昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願 関連書類vol.1

時系列順という形で前回までは長男(康男)の手紙・葉書の投稿となっていたが、昭和18年3月23日の葉書を最後に昭和19年2月28日の父(芳一)から三男(三郎)への葉書まで約1年間分の通信物が小生の手元には残っていない。実際にはあったものと思うが所在不明である。

と云う事で上述の芳一から三郎の手紙の投稿となるのだが、この手紙の内容は芳一が陸軍予科士官学校に合格し埼玉県北足立郡朝霞町(当時)にあった振武台校の生徒となった三郎に宛てたものである。そこに至るまでに”志願~受験前身体検査~受検~合格発表~入校”に関する諸々の書類が遺っており、今後の投稿内容にも拘わってくるので数回に亘ってそれらの投稿をしたいと思う。

1.昭和十九年度 陸軍予科士官学校・幼年学校 生徒志願者心得
まずは、受験要綱にあたる”昭和十九年度 陸軍予科士官学校・幼年学校 生徒志願者心得”である。
結構大きなサイズでA2サイズに近い”420mm×545mm”で、昭和18年2月に教育総監部より発行されている。全体画像を冒頭にアップしてあるが以下にもう少し見やすく4分割のもの表示するのでご覧頂きたい。(大きな書類の爲、PC等ピンチアウト操作の出来ない場合はかなり見辛いと思うがご勘弁願う。)

生徒志願者心得(右上)
生徒志願者心得(左上)
生徒志願者心得(右下)
生徒志願者心得(左下)

内容は
①.採用要領(志願資格、出願期限、採用検査内容詳細、検査場一覧)
②.出願より受験迄(願書記載の注意、願書差出上の注意、願書差出後の注意、受験心得)
③.陸軍部内より陸軍予科士官学校生徒を志願する者に関する特例
④.注意
⑤.身体検査に就て志願者の参考
⑥.其の他
となっている。
学科試験は”国語・作文・数学・歴史及地理・理科、物象”であり、さすがに英語はない。
注意する部分に赤線を引きミスの無い様注意している様子が覗える。
その当時(旧制)中学3年(或いは4年になったばかりか?)であった三郎が受験志願を決意した大きな理由には、戦局の重大化による長男(康男)の徴兵があったものと思われる。加えてこの三男は上の二人の兄達に比べて体格も良く頑強だったこともあったかもしれない。いずれにせよ”どうせ軍隊に行かざるを得ないのなら…。”と云う思いがあったのは間違いない。

余談であるが、小生広島の出身で”⑥.其の他”に広島陸軍幼年学校の所在地が広島市基町とあるのをみて、その場所が2年後の昭和20年8月6日の原爆投下によって壊滅した場所であることを思い浮かべた。このとき三郎と同じように意気軒高に幼年学校を受験し合格した若者達が皆その惨劇に巻込まれてしまったのかと思うと言葉が無い…。

2.陸軍予科士官学校生徒 志願者身体検査出頭通知書

志願者身体検査出頭通知書

学科試験の前実施される身体検査への出頭通知書。
この身体検査に合格して初めて学科試験が受験できる。ただ、学科試験に合格し予科士官学校に入学する際にも再度身体検査がありその時点で合格取消しとなる場合もあったようである。因みに”広島偕行社”とは大日本帝国陸軍の元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官の親睦組織であったとのこと。詳細はインターネット等でご確認願う。

3.昭和十九年度 陸軍予科士官学校生徒志願者学科試験日割表及受験者心得

学科試験日割表及受験者心得

こちらは昭和18年7月に教育総監部が発行したもので、志願者に対して学科試験の詳細要領を説明したもの。
・学科試験の日程・時間割
・学科試験の集合時間、服装、携行品、解答方法、試験場での態度等の注意
・学科試験終了後に必要な提出書類、合格時の通知方法及びそれに対する返信方法
・合格時の現在学中校への退校手続に関する注意
・教育総監部、陸軍予科士官学校(朝霞振武台)の連絡先
が記載されている。

これらの手続きを経て、昭和18年9月20日~22日の三日間の学科試験に臨んだのである。

昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願~合格手続き 関連書類vol.2

前回の投稿で陸軍予科士官学校受験迄の手続きに関する書類をご覧頂いたが、今回は昭和18年9月20~22日の3日間実施された学科試験に無事合格した後、入校迄に届いた書類及び手続きに関して投稿する。
因みに前回投稿した書類を確認していて気付いたのだが、問題を解く事を”答解”と記載している。”解答”ではないのである。ネットでちょっと検索してみたが”解”と”答”がひっくり返っている事に関しての”答解”は発見できなかった。大した理由は無いのかもしれないがGHQの意向が反映されたりした結果なのだろうか…。

1.採用予定通知と応否届出

採用予定通知と応否届出

11月3日に採用予定通知が電報にて届いていおり、応諾の届出を同じく電報で送っているのだが遺っているのが控えの様なので送った日付等の詳細が不明であるも、おそらく当日に送ったであろうと思われる。
ちょっと面白いのは、大日本帝国陸軍教育総監部なるもの相当に厳格な役所だと思っていたのだが、前回投稿した”陸軍予科士官学校生徒志願者学科試験日割表及受験者心得”(えーい長い名称だなぁ。)に採用予定者への電報には「リクシサイヨウヨテイスグヘンケウイクソウカンブ」と記す旨書かれているにも拘らず、実際に届いた電報は「リクシゴ ウカク・スグ ヘン・ケウイクソウカンブ」と文言が違っている。案外いい加減な役所だったのか?と思ってしまった。まあ内容的には問題ないし、さすがにこれに対して「ナゼチガッテイルノデアリマスカ?」と問合わせる偏屈な命知らずも当時はいなかったであろう。(現代なら多分大勢いたと思うが…。)

2.陸軍予科士官学校生徒隊長からの父兄宛の御祝・挨拶状。(おそらく採用予定通知への応諾直後に届いたと思われる)

陸軍予科士官学校生徒隊長 榊原主計氏の御祝・挨拶状

これはちゃんと印刷(現代風に言うとプリントパックで制作)したもので、陸軍予科士官学校公式のものと思われる。(添付画像が読み辛いかもしれないがご勘弁願う。)
漢文混じりの”候文”で難読ワードが散見される。
例えば
・合格被遊:合格あそばす
・皇軍の禎幹:神(天皇)の軍隊の柱
・涵養:じっくりしっかりと育てる
・毎晨:毎朝
・明治節佳辰:明治天皇の誕生日(11/3現在の文化の日)であるめでたい日
と云ったものがある。
しかし、読んでみるとそれ程堅苦しい内容ではなく”御子息を大事に育てますから御安心下さい”的なもので、加えて”鶴首御入校の日を待つ”や”青年士官を要すること実に戦勝獲得の爲緊急缺くべからず”とか”入校せらるる日を偏に御待申上候”と戦況悪化に伴う軍部の人材不足を感じさせるような言葉が並んでいる。兎に角人材が欲しかったのであろう。
ただ、学校の指導者達は一生懸命に教育訓練し早く一人前の将校に仕上げるべく努力されていたと思うが、実際の歴史に於いては当時育てられた青年将校達が消耗品の様に消えていったことも事実である。

同じ様な内容の挨拶状が、廣島師団兵務部長からと陸軍予科士官学校富士隊隊長からも届いているので、これらに関しては次回の投稿にてご覧頂く。

昭和18年 三男(三郎)陸軍予科士官学校受験志願~合格手続き 関連書類vol.3

前回に引続き学科試験合格後に軍部側から届いた御祝・激励・挨拶状2枚を投稿する。

1枚目は12月4日に三郎宛に届いた広島師団兵務部長 両角少将からのもの。画像では判読出来ないと思うので”解読結果”を記す。

陸士広島師団兵務部長封筒
広島師団兵務部長 両角少将からの御祝・激励状

***************************
私は広島師団兵務部長両角少将です
熾烈な決戦が大東亜の全地域に於て連日繰返されている時勃々たる雄
心と報国挺身の気概を凛然たる眉宇に漲らし若く逞しき諸君が例年に
見ず数多く陸軍予科士官学校を志願され而も其の数多き志願者の中か
ら選ばれて見事合格の栄誉をうけられた諸君は正に俊材中の俊材にて
衷心よりお祝い申上げると共に益々心身を練り健康に注意し晴の入校
に萬一の差支えなき様充分に注意されたいと念願する次第です
戦局は今や誠に重大なる段階に入り北に南に東に西に大御稜威の下忠
勇無比なる皇軍将兵の勇戦奮闘により赫々たる戦果を挙げつつあるの
でありますが敵米英の飽くなき非望は益々執拗に且つ強力に反攻を挑
み中部太平洋に印緬国境に将又中支に死物狂いの動きを示している事
は既に諸君の承知している通りであります
此の時に當り元気溌剌たる諸君が国軍将校として明日の戦線に活躍せ
んとし見事難関を突破し入校せらるる事は誠に重大なる意義を有する
と共に諸君の責任も又重大なりと云わねばなりません
諸君は今や合格の喜びにひたると共に胸中深く期する所あり敵米英撃
滅への強き闘魂に漲り一死国難に赴く烈々たる赤誠は溢れ国運を双肩
に擔い仇敵必滅せずんば止まざるの一念に燃え立って居る事と信じま
す此際諸君の感激と覚悟を次に来るべきものに伝え二陣三陣続くもの
への激励と致したいと思いますので諸君の意気と感激と決意を一文に
綴り私宛に是非送ってほしいと思います
では諸君が元気に入校せられ一日も早く立派な将校となり戦場に存分
の活躍せらるる様希って居ります
***************************

少将辺りの階級の人になると大分文書内容が変って来る。まず句読点と云うかセンテンスに切れ目がない。当時は若い人でもあまり句読点など使わないのではあるが、これくらい完璧に使っていないとむしろすがすがしい。小生などはダラダラと書いてしまって読み辛くなると思い句読点を多用しがちなので参考になる。元々句読点は無学の輩に対する補助的なもので教養のある者に対して使うのは失礼であった(現代でもそう感じる方はいらっしゃる)のだから今後は出来るだけ使用を控えたい。

また激励文だから当然と云えば当然であるが、激励や気持ちを鼓舞するような言葉が非常に多い。
例えば
・勃々たる雄心
・凛然たる眉宇に漲らし
・忠勇無比なる皇軍将兵の勇戦奮闘
・赫々たる戦果
・一死国難に赴く烈々たる赤誠
・仇敵必滅せずんば止まざるの一念
など、ひと昔前の経営者が年頭の挨拶等で好んで使いそうな文言が並んでいる。まさに軍国主義的な表現である。
がしかし、このいわゆる軍国主義的な言葉や行動を一概に”ダメ”とする風潮には反対である。誤解を恐れずに云うが”使いよう”である。やる気にさせる際に使うのなら良いのに、無茶をさせるためや洗脳するために使うからダメなのである…と思う。
そうそう、もう一つ特筆する部分がある。先にあげている封筒の画像をよく見て頂くと判ると思うが、この封筒は事務用書類か何かの裏紙で作られている。更には書面自体も試験解答用紙(さすがに未使用分であるが)の裏紙である。仮にも陸軍少将の文書であるにも拘わらずである。それ程物資不足が逼迫していたと云うことなのか、或いは国民に対し質素倹約を強いている立場上のパフォーマンスだったのか…。多分その両方であろう。

さて、もう1枚は年が明けた昭和19年2月の入校直前に届いた陸軍予科士官学校生徒隊富士隊長の服部少佐から父母宛に届いた御祝・挨拶状である。

富士隊隊長 服部少佐 挨拶状

この服部少佐が三郎が配属される富士隊の隊長である。
こちらも画像では判読できないと思うので”解読結果”を記す。

***************************
拝啓 戦闘益々苛烈を極める大東亜戦下高堂益々御清建の段奉賀候
陳者今般御子弟には年来の志望達せられ目出度入校の栄に浴せらるるに
至りしこと御本人は素より御一統様には嘸かし御満悦の御事と拝
察仕り候 御子弟には當中隊に編入せられ私共直接御世話
致す事と相成候就ては御一家の玉寶を預り訓育指導の任に
當るの責務重且大なるを自覚し粉骨砕身全力を竭して
努力仕り以て国家の要求と御父兄の御期待に副いたき
所存に御座候 惟ふに御子弟教育の爲には御家庭と當方
との終始隔意なき連携を保ち一致協力其完璧を期するに
非れば到底良果を収め得ざる事と存候間本校よりの諸注
意を熟読被下入校のための諸準備と御本人の健康増進
と中隊に対する緊密なる御協力とを願い上ぐる次第に御座候
時下折角御自愛の上目出度入校の日を御待被下度候
先は右乍畧儀御祝旁々御挨拶申逑候          拝具
   昭和十九年二月三日
            生徒隊富士隊長 陸軍少佐
                     服部征夫
 父兄各位殿
          中隊長 陸軍少佐 服部征夫
          区隊長 陸軍大尉 栗山俊明
              同    小池三郎
                   堀 貞雄
                   前田八郎
                   岡田生駒
              陸軍中尉 増澤一平
                   安藤仁一
                   海老澤英夫
***************************
陸軍予科士官学校からのものは2通目であるが、前回のものが学校公式のものだったのに比べ、こちらは実際に生徒を受持つ隊長(担任)からのもので、手書き(ガリ版ではあるが)の多少親近感を醸したものである。
前回のものと同様”漢文調の候文”である。見慣れない語彙としては
・高堂:この場合は”御両親様”又は”御家族様”の意と思う
・陳者:”のぶれば”と読むらしく”申し上げますが…”の意
・御一統様:入校する全生徒及びその御家族皆様
・嘸かし:”さぞかし” 現代では漢字で書くことは殆どないと思う
・責務重且大:単純に”重大”とせず”重且大”としているところが興味深い
・全力を竭して:”全力をつくして”と読み”尽くして”と同意
・候間:”そうろうあいだ”と読み”間”は理由を表すらしい
・熟読被下:”熟読くだされ(り)”と読むらしい
・折角御自愛:”折角”には”全力で”の意味もあり”努めて”とか”精一杯”の意
等々沢山ある。
内容的にも前回同様に”御子弟を大事に責任を持って教育しますので御安心下さい”的な内容であるが、しかし軍隊とはあらゆる面で厳しい世界であり両親としては息子の事が心配で心配で仕方なかったようである。【次回以降の投稿での内容となるが、父(芳一)は三郎入校当日に付添ったにも拘らず、一旦帰広した後再び(三郎に内緒で)生徒隊長に面会に行っているのである。】

これらの他、陸軍予科士官学校長への身元保証書(父芳一が保証人)の提出や在学していた中学校への退学手続き等を終えて入校となる。

昭和19年2月28日 三男(三郎)陸豫士官学校入学 父(芳一)からの葉書

昭和十九年四月九日 三郎十八歳 陸軍予科士官学校にて

今回は陸軍予科士官学校(振武台)に合格し入校した三男(三郎)に父(芳一)が送った葉書。

長男(康男)の手紙・葉書で大分続き文字に慣れたつもりの小生であったがこの芳一(小生にとってはじいちゃんなのだが)の文字はしんどい。とりあえず”解読結果”は以下の通り。
注)■■様は東京在住の芳一の知己。長男(康男)に続き三郎もお世話になっている。

****************************
多分大丈夫とは思い乍らも不安の裡に二十七日学校
に行き、即日帰郷。或は区隊変更等の事あるを聞き、生徒
隊長殿の御挨拶を承って一先安心した。そして正服姿のお前
を見て嬉しく思った。此上は諸先生殿の御命令を尊奉して
一意勉学に精進し、三中代表者として恥ぢざる将校生徒
たるに専念せよ。それには食事と運動に留意して身体
の健康増進が第一である事を常に念頭に置けよ。お父さんは
二十七日午後九時三十分発急行にて福塩線経由二十八日午後六時に無事
帰宅したから安心せよ。■■様へ礼状を差出して置けよ。
挨拶状は書いて送ってやるから、そちらから発送せよ。詳細は又
手紙で通達する。同僚と仲良くし皆の世話をする事を忘る
なよ。先輩加藤美明君に従えよ。父母はお前の健生を祈る。
では帰郷通達まで。当方は一同無事。母も元気になった。恙し
****************************

難読文字のオンパレード。何なんだこれ?って感じである。受取った側は本当に読めていたのだろうか…。
即日帰郷、生徒隊長殿、聞き、午後九時三十分発急行、福塩線、等々判読できたのが不思議なくらいの象形具合である。加えて文字が小さいのが難易度を増している。最後の”恙し”も暫く解らなかった。
内容は、多分この一週間くらい前に三郎に付添って入校手続きに上京(埼玉であるが…)したはずなのだが、何かの心配事(学校側から何か問題があって区隊変更するかもしれない旨の連絡があった?)があり、三郎には黙って再度学校へ行っている。何が問題だったのかは不明だが、生徒隊長と話をして一安心したと書いている。当時、広島それも結構山奥の三次からの上京は時間も費用も相当かかったと思う。さらに戦況の悪化に伴い列車の便も少なくなっていた様だから余計であっただろう。短期間に二度の上京しかも2度目は”とんぼ返り”と来れば疲れない理由がない。
小生が思うに、芳一の心配もさることながら恐らく母親(千代子)が”行ってきなさい!”と芳一の尻を叩いたのではなかろうかと…。母は強しなのである。

昭和19年3月1日 長男(康男)から三男(三郎)へ合格の祝詞

昭和19年3月1日 康男から三郎への葉書

今回は陸軍予科士官学校に入校した三郎に長男(康男)が送った葉書である。
小生、康男の文字は大分慣れているし今回の葉書は短いので特に問題となるような部分はなかった。
解読結果は以下の通り。

***********************
前略 無事入校との事、父よりきき
安心した。愈々将校生徒としての研鑽
が始まる譯だが、兎に角早く環境に慣れ
る事が大切だ。未知なるものを畏れ
てはならぬ。進んで之にぶつかる事だ。
御前の知らぬ事、分からぬ事、辛い事、そして
やり難い事はみんな同じ様に分からぬ事で
あり、辛い事である事を忘れる勿れ。
入校の祝詞に代えて右の言葉を送る。
体には特に注意せよ。但し体は信頼に足るものだ。
***********************

既に2年間の軍隊経験を積んだ先輩将校として、後輩にあたる三郎に対し訓示を与えている。13歳から寄宿舎に入りそれ以降10年近く実家を離れて生活していた康男からすると、中学4年までずーっと実家暮らしで父母に甘やかされて育った三郎が、いきなり陸軍予科士官学校と云う厳しい環境に入ることは相当心配だったのであろう。単純に”おめでとう、頑張れ”ではなく”当然厳しいのだぞ、心してかかれ”と檄を飛ばしている。康男にとっては6歳年下の”可愛い弟”であったろうし、三郎からすれば”頼りになる兄さん”であったと思う。

さて、この時康男は広島市内に住んでいたようなのだが、前回の投稿の時からほぼ1年経過しておりその間の軍歴を下記しておく。

昭和18年
  6/10 兵站警備隊に転属
  8/27 転属取止め
 11/30 現役満期、陸軍少尉
 12/ 1 予備役編入、引続き臨時召集
       歩兵第百十二聯隊補充隊付
 12/23 船舶司令部付特殊艇要員として
       矢野部隊服務
昭和19年
  3/ 1 船舶練習部学生

となっている。

昭和18年12月1日付で”予備役”となっており、平時であればこの時点で軍役と離れ”銀行マン”に戻っていた筈。しかし戦争はそれを許さず”引続き臨時召集”され船舶司令部に配属されるのである。
この”船舶司令部矢野部隊”が多分広島市の宇品にあったので広島市に居住していたのだと思う。

昭和19年3月3日 池田久代伯母さんから三郎への葉書

今回は三男(三郎)の父方の伯母さんからの手紙。
小生もあまり詳しくは知らないのだが、父親の芳一は婿養子で旧姓は”池田”だったようで、この池田久代さんは芳一の姉(妹かもしれない)である。
鉛筆で書かれているので少々読み辛いがそれ程難しい文言はなかった。
解読結果は以下の通り。

***********************
大変暖かくなり春を思わせるようになりましたね。
先日はお便りありがとうね。
お便りによれば三郎さんも元気で御勉学
の事大変喜んで居ます。
私達も父亡き後は元気で大増産に精出して
居ります。安心して下さいませ。
今まで眠っていた草木も今や元気で伸び
行かんとする時、よき時候です。この時にをい
て三郎さんもしっかと勉強して立派な皇国
男子となって下さい。私達も増産に励みま
す。では暮々も大身大切に御勉学のほどをお祈
り致しお別れ致します。
                   かしこ
***********************

女性であり当時としては当たり前だったであろう”かしこ”で結ばれている。現代ではあまり見られなくなった言葉である。
当時、女性は女性の、男性は男性の良さや役目がはっきりしていた様に思う。時代も移り変わり良くも悪くもそう云った状況は薄くなってきた。
男女平等が叫ばれて久しいが近年は”セクハラ”なるものまで喧伝される世の中。小生のような”昭和中世期生まれ”にとっては世知辛い。男尊女卑を肯定するつもりはサラサラないし、むしろ女性は敬うべきものと思っているが、ただ、世の中”生まれながらにしての平等”はそうあるべきと思うが、本人の努力具合や環境まで含めて”平等”にしてしまうとそれはもう”平等”ではない。
”差別・区別”の違いや”運・不運”を受け入れる(諦める)考え方もある程度は必要である。なんでもかんでも”差別”や”ハラスメント”にしてしまう考え方は恥ずかしい。況やそれらを他人を貶めたり自分だけ得をするための道具に利用するなど言語道断である。家庭であれ学校であれ”分別と恥を知り正直である人”を育てる教育が必要だ。それが道徳であり躾だと思う。
とは言うものの誰しも、こと家族、特に我が子の事となると冷静になれず、身勝手な立場に陥ることもしばしば。先の大戦下での生活はその最たる状況であったと思う。
しかし、そんな状況でも”あっ、これは恥ずかしいことなんだ。”を感じられる人になりたいものである。

昭和19年3月4日 母(千代子)から三郎への手紙

今回は初登場の母(千代子)から三郎への手紙である。
千代子は当然ながら小生の祖母にあたるのだが、小生が生まれる前に他界しており病弱であったことと癌で亡くなったこと位しか知らなかった。小生の母(芳子)も生前殆ど千代子に関する話はしなかった。父(芳一)が後妻(内縁)を貰ったこともあり、娘としては割切れない思いもあってあまり話したくなかったのかもしれない。因みに小生は幼少の頃その後妻さんを本当の祖母だと思っていた。当時子供心に”若いおばあちゃんだなぁ”と思っていたのも事実である。(笑)
しかし、今回手紙や葉書を読み解くことで千代子の生前の姿が少しづつ明瞭になって来た。

昭和19年3月4日 母からの手紙①
昭和19年3月4日 母からの手紙②
昭和19年3月4日 母からの手紙③
昭和19年3月4日 母からの手紙④

まずは”解読結果”を以下に記す。

************************
其後変りなく毎日元気で勉強して
居ることと喜んで居ります。
三郎殿が三次を立ってから早いもので
もう幾何日と過ぎました。
阿れからはお天気もよろしく毎日日中
は春ですが、矢張り朝夕は冷たい
です。父様から様々とあったでしょうが、
家には別に変りありません。
父様御帰宅になって学校の事や
お前のことを、くわしく聞て安心しました。
来る六日は目出度く入校式だそうですね。
早や、だいぶんなれて、日々が楽しくなった
でしょう。母さんも、お前が望み通り
になったのだから、つとめて忘れて、ただただ
よろこんで居ります。一時はお前の持
物やあれこれ見たりして淋しい気もした。
いつまでもめめしい思いはしない、病気
上りにさわりてはと思ってね。
お祖(母?)さんも三月一日に帰られてとうとう
三人になったよ。兄さんらも、様子せず
康男兄さんが四・五月まで広島に居るらしい
から、せめてもたすかりだ。芳子も元気で
夕食後はハーモニカを出してやって居るが、一人で
せいがないらしい。女学校へ入学出来る様に
此度は芳子の番だ。父様も元気で
朝夕手伝ってもらって居ます。私もぼつぼつ
食事などの支度をして居りますから、
近々内祝をして外出もせねばと元気を
出して居りますよ。どうか家の事は心配はいらぬ。
躰に気をつけて、良く軍人の心得を守り、
友人とは仲良くして、勉強せねばいけ
ませんよ。前日、父様のタヨリに 加藤様に
つづけ と書いてあったでしょうが、あれは横山様の
事なのですよ。中学校へも退学の手
続をされたから安心しなさい。
お前も多忙だから餞別先へ礼状はよこ
さなくてよろしい。父様がなさるからね。
板木の祖父母様へは時々便りせよ。
森保君も姿を見せんよ。まあ母さんが
外へ出んからね。見んのかも知らんがね。
まだ手がふるえて思うほど書れんから、
今夜はこれでさようならしましょう。
三郎よくねむれよ。早く目をさませ。
明ければ同じ太陽の下で。        母より
    三郎どのへ
************************

文字が大きいので、父(芳一)に比べれば読み易いが、それでも独特のクセもあり苦戦した部分もあった。
1枚目4行目の”幾何日”も良く解らなかった。正解かどうか多少不安ではある…。
1枚目5行目の”阿れから”は初めて見た。今は多分見ない使い方だと思う。
2枚目2行目の”楽しくなった”の”楽”はちょっと略し過ぎの様な気もする。

この当時既に癌が発症していたのかどうか分からないが、入院せず本人も”治る”と思っていた様であるから癌と認識はしていなかったのだろう。ただ、思う様に動けぬ自分に対する歯がゆさと、悪化する戦局の中で長男に続き三男も軍隊に取られてしまった母親の不安な気持と自責の念が感じ取れる。
”お前が望み通りになったのだから、つとめて忘れて、ただただよろこんで居ります。”のくだりは軍人になることを本当は喜んでいないと云うことであろう。
ただ、ちょっと気弱な感じだった前半に比べ、後半は方言も出て息子に要らぬ心配をさせたくないと云う”強き母親”の表情が表れている。
”三郎よくねむれよ。早く目をさませ。
明ければ同じ太陽の下で。”
最後の2行には母親の深い愛情が感じられる。
しかし戦争と云う狂気がその愛情を強くしているのは皮肉と言えば皮肉かも知れない…。 

昭和19年3月6日 三郎へ 三次中学校長からの手紙

三次中学校(昭和十三年十二月描写)

今回は三郎が在学していた三次中学校の校長先生からの激励の葉書である。
陸軍予科士官学校に入校し既に三次中学への退学届も提出されており、三郎からのお礼の手紙への返信と思われる。

昭和19年3月6日 三次中学校長からの葉書

現代では見慣れない文言があったり、文末の文字がちょっと不明瞭であったりで数ヶ所不明な部分があった。
解読結果は以下の通り。

*******************
拝復 御葉書有難く拝誦仕り
無事御入学聞に御目出度く有り
皇国の存亡振古未だ曽て今日の如く危急
なるはなき大難局に於て名誉ある皇国
軍人としての御修学飽くまで御自重
御奮励願上げ
三中必ず尊き歴史に背かざる向上期し
居り行つる後輩の爲めにも御精励願いて
御身体特に御大切の程祈り益
*******************

あまり聞きなれない文言は
・拝誦:謹んで読むこと。謙譲語?
・振古:大昔のこと
よく解らなかった文言は最後から2行目の”居り行つる”が自信がない。
この校長先生、どうも文末の文字が読み辛く”り、る、て”の判別が難しい。あと最後の”益”は当て字だと思う。サインの色紙ぐらいでしか眼にしないと思うが…。

教え子である生徒に対して”拝誦”とへりくだった言い方をしている。これが当時当たり前のこと(軍人>文民)だったのか、それとも”検閲”等に配慮しての事なのかは解らないが、不自然な感じがする部分である。

また、軍人でないのに”皇国の存亡振古未だ曽て今日の如く危急なるはなき大難局”と戦局が芳しくない表現をしており、一般庶民の間にもかなり危うい状況が広く認知されていた証拠であろう。この2年程前のミッドウェー海戦での敗北から形勢は逆転し、当時は”決戦準備”が検討されている状況であった。

当時、教え子が陸軍予科士官学校に入学することは(表向きは)教師としての栄誉だったのであろうが、”御自重”、”御身体特に御大切の程祈り”等、教え子たちを戦地に送らなければならない教育者の苦悩も感じられる文章である。

昭和19年3月9日 母(千代子)から三郎への葉書

昭和19年3月9日 千代子の手紙

5日程前に三郎に手紙を出している千代子だが、その直後に入れ替わりで三郎からの手紙が届いた様でそれに対しての返信らしい。
先日の手紙で大方の事は綴ってしまっているので、今回は目新しい部分は見当たらない。

解読結果は以下の通り。

**********************
第一信昨日受取りました。毎日元気で
勉強して居ます由、何より安心致しました。
家の方には別に変りはありません。父様もね
三月からは日曜日はありません。子供に負けぬ
様にと相変らず朝早くから手伝って下さいますよ。
芳子も良く勉強して居ります。二人の兄様も
次々と休みに帰って来ました。当分兄様らも
帰られんと申していました。三次はまだ雪が
降りますよ。命令を良く守りて、体に充分気を
つけて勉強して下さい。
  板木のお祖父母上様へ時々お便りをなさい。
  家の方は心配ありません。又様子(します。)
**********************

今回は文言・文字として読み辛い部分はなかった。

陸軍予科士官学校は通常の中学校や専門学校・高等学校に比べれば当然(規律や訓練が)厳しいであろうから、息子からの”元気な便り”は何よりも安心したことであろう。
”家の方には別に変りはありません。”と書いておきながら”父様もね 三月からは日曜日はありません。”とある。”とーちゃん働け!”ってことか(笑)
冗談はさておき、昭和19年は国民にとってかなり無理を強いられ始めた時期である。学校の夏休みが短縮され、しかも”休み”ではなく”勤労”の期間になっている。更には”通年動員”も始まり教育現場から労働現場に変っている。当然、一般企業でも休日返上で”大増産”を実施しており次男の敬も企業(広島にあった三菱工作機械と云う会社)で汗を流していた。この後敬は体調を崩し実家に戻って療養することになるのだが、元来病弱であった彼にはこの”休日返上の大増産”が祟ったらしい。

本ブログで感じて頂きたい大きな要素は、こう云った状況を”国家の横暴”とか”軍国主義(ファシズム)”と云う負の側面からだけでなく”なぜ大半の国民が義務として耐えていたのか?”を感じ取って欲しい部分である。
あれだけ戦争で辛い思いをしていながら、祖父(芳一)と母(芳子)から国家や政府を糾弾するような発言は聞いたことがない。おそらく内心色々な思いがあったのは間違いないが”分別と恥”を知っており何より”日本人のプライド”があったのだと小生は思う。

皆さんはどう思われるだろうか…。

昭和19年3月10日 父(芳一)から三郎への葉書

昭和19年3月10日 芳一から三郎への葉書

再び父(芳一)から三郎への葉書である。
またしても難読象形文字である。が、前回苦労した分多少楽だった。
解読結果は以下の通り。

************************
其後元気で勉励して居る事と思う。今日は陸軍記念日
だ。学校にも何か行事のあった事と思う。三十九年前の今日は奉天
陥落大勝記念日だ。今日今頃は大東亜圏は将に大決戦を決行せらるる
一寸前だ。皆張り切って此記念日を迎えた。六日の入学式の模様も
想像して居るが、壮大なものであったろう。校長閣下が変られて
一入皆緊張してるだろう。家にも皆元気だ。お母さんも元気に
なって朝早くから働いて居られる。お父さんも毎日忙しい事だ。日曜
も何もない。中学校も先日卒業式であったそうな。優等生も新聞に
出ていた。三中よりの陸士志望者は皆入校したか。広島実業の白根と云う
のが天龍隊に居るそうな。お前を知ってるとの事。念〇君にも逢った事と
思う。お父さんが逢わずに帰ったのは済まぬ事をした。
康男兄さん四日晩に帰宅六日朝早く帰隊した。五日に写真に写った(一人で)
出来たら送ってやる。敬さんも六日晩に帰宅七日晩に帰った。芳子も試験が
近づいたので頑張って居る。近所様、親類、友人、先生等へ時々ハガキ
で通信せよ。身体に気をつけて大いに伸びよ。横山先輩に負けるな。頑張れ。
************************

難読文字は
・奉天”陥落”
・念〇君:友人の名前。読めず。
他にも幾つかあったが文脈から判断出来た。

メールも無く電話も掛けられず手紙・葉書だけが唯一の通信手段であったのであるから当然と言えば当然のなのだが、10日程の間に父母併せて4通の手紙・葉書を出している。しかも芳一は半月前に広島から埼玉朝霞の学校まで2回往復した後にである。それ程心配で気に掛かっていたと云う事であろう。更にもう少し注意深くこの4通を読み解いてゆくと、母(千代子)が相当心配しており芳一の尻を叩いている様子が覗える。

例えば、最初の葉書で芳一が”加藤先輩”と書いていたが、その後の千代子の手紙で”あれは横山先輩”の事だと訂正しており、今回の葉書で芳一は”横山先輩に負けるな”と訂正再記載している。
もう一つ、半月前の2回目の学校訪問をした際芳一は三郎には会わずにとんぼ返りした事を、今回手紙の中で”済まぬ事をした”と謝罪しているが、これも千代子から”なぜ息子に会わずに帰って来たのか”と叱責されたためのものと思う。
小生の個人的な意見であるが、父母が息子・娘に対して注ぐ愛情の中では”母から息子へのもの”が一番濃いと思う。他のパターンに愛情がないというのではなく、ちょっと偏愛的といった方がいいのかもしれない。

冒頭3月10日が”陸軍記念日”である事を言っている。これより39年前(1905年)の3月10日、日露戦争に於ける奉天会戦に勝利した事に因むが、当時は殆どの国民が知っていた記念日だが、現代の我々はこの1年後に起こった”東京大空襲の日”として知っている。

因みに、小生が幼少の頃の三次の実家には東城鉦太郎画伯が日本海海戦直前の旗艦「三笠」艦橋の様子を描いた絵(真ん中に東郷平八郎の雄姿が描かれたやつです。当然レプリカですが…。)が誇らしげに飾ってあり、芳一から”じいちゃんは日露戦争に看護兵として従軍した”と聞かされていたのだが、今回気になって調べてみた所、芳一は明治29(1896)年生まれなので日露戦争当時は9歳となり従軍はあり得ないことが判明してしまった。(騙されたのである。)

他、ちょっと驚いた内容としては、”優等生も新聞に出ていた”の部分である。ローカル面であると思うが新聞に優等生が掲載されるとなると家族は鼻が高かったであろう。今ではちょっと出来ないだろうが…。