見ることも出来ず、又大して
みたいとも思っていません。もう、一度は
修学旅行で見学していますからね。
然し、まだまだ沢山見ていないところ
がありますから、今度の土曜日曜には見物してみます。
田中君と毎日食事を共にすることにしていますので、都合がいいですよ。
銀行もお互いに近いですからね。第一銀行も実に立派なビルです。
興銀も七階のビルです。大正十二年の落成ですから、あまり新しくは
ありません。第一ホテルはそれに比べるとずっと最新式ですよ。
東京にいると寒さは殆ど感じません。殆ど乗物で動くし、
ビルの中、ホテルの中は寒さなんか問題でありませんからね。当ホテル
には外人も相当泊っています。よく大使館の自動車がやってきます。
僕の部屋は五百五十八号室です。田中君は六百二十三号です。
僕は五階、田中君は六階ですが、歩いてすぐですから、都合はいいです。
お土産は何がいいでしょうか。三越か新宿の伊勢丹、又は髙島屋位
のものがやっぱりいいでしょうね。大したものを買う気もありませんが。
毎朝七時半に電話で起して貰うことにしています。新聞も入れ
て呉れます。安月給取にはちょっとゼイタクな生活ですね。
ではこの辺で失礼します。                   早々
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どうやら前回投稿した手紙の中で書かれていた”日銀への推薦”は残念な結果に終わったようだが、それでも日本興業銀行に入行出来たのは立派だと思う。両親もさぞかし喜んだと思う。その証だろうか父(芳一)が東京の知人宅に送った牛肉で”すき焼きに舌鼓を打った”とある。前年の昭和16年には”肉無しの日”が制定されるなど当時牛肉は希少な贅沢品であった。故にその後に”当地(東京)は牛肉は滅多に買えない”とある。それだけ両親の喜びは大きかった。

入行のお祝い・ご褒美なのか当時最新式を誇った第一ホテルに宿泊している。”一番安い部屋ですからね”とはあるが、それでも二十歳過ぎの新入社員が気軽に泊まれるようなホテルではなくかなり奮発してもらったのだろう。

本来は嬉しい新入行時のオリエンテーションの筈なのだが、ここにも始まってしまった戦争の暗雲が立ち込めている。前年末にあった徴兵検査の結果が未だ通知されていない様で、自分だけでなく友人達も入隊日がいつになるのか心配している旨が書かれている。しかし、冒頭の写真にあるように間もなく入隊日が決まり、半月後には入隊する。

明るい未来を掴んだにもかかわらず進みたくない将来へ無理やり引きずり込まれてゆく状況は本当に納得できない辛いものだったろう。当時この様な境遇の若者がどれ程いたのか…。本当に心が痛む。

昭和18年3月11、16、23日 長男(康男)から次男(敬)への葉書 3通

昭和18年6月 出征直前
18年3月11日
18年3月16日
18年3月23日

今回は弟の敬に宛てた3通の葉書。前回の投稿分から一年以上間が空いてしまっている。その間教育訓練等のため中国大陸(保定幹部候補生隊)に配属された後、一旦将校勤務を免ぜられているが1ヶ月後に再度将校勤務を命ぜられ、3ヶ月後に四国丸亀の部隊に転属~着任している。この間の手紙・葉書は小生の手元に残っていない(中国へ行っていたため手紙が出せなかったのかもしれない)ので、戦後父(芳一)が残していた康男の軍での履歴の一部を抜粋して以下に記す。

 昭和17年
  2/ 1 臨時召集により入隊、陸軍二等兵
  4/ 1 現役、幹部候補生、陸軍一等兵
  4/20 兵科甲種幹部候補生、上等兵
  5/ 4 大陸に渡るため宇品港出帆
  5/ 9 塘沽(現在の天津?)上陸
  5/10 保定幹部候補生隊に入隊
  6/ 1 伍長
  9/ 1 軍曹
 10/30 教育終了、曹長、見習士官
 11/ 7 保定出帆
 11/14 帰隊
 11/30 将校勤務免ず
 12/30 将校勤務命ず
 昭和18年
  2/28 配属部隊決定
  3/ 3 着隊

望まない運命ではあるが、その中では最良ともいうべき甲種幹部候補生になり順調(?)に出世してはいる。

解読結果は以下の通り。

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【3月11日の葉書】
其後変りなく励んでいることと思う。
既報の通り兄さんは無事着任。新しい軍務に
精励している。何處に行ったって軍隊は大して変る
ものではない。もう殆ど慣れて来た。
何時頃迄こちらに居るか全然分からぬが、ここ当分
当地にいるはず。御前とも度々面会出来ないで
淋しい気もするが、支那に行っていた当時を思えば
何でもないよ。御前もくよくよせずに体に充分
気をつけて大いに働いて呉れ。最少し体に注意
せねば駄目だぞ。兎角下宿生活はふしだらに
なり勝ちだからな。また会えると思うが、とにかく元気で。

【3月16日の葉書】
拝啓
櫻も早やほころびかけて来た様だが、其後
如何。元気で勤めているか。兄さんは相変らず
だ。未だに当隊にいる。いささか腰を著付けざる
を得ぬ状態。讃岐の生活も早や二週間に
垂んとする。外出は防疫上禁止なので転入以来
未だに日曜らしきもの無し。写真はどうなった
か。之で三通目の葉書だが、返事皆無はどう
した訳か。病気ではあるまいな。    早々

【3月23日の葉書】
拝復 廿日出しの御葉書受取った。又先日は
写真有難う。割に出来がいね。伸ばしてない
方のもいいやつは全部伸して呉れんか。二部隊の
見習士官の方へも送ってやって呉れんか。(費用ハイヅレ送ルツモリダ)
家の方へも必要な奴は焼増、拡大して送付して
呉れれば幸い。見習士官が沢山写っている分
は四枚拡大して送付して呉れ。そちらで
都合が悪ければ、ネガを送って呉れてもよい。
電蓄がみたいね。一昨日からちょっと家に帰ってみた。
御前には敢てしらせなかったから悪しからず。又機会がある。
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今回も特に難読ワードはなかったが、2枚目4行目の”腰を著付けざる”の部分”きつけざる”と読んだが、現代ではこの言葉自体目にする機会がなく正しいのか否か判らない。御存じの方いらっしゃれば御教示乞う。
※2022.07.24追)ひょっとすると”著付けざる”は”落付けざる”の書き間違いかも知れない…

前年(昭和17年)の11月30日に将校勤務を免ぜられており一旦帰宅したのでなないかと思うが、その辺りの状況ははっきりしない。ただ、国内にいたにもかかわらずこの間の康男からの手紙・葉書が見当たらないことから、数ヶ月の間は帰宅していたのではないかと推察する。
仮に軍務から離れていたとして1年前に入行した日本興業銀行での扱いはどうなっていたのか詳しくは解らないが、昭和19年11月に出兵する際に日本興業銀行の三雲豊造という人事部長から父(芳一)宛に武運長久を祈る巻手紙が届いているので在籍はしていたものと思う。
その1ヶ月後の12月30日に再度将校勤務を命ぜられ翌2月28日に丸亀の部隊への転属命令が出て3月3日に着隊している。

葉書はその着任後に送ったものだが、戦況が悪化し心配しているであろう敬(弟)を気遣う内容となっている。ただ敬の方も元々病弱であった上に増産命令(当時三菱工作機械製作所に勤務)などで相当忙しかったためか、返信が滞り康男が催促している様子も伺える。

冒頭の写真は昭和18年6月下旬、兵站警備隊に転属命令が下った際に撮影したもの。