閑話休題 なんの因果か…

拙いブログを綴り始めて凡そ一年になる。

母とその家族の残した手紙や葉書を読み解きながら第二次世界大戦末期の我国と庶民の様子を少しでも追体験していただけたら…と考えて始めたのだが、なんの因果か現在世界はまさかの”新型コロナ世界大戦”の真っただ中にある。

昨年8月30日の投稿で「75年前の愛でられなかった桜」の話をしたのだが、

https://19441117.com/2019/08/30/

悲しい事に令和に改元されて最初の満開となる今年の桜たちも「愛でられなかった桜」となってしまっている。
まぁ、実際の所は当時も現在も”花見の宴会”が自粛されただけで、個人的に「愛でて」いる方々は結構いらっしゃる筈ではあるが、しかし、やはり、刹那に咲き誇る「桜」の下での宴は日本の心情でありそれを封印せざるを得ないのは本当に残念である。

オリンピックに関しても昭和19年(1944年)はロンドンオリンピックが中止されており、その4年前の昭和15年(1940年)の東京オリンピックも中止になっているのである。

https://19441117.com/%e4%b8%89%e7%94%b7%ef%bc%88%e4%b8%89%e9%83%8e%ef%bc%89/%e4%b8%89%e9%83%8e%e3%80%80%e6%8c%af%e6%ad%a6%e5%8f%b0%e6%97%a5%e8%a8%98%e3%80%80vol-4/

今回の「東京オリンピック」は中止ではなく延期であるが、それにしても異常事態である。

東京近郊ではそろそろ葉桜になり始めた「桜」であるが、この時期各地の「桜」の下で再会されているであろう英霊の方々も少々寂しい思いをされているのではないだろうか…

 

昭和19年7月18日 鹿児島海軍航空隊FUさんからの葉書 これが最後の通信かも知れない…

 

今回はつい一ヶ月程前にも投稿した三次中学同級生で甲種飛行予科練習生として鹿児島海軍航空隊に所属していたFUさんからの葉書。

 

 

昭和19年7月18日 鹿児島海軍航空隊FUさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

************************
拝啓 御手紙拝見。貴様も元氣との事、安心した。
俺も元氣だ。貴様等も通信をやっとる相ぢゃが通信上達法
の密(秘?)ケツを伝授しよう。先づ符号を誰ヨリも先に確実に覚えること。
そして常に人より先を行くことだ。不断の努力無くして勝利は望め
ないからの。俺は通信に於ては決して人には負けて居らんぞ。貴様も
大いに頑張れ。戦いは将に激烈だからの。前線の将兵は我等を
待って居るのだ。此の国難を開拓するのは我々だからの。
帰省の時、桑原が居なかったので全く面白くなかった。彼は山梨
の航空機関学校へ今年四月から行っとる。(住所は後記ノ通り)
エンヂン機は見なかった。あの日の飛行が最初にして最後だった
らしい(?)又級友諸君もそれぞれ所を得た所へ行って居る。山縣君は薬専
へ、三宅は師範へ、秋本は?、廣澤は忘れた(“ーー”)。帰って学校で一・二・三年生を
集めて一席話したがどうもはなはだ心ゾーが破裂せんばかりに高鳴った。
幸便に任せて五年生諸君が働いて居る所もお知らせしよう。
山梨縣中巨摩郡玉幡村玉川 込山良作方 桑原義憲
廣島縣呉市阿賀寄宿舎第三寮三十七室 五年生一同
なお、これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら
************************

「通信」とは暗号も含めた無線通信の事であるが、戦争の拡大により通信要員の需要が増大し陸海軍共に軍部内での要員育成を行っていた様である。

「エンヂン機は見なかった。あの日の飛行が最初にして最後だったらしい(?)」の件は前回投稿した葉書への三郎からの返信に対してのやり取りらしく内容が不明である。
「エンヂン機」とは戦争末期に帝国海軍が開発していた「ジェットエンジン機」のことではないか?と思ったのだが、ググってみたところ国産初のジェット機の飛行は翌1945年8月7日の事でこの件にはあたらない様である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%8A%B1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

「なお、これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら」
最後のこの一文が気になったのであろう。三郎が付けたと思われる赤い線が引かれている。
FUさんが故郷三次へ一時帰郷し三郎宅(三郎は不在であったが)を訪問した際の様子を見て父芳一が
「お前等と逢う事はもうあるまい。」
と三郎への手紙に記している。
これは芳一が「FU君は特攻隊に志願したのかも知れん」と思って書いたものだと思っていたが、豈図らんや本人自身が同様の事を書いている。
葉書の内容からはさほど悲壮感や惜別感は感じられないのであるが、やはり特攻隊員に志願されたのであろうか…

 

昭和19年7月22日 千代子から三郎へ 待ち焦がれる「夏休み」…今生の別れとならん事を…

 

今回は千代子が三郎に宛てた手紙。

目前に迫った三郎の夏休み帰省を心待ちにした内容である。

 

昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。
************************
お葉書ありがとう。折角如何して
居るやらと案じて居りましたが
幸に変りなく毎日元気でやってゐま
す由大変うれしく思います。
家の方には別に変りはありません。
今年は大掃除が七月にありまし
て、十五日が検査日でありました。
十三日はお父様が休んで手伝って
下さいました。十四日は私が一人でやり
ましたが、何かと体を用心しますので
またしてもお父様の手をかります。
づっと母さんも元気になって大掃除
をしてもあまりつかれも出ません。
元の躰になったのでしょう。安心して下さい。
ほんとに月日の立つのは早いものですよ。
まだまだと思っていましたが、七月も二十二日
となりました。一ヶ月もせんうちに
帰省できますかね。
それから康男兄さんは又(十九日)広島
へ帰りました。二十日朝広島で集合
という命で十九日朝帰り終列車
で又広島へ帰りましたよ。
十月頃まで広島へ居るらしいよ。
くわしい事は私もよく存じませんがね。
夏休みに帰ったら面会できましょう。
又下宿の心配せんと前のは外の将校
がかりたそうな。二人居るとか、二十日もせん
のに又帰るとはどうも一寸先も知れ
ません。サイパン島のことを思えば
自分勝手など口に出来ませんね。
三郎様も一日(も)早く一人前になれる
日を楽しみに待っていますよ。
雨が降らんので畠の作物も弱って
居ります。国民学校の校庭は
ナス、サツマイモ、トマト、ナンキン、とても
たいした作物ですよ。
三郎さんも見たらびっくりしますよ。
同級生が居らんから一寸淋しいね。
今朝、管さんに会いました。倉野
さんのおばあさんですが、あの倉野
さんはお休みはないのでしょうね。
もしおあいしたら三次へことづけ
をいたしましょうかと申してみなさい。
敬兄さんの友 野面さんも十五日から
三日ほどあそんで帰られました。
芳子も元気で通学してゐます。
授業するのは一年生と二年生です。
三年生は十日市の飛行機会社
の部分品を作るのだそうです。
お互に負けない様に自分自分の
仕事に精出しましょうね。
三郎さんも暑さに負けん様に
気をつけて勉強、教練をやって
下さいね。板木のおばあさんも
楽しみに待って居られるよ。
三郎が帰ってくればくればとあれもこれも
と約束の用意はしてあります。
みんな待ってゐますからね。
ではこれから夕食の支度を致します。
四時になりますからね。呉ゝも用心してね。
元気を出して勉強するのですよ。
サヨウナラ
母より
************************

三郎の夏季帰省まで一ヶ月足らずとなり息子の帰宅を待ちわびる内容となっている。

大掃除の事、自身の体調の事、芳子や板木のおばあちゃんの事など色々と書いているが、やはり気掛かりは軍人となった康男と三郎の事であろう。
特に康男は出征が近づいており母千代子の心中は察して余りある。

その康男に関する件に
「サイパン島のことを思えば自分勝手など口に出来ませんね」
と記しているが、この一文でここ何度かの投稿に「今生の別れ」的な表現や印象が多く感じられたことに得心した。
サイパン島では直前の6月15日から日米の激しい戦闘があり7月9日の日本軍玉砕によって米軍の占領下となった。
サイパンからは日本本土全域への空襲爆撃が可能となることからこの敗戦は単なる敗戦にとどまらず、日本側から見れば「絶対国防圏」を破られた形となり、結果的に大東亜戦争での敗戦を決定づけた非常に重い敗戦であったと言える。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

千代子を含め一般庶民がどこまで「サイパンの戦い」について知っていたか疑問ではあるが(おそらく「わが軍大苦戦も米軍を撃破し…」的な大本営発表を聞かされていたのではないかと思う…)軍人である康男や予科練のFUさん(3/12,4/8投稿)は戦局の悪化状況を実感していたと思われる。
康男が「二十日もせんのに又帰るとはどうも一寸先も知れません」と云う状況になったのも、前回の投稿でFUさんが「これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら」と記したのも、この「サイパンの戦い」と無関係ではないだろう…

 

昭和19年7月14日 三次中学親友Mさんからの葉書 海軍工廠の通年動員中に受験勉強

 

今回は三次中学同級生で呉海軍工廠へ通年動員で勤労中のMさんからの葉書。

葉書の消印(19.7.14と思われる)からするともう少し前に投稿すべきであったのだが、小生のミス(-_-;)で前後してしまった。

 

昭和19年7月14日 三次中学同級生Mさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

************************
拝啓 三原君
元氣旺盛にて軍務に精励してゐる
事と思う。自分も元氣でやっとるか
ら安心し給え。早く所を知らせ度
かったんだが今日迄延びてしまった。
許して呉れ。我々受験者は(海軍兵学校)
五日頃から当局の取りはからいで勉強
させて貰ってゐる。全員張切って猛勉
中だ。君は遊泳演習に行ったか。では又。
***********************

呉海軍工廠での通年動員勤労中のMさんであるが、以前(昨年12/29)の投稿でも言って居た通り直近に迫った海軍兵学校の受験に向け当局(海軍?)の計らいで受験勉強に精を出している。
これが海軍工廠でなく当時仲の悪かった陸軍関係の工場だったら受験勉強の時間を与えて貰えたかどうかチョット疑わしい…

差出しの住所は
「呉市阿賀町小倉寄宿舎第四寮三十五号室」
とある。
現在の阿賀公園の辺りであろうか。

明治時代に呉鎮守府が設置されて以来、呉は海軍と共に発展した場所である。
大きな艦船の造船に適した地形である事が大きな理由であったが、その逆に平坦地が少なく街の発展に伴い人口が増えるとその急峻な斜面に住宅が建てられるようになった。
その代表が「両城の階段住宅」であり小生も幼少の頃に住んだ場所である。

両城の階段住宅
https://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/e/5808a705647746a87d2b21919019089b

当時の写真もあったので序でに…

両城の階段にて 左端が小生 昭和36年頃か?