昭和19年11月2~3日 康男の比島出征を知った三郎から芳一への手紙 「何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ち」

 

今回は遂に康男の出征が決まったとの連絡を速達で受取った三郎が芳一へ宛てた手紙である。

心中複雑なものがあった状況が読み取れる。

昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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拝復 速達本日(二日)受取りました かねて思っ
ては居ましたが康男兄さん遂に出動との事
何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ちになりまし
た。これが感激と云うのでしょうか。それに行先が比島
との事 又々一層この感じが大です
兄さんも日本軍人です 将校です この三千年来
の歴史を有する日本帝國が國運を賭して戦ってゐる
大東亜戦争の其の最も大切なる比島に出陣され
るのです これ程の喜びは又と有りましょうか
お父さんもお母さんも敬兄さんも芳子ちゃんも皆
一緒に康男兄さん萬歳を唱えて下さい そうして喜ん
で下さい 康男兄さんもさぞ嬉喜として出て行かれた
事でしょう 私も十ヶ月の軍人生活のお蔭か少しはこんな
氣持がわかる様になった様な氣が致します
私は今 康男兄さんの寫眞を前にしてこの手紙を書い
て居ります 夏休暇に康男兄さんと一夜を明かしたのが
当分のお別れとなりましたね 兄さんの寫眞を見てゐるとあの
朗らかなる笑いが聞える様な氣がします だが兄さんも私も
互に皇国護持の大任を有する益良夫です 八紘為宇
の皇漢に殉ずるべき責務を有して居ります
軍人たるものは必ず一度は是の如き事があります 私とても
近き将来必ずあります この間兵科の志望がありました
私は船舶 航空 歩兵 戦車 通信 高射 工兵と書きまし
た 航空兵にやられるかも知れません まだ適性検査が
ありませんが何兵になっても国の爲です
一年生が二十九 丗 丗一の三日間に入校しまし
た 三中からは三人位です 丸住は海兵に行ったらしいです
次に康男兄さんの事が忙しくなくなったら文具類を送
って頂きたいのですが 先づ手簿(紙質の良いのがあればそれが可いのですが)
歯ブラシ 吸取紙若干 計紙(全計紙)等が欲しくあります
廿九日には■■様方に行き非常に御地走になりました(餅)
本日(三日){この手紙は両日に渡って書きましたから}も外出する予
定ですが 遥拝式があって少し遅くなります 次は十二日
です。これ(手紙)は■■様方より出しますからあまり大ぴらにせられ
ぬ様にお願い致します
忘れて居ましたが廿九日にはちゃんと小包は着いてゐました
異常なく故郷の香髙かく頂きました 有難うございました
本日(三日)は珍らしく雨天です 明治節に雨の事は少ないです
ね それから顧みれば今日私の合格発表があったのですね
思い出すと何か因縁の様です あの日は快晴でしたね
迂頂点になったのですね お母さんにも申し上げて下さい
あれから一年になります 早いものです
では要用のみ 敬兄さん 芳子に体に氣を付ける様
お傳え下さい            敬具
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「康男出征日決定 フィリピン島」旨の速達が届いたのであろう。
既にフィリピン島には米軍が上陸し激しい戦闘(と云うよりは圧倒的不利な状況下で壊滅的な打撃を受ける日本軍)が行われており将校生徒たる三郎もその状況はある程度知っていたと思われ、覚悟はできていたであろう…が
「何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ち」
と云うのが正直な感情だったと思う。

当時、康男や三郎など軍人にとっての「お国の爲」とは「八紘為宇の皇漢に殉ずる」と云うことであった。
「身を挺して国を、家族を護る」ことが使命だったのである。

「これが感激と云うのでしょうか」
「これ程の喜びは又と有りましょうか」
「皆一緒に康男兄さん萬歳を唱えて下さい そうして喜んで下さい 康男兄さんもさぞ嬉喜として出て行かれた事でしょう」
これらの言葉は三郎の本心では無かったであろう。いやむしろ逆であったと思う。
戦争と云う狂気が「悲しみ」を「喜び」に書き換えさせているとしか思えないのは小生が戦争を知らない世代だからであろうか…

祖父芳一も、伯父三郎も、母芳子もこの当時の家族や康男の様子を話してくれた事はないので想像でしかないが、
本人も家族も皆「本当に悲しく苦しかった筈だ!」としか思えない小生である…

康男 昭和19年頃 撮影日不明

 

昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部 三雲豊造部長からの巻き手紙 康男出陣への壮行…難読(-_-;)

 

前回の投稿で愈々康男の出陣が決定した旨をお伝えしたが、今回の投稿は康男の勤務先である日本興業銀行の人事部長から父芳一宛に届いた巻き手紙である。

 

昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部長 三雲豊造部長①
昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部長 三雲豊造部長②
昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部長 三雲豊造部長③

全文解読すべく鋭意努力したが惨敗であった。
とりあえず全体の意は理解できる程度には解読したつもりだがかなりの箇所で???があった。(完全に解らない部分は〇で表示したが他にも怪しい部分が結構あった。)
解読できる方いらっしゃったら御教示乞う。

(とりあえずの)解読結果は以下の通り。

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拝啓 秋冷の候
愈々 御多祥賀に候
〇〇 本日は 〇〇
嬉しく〇〇 今度
御令息 康男殿には
南方第一線に御出陣
の趣 衷心より御勇戦
と武運の長久とを
祈っている次第に御座い益
戦局愈々重大化し
當地も三日にあげづ
空襲警戒の鳴渡る
状態にて 一億緊褌の
秋 今を措いて何日有る
へき哉と〇〇益
益々御自愛の上 御
活躍の程 祈り益
先は右御挨拶をと
如斯御座益
敬具
十一月六日
三雲豊造
三原尊堂
〇〇〇
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日本興業銀行が「勤務先」ではあるのだが、実際には昭和17年1月の入社直後にオリエンテーションで出社するも同年2月には陸軍二等兵として臨時召集~入隊しその後は(多分)一度も出勤していないと思われる。
日本興業銀行入社に関しては以前の投稿を参照願う

https://19441117.com/2019/04/23/

戦況の拡大・悪化に伴い多くの若者が戦争に駆り出された時代である。
殆ど出勤していない(できない)新入社員への人事部長からの「通達」が戦地への壮行・激励の手紙である。
手紙を出す側も受取る側も複雑な気持ちであったろう…いや、悔しかったであろう。

昭和19年11月6日 三雲豊造氏封筒宛名面
昭和19年11月6日 三雲豊造氏封筒差出人面

因みにこの手紙は11月6日に出されたものであるが、封筒に芳一が「康男出帆ノ日着」と赤字で記入している。

康男の出陣は昭和19年11月9日であった。

 

昭和19年11月23日 「新嘗祭」⇒「勤労感謝の日」なのに…午後四時から徹夜の教練…

 

今回の投稿は「新嘗祭」の祭日に書かれた手紙。

祭日ではあるのだが「午後四時から明朝迄徹夜の教練」とある。
戦況は悪化の一途を辿り国家の危機であることを考えれば当然なのだが、現代の「平和ボケ世代」からすればつくづく大変な時代であったと実感する小生である…

昭和19年11月23日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年11月23日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。

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拝啓 其の後お変りは有りませんか。私は至極元氣に毎日々々を
送って居りますから御安心下さい。本日は新嘗祭で中隊にて休養して居
りますから近況をお報せ致します。所で今日は午後四時から明朝迄徹夜
の教練があります。仲々行軍距離も長く激しい方です。試みに課目をお知ら
せ致しますと「夜間神速ナル機動ヲ以テ所望ノ地点ニ進出シ敵ヲ急襲スル
要領」と言うのです。だが浅間山の教練を思えば何でもありません。まだまだ
東京は暖かですから。何といっても浅間は(あの時は十月の半ばでした)氷がはる、霜柱
が一寸五分位もちあげる程です。そうして雨がよく降り又浅間が一大轟音と共に煙を
吹き上げそれが雨と一しょにびしょびしょと降って冷たいのに加えて気持の悪かった事は
筆紙に云いつくせません。ある晩などは浅間が眞赤な溶岩をふいて山の頂上を
ながれてゐるのを見ました。 仲々雄大です。そう云う経験がありますから大丈夫です。
ここで一大悲報をお傳えせねばならぬ私の心をお察し下さい。それは私達の
最も敬愛する前田区隊長殿が転出されました。入校以来十ケ月、私を
かくまで育てて下さった区隊長殿と別れるのは実に断腸の思(い)です。だがしかし
区隊長殿は近くの航空士に行かれるのですからせめての喜です。
昨夜はお別れの会を開いて皆泣きました。実に残念です。皆と「こんな良い区
隊長殿は他に居られない」と云って居ります。が大命です。止むを得ません。
次の区隊長殿は第十区隊の陸軍大尉岡田生駒区隊長殿が二ケ区隊を持たれる
事になり私達の新区隊長殿になられました。岡田区隊長殿は私達も同じ
中隊の区隊長殿として入校以来よく知っていますから安心です。
次に、この間行われた航空の適性検査について、この検査は航空の方の人が
来られて実に綿密に行われました。精神機能、内科、眼科、耳鼻科等々
各科に軍医殿が精密に検査されます。私は耳鼻科以外は全部甲(甲が
最上です)で喜んでゐたのですが、最後に耳鼻にて肥厚性鼻炎自覚症とい
うことになって乙になりました。中耳炎の方は全然異常なし、聞く方も人一倍
よく聞えました。私の鼻はなおさねば不可ませんか。効能百%で手数のいらぬ
薬があれば…。私の体はこれ程精密にやっていただいたのですから自信がつきま
した。又お父さんお母さんに感謝してゐます。それでまた兵種志望があるのですが、航空は何ともわか
りませんが私は船舶兵も好いと思ってゐます。志望通りに行くかどうか
あれでも航空兵になるかも知れません。
小包は異常なく当着。非常に嬉しくありました。康男兄さんの折襟の
服を着て屋上で寫ったのは何時頃ですか。仲々立ぱですね。私も早く
将校になりたいです。それから日本刀の件は身に余りますね。実(本?)当に早く見たい
ものです。それから、お隣りの森島の国民学校の四年生の陽子様より
慰問文を頂きました。お禮を云って下さい。
では益々寒くなりますからお躰を大切に。
この手紙は二十三日に大部分書いて二十五日に出します。
次の外出日は未だ不明。十二月の三日頃かとも思ってゐますが分かりま
せん。分かり次第直ちにお報せ致します。
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三郎の夏季休暇(8月10~22日頃)以降はそれまでに比べると小生の手元に残っている手紙・葉書が少なくなっている。
実際に少なかったのか或いは単に手元に残っているものが少ないのかは定かではないが、6月のサイパン陥落による絶対防空圏崩壊~本土空襲開始などによる戦況の悪化で国民生活への影響が大きくなったことも原因しているのであろう。
実際に三原家に於ても長男康男が激戦のフィリピン島へ出陣しており、父芳一以下家族の心労は大変なもので手紙どころではない部分もあったと想像される。(ただこれは三原家に限ったことではなく日本全体の多くの家族で勃発していた状況であるが…)

今回投稿の三郎が芳一に宛てた手紙も二十日ぶりのものである。
そのせいもあってか一枚の便箋の表裏に”びっしり”と書き込んだ感がある。
内容も徹夜教練の話に始まり前田区隊長転出~航空適性検査~届いた小包の事等色々と書かれている。
特に航空適性検査の件では花形である航空兵になりたい気持ちと、より危険度が髙い(と思っていたであろう)航空兵に敢てなるよりは船舶兵でも…と云った気持ちとが相半ばする心情が表れている。

現代の我々からすれば「できるだけ安全な部署へ…」と考えるのがまっとうだと思うが、当時(特に軍人)は「国家、家族、子孫そして何よりも自信の名誉を守護る」と考えるのが当然であった。
その精神発露の最たるものが「神風特別攻撃隊」いわゆる「特攻隊」であろう。
小生は「自らの命を国家、家族、子孫そして何よりも自信の名誉を守護る爲に捧げた」特攻隊員は間違いなく「英雄」と考えるが、一部からは「犬死」「無駄死」等の中傷もあるが日本人として許されない暴言である。

ただその「暴言」も「英雄」に先立たれた御母堂様だけには許されるのかなぁ…と考えてしまう小生である…

 

「素養検査ニ関スル筆記」vol.1

 

小生の手許には三郎が記した「素養検査ニ関スル筆記」なるノート(メモと言った方がよいかも…)が遺っているのだが、これは陸軍予科士官学校の各教練に於ける種々の動作や行動のマニュアル或いは理論説明の様なものである。
今回以降数回に亘ってこの内容を投稿してゆく。

 

素養検査ニ関スル筆記 表紙
素養検査ニ関スル筆記 通則1
素養検査ニ関スル筆記 通則2

解読結果は以下の通り。

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     各個教練(基本)
通則
一、各個教練ノ目的ハ諸制式及諸法則ニ習熟シ
  部隊教練ノ確乎タル基礎ヲ作り併セテ軍隊
  教育トノ連携ヲ特ニ密接ニスルニ在リ
二、本教育ヲ通ジ特ニ服従心 堅忍持久 闊達敢為
  規律節制等ノ諸徳ヲ涵養スベシ
三、各個教練ニ於テ生ジタル固癖ハ常ニ固著シテ之ヲ
  矯正スルコト難ク其ノ不備ハ部隊教練ニ於テ之
  ヲ補ウコトモ亦難シ 故ニ周密厳格ニ之ヲ行ウ
  ト共ニ教練ト連撃(繋?)スル体操ノ利用ニ留意シ以
  テ動作ノ正確ヲ期スルコト緊要ナリ
四、教練実施ノ要ハ巧妙ニアラズシテ熟練ニ在リ
  而シテ熟練ハ方法ノ適切ナルト復習ヲ厭ハザ
  ルトニ依リテ得ラルルモノナリ 故ニ各個教練ハ各
  学年ヲ通ジテ絶エズ之ヲ行ウヲ必要トス
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ご覧頂いてお分かりの通り、内容的には左程難しいことが書いてあるわけではない。
しかしながら個々の教練内容に関して目的や具体的な方法が示されているのは(特に)短期間で体得せねばならなかった将校生徒たちにとっては重要かつ有難かったのではないかと思う。

当時の日本軍は「やる気と能力のある奴だけが残る」世界ではなく、「短期間で大量のやる気と能力のある奴を一人前の将校に育成することが絶対」とされていたのである。

因みにこのメモ帳はA5サイズのノートを上下半分に切って使っている。
愈々物資不足も深刻化していた様である…