昭和19年3月28日 芳一から三郎への手紙 芳子女学校合格(万歳!)

 

今回は芳一から三郎への手紙から。

四日前に手紙を出したばかりであるが、家族全員が気になっていた末娘の女学校受験の結果発表が前日(三月二十七日)にあり、これを早く知らせるべくの葉書である。

 

昭和19年3月28日 芳一から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

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大分暖かになった。其後元気で勉強しているか。
当方一同無事。芳子も首尾よく女学校入学
考査に合格。四月五日に入校通達が昨二十七日
にあった。(午前十時発表)。是れで先づ一安心だ。
芳子へお祝いを云ってやってくれ。三次の国民学校も
縁切りとなった訳だ。兄さん二人も無事で勤務して
居る。康男兄さんの写真が出来たから一、二日の内に
送ってやる。近頃通信がないが体は元気なのか。忙しく
て書けぬのなら別に書く必要もない。元気で明朗に
勉強せよ。三中の上級校に受けた連中どう云う成績か
まだハッキリせぬが相當に難関らしい。お母さんからも手紙
を出す筈。健康に留意せよ。
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芳子が無事女学校に合格した。
小生の母であり、既にこの世にはいないのだが何かとても嬉しい。
万歳である。

家族全員が気にかけていたイベントも上首尾に終了し、皆一安心である。
「三次の国民学校も縁切りとなった訳だ」という芳一の言葉に実感がこもる。
長男の康男に始まり芳子まで16年続いた国民学校とのご縁が漸く終わったのである。

世間一般のことかも知れないが、末娘であった芳子は三人の兄達に比べ父(芳一)にとても可愛がられていたことは先日の「閑話休題」にも書かせて頂いた。
小生が子供の頃、母(芳子)は
「戦時中の米が無く麦や芋ばかり食べていた時に、兄達がいない時には父が床下から白米を出して自分だけに”白いご飯”を食べさせてくれた」
と言っていた。
そのくらい芳一は芳子を可愛がっていた。

その芳子も漸く女学生になった。
本来であれば「万々歳」の筈であった。

戦争さえなければ…。

芳子 昭和18年1月

 

昭和19年4月8日 母千代子から三郎への手紙と芳子の歌好き

 

前日に父芳一が出した手紙に続き、今回は母千代子からの葉書。

一緒に出せば良いのにと思うのだが…
あまり夫婦仲は良くなかったのか?
今更ながら心配してしまう孫の小生である(笑)

昭和19年4月8日 母千代子から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際に大変お世話になっていた。
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日増しに暖くなって三次の桜も色どり、ふくらみを
見せて来ました。其後変りなく元気で毎日
楽しい事と存じます。家の方にも相変らず
暮して居ります。兄様二人共三日四日と帰りました。
お前も外出があった由うれしかったでしょうね。
芳子も目出度く女学校へ入学出来て毎朝
七時には家を出ます。それから去る六日に昇さんは
十部隊へ教育召集で入隊された。家内の者は
まだ和歌山に残りて居ります。一ヶ月後に定りましょう。
康男兄さんの写真を近日父様より送付されます。
■■様方へは又御礼を致しますから心配せぬ様に。
日々元気で楽しく送りなさい。  サヨーナラ  母
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三郎が上京して一ヶ月以上経過し、さすがに千代子も一時期の不安定な状況からは脱したのであろう。手紙の内容も至って普通のものになっている。

前日の父芳一の手紙にもあったが「昇さん」とはどうやら千代子の親戚らしく、三郎の”いとこ”にあたる青年のようであるが、小生も詳しい親戚関係を知らないので多少眉唾である。

芳子(小生の母)の歌好きに関して…
拙ブログ開設のきっかけとなった今回の遺品整理の時点で知ったのであるが、母は女学校で声楽部に所属していたらしい。
そう云えば小生が小学生の頃、店を閉めたあとに姉(小生より3学年上)と一緒に音楽の教科書や副読本(童謡などが収載された歌本)を見ながら2人で合唱していたのを思い出す。
当時は見ていて「恥ずかしい」感じであったが、それだけ歌・音楽が好きだったのであろう。

芳子 女学校音楽連盟

最近、高校3年の愚息がヘッドホンでネット動画を見ながら結構な大声で流行りの歌を唄っているのを聞くにつけ、ご近所様に「恥ずかしい」と思いながらも「隔世遺伝か?」と考えてしまう小生なのである。

 

閑話休題 8月6日 原爆の日

今日は令和になって最初の8月6日
「原爆の日」である。

 

昭和20年8月6日

芳子(小生の母)は当時三次高等女学校の生徒で、午前八時十五分は勤労奉仕をしていた。
あの日の様子を話してくれたことがある。

朝草むしりしよったらね、広島の方が”ピカッ!”と光ったんよ。
「今、広島の方が光らんかった?」
ゆうて皆で話しよったら、そのうち
「広島がおおごとになっとるそうな」
云う噂が流れてきてね、
「どうなったんかね」
言うて心配しとったら
夜になって怪我人が汽車やらトラックやらでいっぱい運ばれてきたんよ。
そりゃ大変じゃったんじゃけぇ。

その後どうなったのかは話してくれなかったのだが、
今回ブログに投稿する関係で当時の状況をググったところ、
以下の記事を見付けた。

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=48894

まさに芳子の同級生たちの記事であり、恐らく彼女も救護にあたった筈である。
「修羅場」だったのであろう…
小生に話さなかったのは、思い出したくない記憶だったのだと思う。

芳一(小生の祖父)は被爆者手帳を持っていた。
直接被爆した訳ではないが、当時広島市にいた次男の敬の安否を確認するために、翌日か翌々日に広島市に入っており、入市被爆者となった。

当時の広島での状況については芳一からも芳子からも聞いておらず、また手紙や書類も残っていない(未だ紐解いていない手紙類もあるが昭和20年3月頃を最後に残っていない様子である)ので想像するしかないのだが、敬は爆心地からは4Km程離れた祇園町と云う所に住んでおり、爆発による直接の被害は受けていなかったと思われる。
しかし、この大惨事は元来病弱であった敬のその後の健康状態に少なからぬ影響を与えたであろう。

三男の三郎は当時、陸軍士官学校(神奈川相武台)在学中で被災していないが、戦後昭和30年頃から爆心地にほど近い相生橋の袂にある「和田ビル」というアパートに住んでいた。

和田ビル

現在の様子は画像の通り古びたアパートであるが、当時は広島の中心地のハイカラなビルで、かなり立派な感じであった。

子供の頃、正月の年始の挨拶に行ったときには、ベランダから間近に見える原爆ドームや真下を走る路面電車を飽きもせず眺めたものである。

 

昭和19年4月15日 妹 芳子からの手紙 「英語」と云う「敵性語」

 

今回は先日無事女学校に合格した妹芳子からの手紙。

入学試験などの影響もあり、約一ヶ月ぶりの便りとなった。

 

昭和19年4月15日 芳子からの手紙①
昭和19年4月15日 芳子からの手紙②

解読結果は以下の通り。

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兄さん、長い間ごぶさた致しました。
おかわりない事とおさっし致します。
私もますます元気で通學してをります。
尾関山の櫻はもうほころびかけています。
十七、八日頃には一せいに咲くように思われます。
女學校の校庭の櫻はもう咲いています。
兄さんの方ではどうですか。
私達はこの十三日十四日十五日は作業で草狩りに行
っています。行先は八次の玉原さんと言う家で、
十四日にはおむすびをいただきました。
女學校は大変おもしろく、又げんかくな所で
す。新しくふえた學科の英語はとてもおもし
ろいです。兄ちゃんの英語の本を本箱から出
して讀んでいます。
朝私は七時頃家を出ます。七時四十分迄に
學校へ行く事になっています。七時半頃學
校へつきます。夕食時に兄さんの思い出話
に花を咲かせて三人でもにぎわいます。
お父さんもお母さんも元気です。
お父さんは庄原へ自轉車で行かれました。
汽車では切府(符)がなかなか買えないので、自転
車の方が便利です。私の元気な所を写真
に写つして送ります。兄さんも早く写真を送
って下さい。   では又。     芳子
************************

我が母らしい、当たり障りのない文章である。

女学校で新たに教科に加わった英語を「とてもおもしろい」と言っている。

ん?戦時下に学校で英語を教えていたのか?

当時英語は「敵性語」として日本全体で排斥されていたと云うイメージがあるが、実態としては法律などで禁止されたものでは無く、戦争によって高まるナショナリズムに押されて民間団体や町内会から自然発生的に生まれたものらしい。

国民的人気スポーツであったプロ野球に於いて
ストライク ⇒ よし一本
アウト   ⇒ ひけ
のように、敵性語から日本語の変更が徹底されたことなどから、国民全体へ波及したような状況を想像しがちであるが、これは極右勢力などから批判されて興行禁止にされることを恐れ、自発的に実施したと云うのが実情らしい。

国会でも「高等教育の現場における英語教育を取りやめるべき」旨の要望が挙がった際に、当時の内閣総理大臣東條英機陸軍大将は「英語教育は戦争において必要」と拒否したこともあった。

時を超えまさに今現在、多少の国交悪化程度で官民挙げ「ボイコットJAPAN」なる国民運動に懸命な隣国もあるが、それに比べて当時の日本は実際に交戦状態にあった中でも、「民」は多少騒いだものの「官」は冷静であったことが覗える。

とまぁ、そんな状況だったので特に気兼ねすることなく「英語」の勉強ができた我が母だった筈なのだが、彼女の「英語」の実力がどれ程のものであったのか、小生は知らない…

あの世の母上へ追伸
 「切府✖ ⇒ 切符〇」です。
            愚息

 

昭和19年4月23日 妹芳子から三郎への葉書  ありがたう と さやうなら

 

今回は妹の芳子からの手紙。

内容的にはなーんの変哲もない葉書である。
歴史的な意味合いなど一切なく単なる依怙贔屓だと言われても仕方ないのである。
なぜなら小生の母だから…

昭和19年4月23日 芳子からの葉書

解読結果は以下の通り。

********************
兄さん、お手紙ありがとうございました。
學校までの距離が約二粁位ありますが
毎日元気で登校してもあまり体はつか
れません。三次も晴天の日には夏のような
太陽がかんかんと照りつけてとてもあつい
です。近頃はたびたび作業に出動するこ
とがあります。冬で色が白くなっていた
のが、大分黒くなって来ました。
お父さんもお母さんも元気ですから安心
して下さい。   さようなら   芳子
********************

とまぁ、やはり何の変哲もない葉書なのだが、投稿する以上は何か意味を持たさねば…と暫し眺めたところ、ちょっと面白い事に気がついた。

解読文に関しては小生が「現代仮名遣い」に改めているが、原文(画像)では「ありがたう」・「さやうなら」と「旧仮名遣い」で書かれている。
戦時中だから当たり前なのだが、これまで投稿してきた芳子よりも年上の他の人たちの文章を見ていると、案外「現代仮名遣い」と「旧仮名遣い」とが混在しているのである。

「現代仮名遣い」は発音と表記を出来るだけ一致させる(「表音的表記」にする)ことで従来の「旧仮名遣い」での複雑(不便)さを解消したものである。
しかし「現代仮名遣い」が正式に使用されたのは戦後になってからであるにもかかわらず、既にこの当時「表音的表記」である「現代仮名遣い」が一般化していたと云うことが意外である。

若い人には聞きなれない話かも知れないが、料理の「さしすせそ」の例が判り易いかも知れない。
さ → 砂糖
し → 塩
す → 酢
せ → 醤油(せうゆ)
そ → 味噌
なのだが、「せうゆ」と表記しても「しょうゆ」と発音していた。
確かに判りづらい…

勤労奉仕作業で日に焼けて「大分黒くなって来ました」と書いているが、芳子は元々いわゆる「地黒」で本人は気にしていたようであった。
小生もその血を継いだようで「地黒」である。
因みに姉は父親に似たのか割と色白で、芳子は事あるごとに
「マサヒロ(小生の名前)がクロうて良かった。ケイコ(姉の名前)がクロかったらほんまにかわいそうじゃったもんねぇ。」
と小生の気持ちなど微塵も考えていないことを口走っていたものである…

 

昭和19年5月21日 妹芳子からの手紙 「大東亜戦争の決戦下で…」

 

都合4回目の妹芳子の便りである。

これまで通り大した内容ではないのだが、「大東亜戦争の決戦下で」と云うフレーズには少々驚いた。
凡そ12歳の女の子が遣うような言葉でななく、小生の記憶の中の「母芳子」のイメージではなかったから…

昭和19年5月21日 芳子からの手紙①
昭和19年5月21日 芳子からの手紙②

解読結果は以下の通り。

*********************
兄様、長い間御無沙汰致しました。
ますますご健康でお務めの事と思
います。私も毎日元気よく
通學しております。
三次もだんだん夏らしくなり
四方の山の色緑濃く、太田川の
水も美しくなりました。
大東亜戦争の決戦下で尾関
山の下のぼたん畠も黒田製
材所の所の新道路も増産
の爲、皆畠となって
やさいが靑々とで
来ております。
それから久留島さん
が尾道の方へ転居
されて、その後へ君田の太
田校長先生が十日市の青年學
校長としてこられて家がないの
でお父さんが心配して上げてこら
れる事になりました。
尾関山のかいこんに女學校からも
国民學校からも出動して畠としました。
中學生も出動しています。
敬兄さんも元気です。熱も上がらず、顔色
も良く御飯も大分たべられますし、だ
んだん快方へ向かわれておられます。
これも皆お母さんお父さんのおかげで
す。いつも兄さんと歌を一しょに
歌った事を思い出し、今頃は一人でさび
しくうたっています。お母さんも時々
一しょに歌われます。それから、私が
毎晩兄ちゃんのきらいであった床をし
くので、お母さんが猫よりはまし
だと言って笑われます。お父さんも
お母さんも元気ですから安心し
てお務めにはげんで下さい。
家の事は心配なく。
さようなら
三郎兄様  夏休みを待つ   ヨシコ
*********************

母芳子は小生が知っている限り、どちらかと云えば大人しい性格で過激な発言などとは無縁であった。
加えて当ブログ開始以降「多分に天然」であったことも判明しつつあり、小生の性格も母親からの遺伝だったことが明確になって来た昨今である。

今回投稿の手紙にしても「何か読みづらいなぁ?」と思ったら、ご丁寧に便箋にあしらわれている花模様を避けて書いている。
この「気が利きすぎて間が抜けている」的な思考回路もしっかり引継いでしまったらしい…

そんな芳子が「大東亜戦争の決戦下」などと云う”過激な”言葉を遣っていたのには少々驚いた。
おそらく当時は新聞やラジオなどで頻繁に喧伝されていたフレーズであり、特に過激ではなく「普通の」言葉だったのであろうと思うが…

その「大東亜戦争」と云う呼称だが、小生以降の世代にはあまり馴染みのないものであり専ら「太平洋戦争」と云う呼称の方が主流であったと思う。

「大東亜戦争」とは、開戦直後の昭和16年12月12日の閣議に於て決定された呼称である。
なぜ戦後「太平洋戦争」と云う呼称が主流になったのかに関しては様々な理由や考え方があると思うが、「大東亜戦争」と云う呼称はアジアの安定を謳った「大東亜共栄圏構想」を想起させ「日本がアジア諸国の独立運動の原動力となった」と云う事実が明確になってしまうため、これを隠蔽すべく連合国側が敢て「太平洋戦争」と云う呼称を主流にさせたのではないかと小生は考えている。

芳子の歌好きは以前の投稿でも書いたが、三郎も一緒に歌っていたのは初耳である。
小生にとっては「かなり怖い伯父さん」だったのだが…

「夏休みを待つ ヨシコ」とある。
8月生まれの芳子にとって誕生日もあり兄も帰省してくる夏休みはとても待ち遠しかったのであろう。

追伸
あの世の母上へ
×建康 → 〇健康
です。
愚息より

 

広島市本川町の三郎宅での新年会…かな? 昭和45(1970)年頃か…

明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

令和三年が明け当ブログも足かけ三年目を迎えました。
本年も出来るだけ沢山の方々にご覧頂けるよう頑張る所存です。

扨て新年第一回は、昭和45年頃の正月に三郎宅に芳一・三郎・芳子の揃った(小生にとってはかなり懐かしい)写真が発見されたので、それを投稿したいと思う。

三郎宅での新年会にて 昭和45年頃

後列の3人の女性は左から、三郎次女・長女・奥さん
前列左より、三郎・常子(芳一後妻)・芳一・芳子長女・芳子
最前列右に鎮座しているのが小生(芳子長男)
である。

実はこの写真は小生の手許にあったものではなく、国際新報社から出版された「新 昭和回顧録 我が人生の記」と云う分厚く立派な書物に掲載されていたものである。

以前よりこの書物が遺品の中にあることは知っていたのだがこれまで内容については知らなかった。
「何か投稿出来るモノはないかなぁ」と漁っていたところ(笑)目に留まったので開いてみた訳である。

この「新 昭和回顧録 我が人生の記」と云う書物は先の大戦で散華された軍人・軍属の方々を称え記録に残すべく広島県遺族会の協賛によって出版されたもので長男「故 三原康男」が掲載されているのだが、編纂当時芳一は既に他界しておりどうやら常子が写真・記事を提供して掲載されたものらしい。

写真でもお判りの様に三郎は(三原家の中では)体格も良く陸軍士官学校で鍛えられた厳格さもあった。
かなり以前の投稿(2019/05/08)の最後の件でこの写真当日の出来事をお伝えしたのだが、その中で三郎は小生にとっては「怖い伯父さん」であったと言っている気持ちが多少分かって頂けるのではないだろうか…
https://19441117.com/2019/05/08/

 

閑話休題 三月一日は芳一の命日 小生高校受験のまっただ中、突然の悲報に芳子は… vol.1

 

1975(昭和50)年3月1日朝7時過ぎだった。
高校受験の真っただ中だった小生は自由登校(??だったと思う)で二階の自室でのんびり眠っていた。

突然階下から悲鳴の様な母(芳子)の声が響いた。
「三次のおじいちゃんが死んじゃったんじゃと!!」
悲しさと驚愕と混乱の中から発せられたその芳子の狂気を帯びた叫びは小生を叩き起こすのに十分であった。

母は当初はオロオロしていたものの、少ししてから落着いたのかポツリポツリと話始めた。
「もう死んでしもうたんじゃけんね…。今日は月報(国鉄バス切符売り場の売上)を出さにゃあいけんけぇ、夕方からじゃないと三次に行けんね。あんた(小生)は学校へ行きんさい。」
小生が学校へ行く準備をしている間にも
「去年まで確定申告を全部おじいちゃんにやってもらいよったんじゃけど、いつまでも面倒かけちゃぁいけん思うて今年は自分でやったんよ… それがいけんかったんかねぇ… 安心しちゃったんかねぇ…」
と、誰に話すともなく独り言の様に呟いていた。
登校した小生は授業中も休み時間もずっと「ボーッ」としていた記憶がある。

国鉄バス切符売り場

夕方、店(国鉄バス切符売り場)を閉めて高校生だった姉を加えた三人はバスで広島駅へ。
広島駅で芸備線の三次行き急行(多分「ちどり」だったと思う…)に乗り芳一の亡骸の待つ三次へ向かった。

時間的に通勤時間にあたったのか列車は満員で指定席はおろか自由席にも座れずデッキ付近に三人は座り込んで広島駅を出発した。

しゃがみ込んで俯いている母は明らかに疲れていた。
実父の突然の悲報を受け悲しみに困惑しながら仕事をこなし今その亡骸の元へ向かっているのである。

1975年頃 晩年の芳一と小生
1975年頃 晩年の芳一と小生

閑話休題 三月一日は芳一の命日 小生高校受験のまっただ中、突然の悲報に芳子は… vol.2

前回投稿からの続きである。

明日三月一日は46回目の芳一の命日。
当時小生は15歳の中学三年生であったが、46年前の事なので正直なところ詳細までは詳しく覚えていない。

夕方18時頃に自宅を出た我々(芳子・姉・小生)は20時位に三次の芳一の許に着いたと思う。
ただ、芳一の亡骸がどの部屋に安置され、その亡骸と対面した芳子や姉がどんな表情であったのかよく覚えていない。
三郎一家も既に到着していたのであるが、その三郎の表情も覚えていない。
さもあらん、そもそも自分自身がどの様な感情を覚えたのかすら記憶にないのであるから…

三次に向うまでと翌日の告別式の事は断片的ではあるものの多少記憶はあるのだが、到着した当日の夜の状況は全くと言っていいほど記憶が無いのである。
悲しみに暮れる母(芳子)の様子は本能が記憶を拒んだのかも知れない…

芳一の最後はあっけないものだったらしい。
常子(芳一後妻)の話では
「いつもは朝6時に起きて(就寝前に振り子の音が気になって眠れないからと止めていた)柱時計の振り子を動かして起きて来なさるのに、今朝はよう寝とられるのう。昨日の夜”胸がザワザワする”言うてトンプクを飲んじゃったんが効いとってんかね?」
と思っていたらしい。
その後
「そろそろ起こしてあげんと…」
と枕元に行ったときには既に冷たくなっていたそうである。

因みにその柱時計は現在小生宅にある。

柱時計

確かに”カチコチカチコチ”と気になるし正時の時報も結構大きな音である。
寝ている間は止めているのが正解かも(笑)

翌日の告別式での様子は以前の投稿でも少し紹介しているが、大勢の方にご参列頂きしめやかに行われた。

https://19441117.com/2019/10/27/

式では三郎が喪主として挨拶を述べたのであるが、小生にとっては強面の伯父も父親の死はさすがに辛かったのであろう。涙声での挨拶であった。

それでも数時間後、三次郊外の火葬場では真っ白な灰となった芳一のお骨を鉄箸で拾いながら
「マサヒロ(小生の名前)、これが踵でこの大きいのが大腿骨じゃ。人間もこうなったら一巻の終わりじゃのぉ。ハハハ。」
と優しく笑っていた様子は今も忘れられない…