昭和19年5月2日 三次中学・陸軍予科士官学校先輩Yさんからの葉書 差出地は千葉県四街道 陸軍野戦砲兵学校に…

 

今回は当ブログでも何度か投稿した三次中学・陸軍予科士官学校の先輩のYさんからの手紙。

前回(7/14)に投稿した昭和19年4月8日付の手紙の差出地は神奈川県の相武台(陸軍士官学校)であったが、今回の手紙は千葉県四街道の「陸軍野戦砲兵学校」となっていた。

昭和19年5月2日 Y先輩からの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 観兵式陪観せられしや。此度は
我等が参加しなかったから貴様等には
淋しかったろう。外出しているか。大いに
鋭気を養うべく、しゃばの空気にまけんで
しっかり外出し給え。小生、此の度満州へ
行くことになった。本校では、昨日記念祭
あり。面白いものを見たよ。六月頃会おう。
元気で勉強し給え。他の面々は何処。
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差出し元住所は「陸軍野戦砲兵学校 教導聯隊 第八中隊 見習士官 〇〇〇〇」となってる。
早速、「陸軍野戦砲兵学校」をググってみたところ、以下サイトにて詳しく説明されていたのでご覧頂きたい。

https://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/003e75e131f09cba13340cdc966f9597

こちらのサイトの説明によると、「160名ほどの募集に対して、1943年には47倍もの受験者があったという」とあり、相当の難関であったことが伺える。
父芳一が三郎に「Y先輩に負けるな」と言うほど優秀な人物であったが、この難関校に入学していることでその事実が明確になった。

しかしながら同サイトには、この1944年に多分Yさんの1学年上級生と思われる同年に繰上げ卒業となった方々の殆どが戦死した状況も記されてる。(実際にこの卒業生の方々が門司港を出港されたのがこの葉書より前か後かは不明であるが、元々の教育年限が2年であったことを考えると恐らくこの後と思われる。)
いかに秀才でシッカリしていたとはいえ、十代の青年であったYさんにとっての衝撃は計り知れないものであったのではなかろうか…

小生のような平和ボケの戦後世代は、つくづく「途方もない時代」であったことを実感させられてしまう事実である…

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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