昭和19年5月16日 母千代子から三郎への葉書 同日に父母別々に便り???…

 

今回の母千代子の葉書は前回投稿した父芳一の手紙と同じ5月16日に認めらている。
同じ日に投函するのなら同封した方が料金も安上がりだし、受取る三郎にしても楽だと思うのだが…

何か理由があったのだろうか…

昭和19年5月16日 千代子から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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五月晴れの好季となりました。其後
三郎さんは変りなく元気で勉強して居る事
と思って居ります。家の方にも変りありません。
父様も芳子も元気で居ります。敬さんも日々
元気に向って居ります。十三日には芳子は光子
さんと板木へ行きました。十四日には兄様一寸と
帰り、十五日朝一番で帰隊。十八日頃から丸亀の
方へ一寸と行くらしい。母さんも元気で毎日をや
って居りますから安心して。■■様へ小包を昨日やっ
と出しました。目方が多くなって思うほど送られん。
暑くなりますから充分気をつけて勉強なさいよ。
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内容的にトピックはなく、芳一の手紙に詳しく書かれているものばかりである。

「十三日には芳子は光子さんと板木へ行きました」とある。
板木は(多分)芳一の実家があった町で三次から10km程離れた場所である。
ググってみたところ、「十三日」は土曜日であり女学校から帰宅した後に光子さん(友人と思われる)と一緒に祖父母の所へ行った様である。

さて、冒頭にも記した様に「なぜ父母別々に便りを出したのか?」が孫としてチョット気になったので考察してみた。

夫婦仲が悪かったのだろうか?
特別仲が良かった訳でもないだろうが、悪かったような状況は当時の手紙等からは感じられないし、小生も芳一や三郎、芳子からそうした話は聞いた記憶はない。

消印を確認したところ、千代子の葉書は「5月16日」であるのに対し、芳一の手紙は「5月17日」と翌日である。
多分、帰宅後に千代子から葉書を出した旨を聞いた芳一がもう少し詳しい内容を三郎に伝えてやろうと手紙を書いたのではないかと想像するのだが…

しかし、療養中の敬の事や戦地への出征が間近な康男の事などで家庭内がギクシャクしていたとしても無理はないので、その辺りの影響も排除できないとも思う。

まぁ考えてみれば、当時心配事も無く円満に暮らせていた家族など日本には存在しなかったのかも知れないし…

 

昭和19年5月20日頃? 三次中学同級生Yさんからの葉書 陸士に憧れるも学業に専念

 

今回は当ブログ4回目の投稿となるYさんからの葉書。

以前の手紙で熊本薬専への入学を果たしたYさんであるが、陸軍予科士官学校への想いも捨てきれないでいた様子が綴られている。

 

昭和19年5月20日頃? 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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其の後如何と案じている。もう一人前に堂々とやっている
事だろう。慣れた手付きで…。今年もう一回そこを受け
て見ようと思ったが、學業がどっちつかずで中途半端と
なるので取消にした。又、近視もあるから。何にして
も、俺も陸士を憧れていたのだから、此處に帰る以上は
此處を陸士と思い、動作もその様になる様に気を付けて
気合を入れてやっている。勉強の方面は勿論。
専門学校では出身中学を問われる事が多いの
で、三中の名聲を示す可くやっている。君の方は
どうだ。音信不通により一筆致すなり。では又。
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今回の葉書に関しては消印が不明瞭(と言うよりは見えない)であるため、実際にはいつ出されたものなのかはっきりしないのだが、束ねられていた順序或いは陸豫士受験をキャンセルした由の内容から恐らく5月20日頃であろうと判断した。

Yさんは既に熊本薬専への入学を終え熊本の地で新たな学業生活を始めていたのであるが、文面からは昨年に続き再度の陸軍予科士官学校への受験を考えていたがキャンセルした旨が書かれている。

当時、「お国の爲に」と陸海軍への志願が青年たちの憧れとなっていたことは間違いないだろうが、他の選択肢(言い方は悪いが「戦争に征かなくて済む」と云う選択肢)があればそちらを選択するのが人情だったのではないかと思う。
既に学徒動員も開始されており専門学校生徒だろうといつ召集されてもおかしくないが、軍関連の学校に比べれば可能性は低いであろう。
また、化学・薬学の専門知識があれば前線ではなく後方支援部隊等での勤務の可能性もある。
できるだけ危険の少ない環境に行きたいと考えるのは人間としてごく当たり前の感覚であると思うが、国家存亡の危機に直面し多くの若者達が命を賭して戦っている中では、その「当たり前」の感覚が多分に麻痺していた…

この手紙に「三原よ、すまん!」と云う気持ちを感じるのは小生だけだろうか…

 

昭和19年5月21日 妹芳子からの手紙 「大東亜戦争の決戦下で…」

 

都合4回目の妹芳子の便りである。

これまで通り大した内容ではないのだが、「大東亜戦争の決戦下で」と云うフレーズには少々驚いた。
凡そ12歳の女の子が遣うような言葉でななく、小生の記憶の中の「母芳子」のイメージではなかったから…

昭和19年5月21日 芳子からの手紙①
昭和19年5月21日 芳子からの手紙②

解読結果は以下の通り。

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兄様、長い間御無沙汰致しました。
ますますご健康でお務めの事と思
います。私も毎日元気よく
通學しております。
三次もだんだん夏らしくなり
四方の山の色緑濃く、太田川の
水も美しくなりました。
大東亜戦争の決戦下で尾関
山の下のぼたん畠も黒田製
材所の所の新道路も増産
の爲、皆畠となって
やさいが靑々とで
来ております。
それから久留島さん
が尾道の方へ転居
されて、その後へ君田の太
田校長先生が十日市の青年學
校長としてこられて家がないの
でお父さんが心配して上げてこら
れる事になりました。
尾関山のかいこんに女學校からも
国民學校からも出動して畠としました。
中學生も出動しています。
敬兄さんも元気です。熱も上がらず、顔色
も良く御飯も大分たべられますし、だ
んだん快方へ向かわれておられます。
これも皆お母さんお父さんのおかげで
す。いつも兄さんと歌を一しょに
歌った事を思い出し、今頃は一人でさび
しくうたっています。お母さんも時々
一しょに歌われます。それから、私が
毎晩兄ちゃんのきらいであった床をし
くので、お母さんが猫よりはまし
だと言って笑われます。お父さんも
お母さんも元気ですから安心し
てお務めにはげんで下さい。
家の事は心配なく。
さようなら
三郎兄様  夏休みを待つ   ヨシコ
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母芳子は小生が知っている限り、どちらかと云えば大人しい性格で過激な発言などとは無縁であった。
加えて当ブログ開始以降「多分に天然」であったことも判明しつつあり、小生の性格も母親からの遺伝だったことが明確になって来た昨今である。

今回投稿の手紙にしても「何か読みづらいなぁ?」と思ったら、ご丁寧に便箋にあしらわれている花模様を避けて書いている。
この「気が利きすぎて間が抜けている」的な思考回路もしっかり引継いでしまったらしい…

そんな芳子が「大東亜戦争の決戦下」などと云う”過激な”言葉を遣っていたのには少々驚いた。
おそらく当時は新聞やラジオなどで頻繁に喧伝されていたフレーズであり、特に過激ではなく「普通の」言葉だったのであろうと思うが…

その「大東亜戦争」と云う呼称だが、小生以降の世代にはあまり馴染みのないものであり専ら「太平洋戦争」と云う呼称の方が主流であったと思う。

「大東亜戦争」とは、開戦直後の昭和16年12月12日の閣議に於て決定された呼称である。
なぜ戦後「太平洋戦争」と云う呼称が主流になったのかに関しては様々な理由や考え方があると思うが、「大東亜戦争」と云う呼称はアジアの安定を謳った「大東亜共栄圏構想」を想起させ「日本がアジア諸国の独立運動の原動力となった」と云う事実が明確になってしまうため、これを隠蔽すべく連合国側が敢て「太平洋戦争」と云う呼称を主流にさせたのではないかと小生は考えている。

芳子の歌好きは以前の投稿でも書いたが、三郎も一緒に歌っていたのは初耳である。
小生にとっては「かなり怖い伯父さん」だったのだが…

「夏休みを待つ ヨシコ」とある。
8月生まれの芳子にとって誕生日もあり兄も帰省してくる夏休みはとても待ち遠しかったのであろう。

追伸
あの世の母上へ
×建康 → 〇健康
です。
愚息より

 

昭和19年5月25日 加治写真館さんからの返信 三郎の写真紛失??

 

今回の投稿はちょっと変わった内容である。

三郎が麻布の写真館で撮影した写真が届かず、葉書でその旨を写真館側へ連絡した事への返信である。

昭和19年5月25日 加治写真館さんからの葉書①
昭和19年5月25日 加治写真館さんからの葉書②

解読結果は以下の通り。

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拝復 昨日お端書届どきましてびっくり
致しました。お写真着きません由、おくれ
ましたが五月十三日に発送致して着きました
ものと思って居ました。もう一度おしらべ下さい
まして、有りませんでしたら、お面倒様
でもお一報願います。早速おつくり
してお送り申上げます。
何かとお手数かけまして申し訳有
りません。            敬具
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今日でも配達物の紛失は当然あるのだが、「追跡システム」などと云ったハイテクなど存在しない当時は紛失や誤配の確率は高かったのではないかと思う。(明確なエビデンスがないので個人的な感想として述べるにとどめる)
スマホやデジカメの無い当時の「写真の紛失」は今日のそれとは比較にならない程の「事件」であった筈であり、況や家族や友人から「早く送れ」と催促されていたであろう三郎にとっては「一大事」である。

しかしこの件に関する葉書はこれ一枚だけなので、この後の顛末は判らない。
見つかったのか、再度現像してもらったのか…
そしてこの時撮ったであろう三郎の「晴れの写真」も残念ながら小生の手許にはないのである。

それにしても「麻布の写真館」とは何ともハイソな感じであるが、実は康男や三郎がお世話になっていた芳一の知己のお宅が麻布にあったので自然と近くの写真館になったと思われる。

因みにググってみたところ加治写真館さんのあった「霞町電停前」は現在の六本木通りと外苑西通りの交差する西麻布交差点辺りなのだが、ストリートビューで見ると首都高高架下の駐車場にベントレーやロールスロイスが何台も停めてあるとんでもない場所のようである。

加治写真館さんのその後も少々気になるところではある…