康男絶筆 昭和19年11月10日 比島への出陣直後下関市阿弥陀寺町音羽旅館から出された小包の荷札…

 

昭和19年10月31日に四国三島港(陸軍船舶司令部矢野部隊駐屯地)を出港した康男の部隊は一旦下関に逗留し11月9日に出陣となったのであるが、実際には11月10日に下関を出港したと思われる。
その際「不要衣類等返送小包」を実家の芳一宛に発送しているのだが、結果的にその時の「荷札」が康男の絶筆となってしまった。
もちろん芳一はその「荷札」を大事に保管していた。

 

康男絶筆①
康男絶筆②

遺書は遺っていない…
康男は生還を信じ、まだまだ遺書など書く段階だとは思っていなかったのであろう…

果たして親・家族にとって「遺書」が在ることが良いのか否かは判らないが、芳一が書いたと思われる【絶筆】の文字が悲しい…

因みに父親の命日が11月10日の小生にとっては偶然とは言え何かの因縁を感じずには居られないのである…

 

戦後…混乱…遺された手紙類も無く…

前回までに投稿した手紙・葉書・各種資料等々で終戦直後までの小生の手許にある遺品は品切れである。
続きは恩給等の請願資料や昭和二十六年以降の芳子(小生の母)宛の手紙類が遺っているが、これらは機会があれば追って投稿したいと思う。

康男の戦死と云う悲しみの中で父芳一はじめ家族はどうしていたのだろうか…
陸軍予科士官学校生徒であった三郎がその後終戦までの間どの様に生きていたのか…
病弱であった母千代子と敬の容態は…
女学校に通っていた芳子の学生生活は…

家族全員が鬼籍入りした今となっては全く判らないのである…

ただ、
昭和23年6月 7日に次男敬が、
昭和25年6月17日に母千代子が
他界しており、残された芳一、三郎、芳子にとっては相当に辛い数年間であったであろうと推し量られる。

残念ながら小生は三人の誰からもその当時の状況を聞かされたことがない。
康男の戦死と同様に「思い出したくないこと」だったのであろう…

と云う状況なので暫くは遺されたその他資料を掻い摘みながら投稿してゆきたいと思う。

今回は康男が見習士官として配属されていた「西部第二部隊」当時の集合写真をご覧頂きたい。

昭和18年1月康男 西部第二部隊時 前列左から6番目が康男

少々見辛いので康男部分だけ拡大して…

康男 拡大

ググってみたところ、この「西部第二部隊」は広島市中広町(広島城の西側)にあったらしいのだが、詳細は解らなかった。

因みに当時康男の階級は「曹長・見習士官」であり、写真では軍刀を携えている。
現在、小生の手許には芳一が残した「康男遺刀」なるものがあるのだが、写真のものとは違うもののようである。
この辺りに関しても次回以降で投稿してゆこうと思う。

 

「軍装用赤牛皮編上靴」盗難証明書…二ヶ月足らずの間に一度ならずも二度までも…

 

少し遡るが、今回は康男の軍靴が盗難に遭った際に警察に提出した「證(証)明願」である。

2枚在り、小生は同一被害に於て警察署と派出所の2ヵ所へ提出したものと思っていたのだが、今回投稿するにあたり「よぉ~く」読んでみたところ、別々の被害のものだった事に気付いた。

盗難証明書 昭和19年1月
盗難証明書 昭和19年3月

片や
「昭和19年1月9日 18:00~18:30の間」
もう一方は
「昭和19年3月2日 午後6時頃」
とあるが、どちらも提出日が
「昭和19年10月11日」
なので(恐らく)軍の配給関連の部署辺りから提出を薦められたのではないかと思う。
だが、ではなぜここに遺っているのか??
(これも想像でしかないが)提出しようとして書いたものの、出征準備等に忙殺され遂に提出されず終いとなったのではないかと思う。

どちらも自宅での被害でしかも同時刻の出来事であり、案外身近な人物の犯行だったのでなないかと考える。
まぁ、今となってはどうでも良い事ではあるが…

戦争が長期化し日本全体が経済的にも苦しくなってきた頃である。窃盗などの犯罪も増えていたのかも知れない。

 

昭和18年7月 丸亀市日の出旅館の領収書 芳一と康男が宿泊 親子で何を語り合ったのかなぁ…

 

今回も少々遡ったモノである。

香川丸亀市の日の出旅館で芳一と康男が親子二人で宿泊した際の領収書である。

 

昭和18年7月25~26 日の出旅館領収書

康男は昭和18年6月10日に香川丸亀市の第64兵站警備隊に補充要員として転属しており、おそらく芳一が夏休みを利用して康男に会いに行ったのであろう。
この時期は三男の三郎が陸軍予科士官学校への進学(受験)を決めた時期であり、芳一がその辺りの相談や情報収集をかねて既に軍隊経験のある長男の康男に会いに行ったのではないかと思う。

当時と現在の貨幣価値で換算すると2名で3万円位の金額であるから左程高額でもないであろう。
ただ、「宿泊費+飲食費」で20円ほどの料金が税とサービス料で総額が1.5倍以上になっている。
やはり「旅館で一泊」は贅沢だったのだろう…
ビールも1本しか頼んでおらず「呑む」ことが目的では無かったのか、或いは節約したのか…

芳一にとっては三郎の進路が本題であったとしても康男の現況も気に掛かっていたことは間違いない。

そして、この1年余り後に康男が戦死することを考えると芳一にとっては本当にかけがえのない時間となってしまったのである…