昭和19年3月10日 父(芳一)から三郎への葉書

昭和19年3月10日 芳一から三郎への葉書

再び父(芳一)から三郎への葉書である。
またしても難読象形文字である。が、前回苦労した分多少楽だった。
解読結果は以下の通り。

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其後元気で勉励して居る事と思う。今日は陸軍記念日
だ。学校にも何か行事のあった事と思う。三十九年前の今日は奉天
陥落大勝記念日だ。今日今頃は大東亜圏は将に大決戦を決行せらるる
一寸前だ。皆張り切って此記念日を迎えた。六日の入学式の模様も
想像して居るが、壮大なものであったろう。校長閣下が変られて
一入皆緊張してるだろう。家にも皆元気だ。お母さんも元気に
なって朝早くから働いて居られる。お父さんも毎日忙しい事だ。日曜
も何もない。中学校も先日卒業式であったそうな。優等生も新聞に
出ていた。三中よりの陸士志望者は皆入校したか。広島実業の白根と云う
のが天龍隊に居るそうな。お前を知ってるとの事。念〇君にも逢った事と
思う。お父さんが逢わずに帰ったのは済まぬ事をした。
康男兄さん四日晩に帰宅六日朝早く帰隊した。五日に写真に写った(一人で)
出来たら送ってやる。敬さんも六日晩に帰宅七日晩に帰った。芳子も試験が
近づいたので頑張って居る。近所様、親類、友人、先生等へ時々ハガキ
で通信せよ。身体に気をつけて大いに伸びよ。横山先輩に負けるな。頑張れ。
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難読文字は
・奉天”陥落”
・念〇君:友人の名前。読めず。
他にも幾つかあったが文脈から判断出来た。

メールも無く電話も掛けられず手紙・葉書だけが唯一の通信手段であったのであるから当然と言えば当然のなのだが、10日程の間に父母併せて4通の手紙・葉書を出している。しかも芳一は半月前に広島から埼玉朝霞の学校まで2回往復した後にである。それ程心配で気に掛かっていたと云う事であろう。更にもう少し注意深くこの4通を読み解いてゆくと、母(千代子)が相当心配しており芳一の尻を叩いている様子が覗える。

例えば、最初の葉書で芳一が”加藤先輩”と書いていたが、その後の千代子の手紙で”あれは横山先輩”の事だと訂正しており、今回の葉書で芳一は”横山先輩に負けるな”と訂正再記載している。
もう一つ、半月前の2回目の学校訪問をした際芳一は三郎には会わずにとんぼ返りした事を、今回手紙の中で”済まぬ事をした”と謝罪しているが、これも千代子から”なぜ息子に会わずに帰って来たのか”と叱責されたためのものと思う。
小生の個人的な意見であるが、父母が息子・娘に対して注ぐ愛情の中では”母から息子へのもの”が一番濃いと思う。他のパターンに愛情がないというのではなく、ちょっと偏愛的といった方がいいのかもしれない。

冒頭3月10日が”陸軍記念日”である事を言っている。これより39年前(1905年)の3月10日、日露戦争に於ける奉天会戦に勝利した事に因むが、当時は殆どの国民が知っていた記念日だが、現代の我々はこの1年後に起こった”東京大空襲の日”として知っている。

因みに、小生が幼少の頃の三次の実家には東城鉦太郎画伯が日本海海戦直前の旗艦「三笠」艦橋の様子を描いた絵(真ん中に東郷平八郎の雄姿が描かれたやつです。当然レプリカですが…。)が誇らしげに飾ってあり、芳一から”じいちゃんは日露戦争に看護兵として従軍した”と聞かされていたのだが、今回気になって調べてみた所、芳一は明治29(1896)年生まれなので日露戦争当時は9歳となり従軍はあり得ないことが判明してしまった。(騙されたのである。)

他、ちょっと驚いた内容としては、”優等生も新聞に出ていた”の部分である。ローカル面であると思うが新聞に優等生が掲載されるとなると家族は鼻が高かったであろう。今ではちょっと出来ないだろうが…。

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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