昭和19年4月23日 三次中学同級生MOさんからの手紙 大竹海兵団

 

今回は三次中学同級生のMOさんからの手紙。

MOさんは三郎の幼馴染で、前回投稿のYさん同様仲の良い友人である。

 

昭和19年4月23日 幼馴染のMOさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓
梅花去り櫻花咲き乱れている今日、貴様
は猛勉強をしている事だろう。僕等も此の間
の十二日より十六日までの五日間、大竹海兵團でき
たえられたよ。その様子は早く言えばむちゃくち
ゃだよ。日に体操六回。これには小生も困ったよ。
又カッターは山中(ヤマチウ・サンチウ)どうもにがてだ。無理もないよ。
次に學校の事はそう変って居ないよ。昨日便所の
掃除をしたら、校長先生が非常にほめたよ。之
は五年生が大竹で習って来て自らやろうという事に
なったので、五年の鼻は非常に高いよ。又、北部大会が
五月九日頃ある事になっているが、今度は僕も
俵と二千米に出ようと思っているが、勝負は時
の運だし又、日も無し。課外が火水木金土とあり
日曜も學校だし非常にのびるよ。
まあこのくらいだ。
それから写真が出来たよ。まちどおしかったろうが
こらえてくれ。
          さようなら
              之を後にやぶれよ。
                はづかしいから。
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まずは「大竹海兵団」をググってみた。

海兵団は、海軍兵として志願・徴兵された新兵・海軍特修兵たるべき下士官などが数か月間にわたり基礎教育・訓練を受けるため、鎮守府、警備府に設置されていた機関で、大東亜戦争開始以降人員受け入れ拡充のため各機関で分団等が増設された。
大竹海兵団も昭和15年に呉鎮守府の呉海兵団大竹分団として設置され翌16年に大竹海兵団として独立した。

今回のMOさんたちの場合は5日間の体験入団の様なものだったと思われるが、
「その様子は早く言えばむちゃくちゃだよ」
とある通り、現実的には陸海軍関係学校が進学先として大きな比率を占めていた当時、指導する側も体験する側もお互い真剣そのものだったであろう。

因みにこの大竹海兵団は終戦後海外からの引揚船の入港地となり、氷川丸はじめ多くの引揚船から40万人以上の在外の軍人や民間人が祖国日本への帰還を果たしたとのこと。

MOさんはスポーツマンだったようで、近く行われる予定の競技大会で二千メートル走に出場したい旨書かれているが、そういえば以前に投稿したMOさんの手紙の中に三郎から靴を貰った件が記されていたが、ひょっとすると陸上競技用の靴だったのかも知れない。

「又カッターは山中(ヤマチウ・サンチウ)どうもにがてだ」の”山中”の意味が不明である。三次中学の先生の名前だろうか…

先日の千代子の手紙にあった通り、MOさんの写真を同封したようだが残念ながらその写真は残っていない。
現代ではメディアの発達により写真に対する”有難み”が薄れてきているが、当時の様子を見ていると写真(特にポートレート)と云う媒体が、人々の心にいかに多くの安らぎや喜びをもたらしていたのかがよく判る…

 

昭和19年4月23日 妹芳子から三郎への葉書  ありがたう と さやうなら

 

今回は妹の芳子からの手紙。

内容的にはなーんの変哲もない葉書である。
歴史的な意味合いなど一切なく単なる依怙贔屓だと言われても仕方ないのである。
なぜなら小生の母だから…

昭和19年4月23日 芳子からの葉書

解読結果は以下の通り。

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兄さん、お手紙ありがとうございました。
學校までの距離が約二粁位ありますが
毎日元気で登校してもあまり体はつか
れません。三次も晴天の日には夏のような
太陽がかんかんと照りつけてとてもあつい
です。近頃はたびたび作業に出動するこ
とがあります。冬で色が白くなっていた
のが、大分黒くなって来ました。
お父さんもお母さんも元気ですから安心
して下さい。   さようなら   芳子
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とまぁ、やはり何の変哲もない葉書なのだが、投稿する以上は何か意味を持たさねば…と暫し眺めたところ、ちょっと面白い事に気がついた。

解読文に関しては小生が「現代仮名遣い」に改めているが、原文(画像)では「ありがたう」・「さやうなら」と「旧仮名遣い」で書かれている。
戦時中だから当たり前なのだが、これまで投稿してきた芳子よりも年上の他の人たちの文章を見ていると、案外「現代仮名遣い」と「旧仮名遣い」とが混在しているのである。

「現代仮名遣い」は発音と表記を出来るだけ一致させる(「表音的表記」にする)ことで従来の「旧仮名遣い」での複雑(不便)さを解消したものである。
しかし「現代仮名遣い」が正式に使用されたのは戦後になってからであるにもかかわらず、既にこの当時「表音的表記」である「現代仮名遣い」が一般化していたと云うことが意外である。

若い人には聞きなれない話かも知れないが、料理の「さしすせそ」の例が判り易いかも知れない。
さ → 砂糖
し → 塩
す → 酢
せ → 醤油(せうゆ)
そ → 味噌
なのだが、「せうゆ」と表記しても「しょうゆ」と発音していた。
確かに判りづらい…

勤労奉仕作業で日に焼けて「大分黒くなって来ました」と書いているが、芳子は元々いわゆる「地黒」で本人は気にしていたようであった。
小生もその血を継いだようで「地黒」である。
因みに姉は父親に似たのか割と色白で、芳子は事あるごとに
「マサヒロ(小生の名前)がクロうて良かった。ケイコ(姉の名前)がクロかったらほんまにかわいそうじゃったもんねぇ。」
と小生の気持ちなど微塵も考えていないことを口走っていたものである…

 

昭和19年4月24日 三次中学同級生Mさんから葉書 陸士受験迫る

 

今回も三次中学同級生からの葉書である。

前学年(四年生)の時に受験した同級生の合格結果が新たに報されるなか、数週間後には今年度の陸士受験が始まると云った異常事態である。
受験生の心中や察して余りある…

昭和19年4月24日 三次中学同級生Mさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 【砂田(九州帝大付属工専)、斎藤(同じ)、広畠(東京電機校)
へ合格す。乱筆御免。祈大奮斗。】
三原君、永らく失礼した。俺も大元気で来るべ
き決戦(入試)に萬全を期している。先づ朗報
を知らせよう。吾々新五年生は、四月中旬大竹
海兵団に短期入団して帰校した。そして海兵団の
長所を採って自発的に三中改革を断行した。
即ち、先づ汚つた便所を徹底的に美化し、その美
化掃除、郷士報国隊による二列登校等
を始め、先日、校長閣下より賞詞を戴いた。
三次中学から陸士へ九十一名、海兵五十三名受験する。躰
に気を
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最後が突然途切れた形になっているのは、この葉書が往復葉書で続き部分が復信部分に記されていたが、三郎が切り離して使用したためである。

受験に失敗して落ち込んでいる暇など一ミリも無い。
学校の授業時間ですら勤労作業に変更され、勉強する時間さえ奪われている中での受験である。
冒頭にも触れた様に、当時は学徒動員のため大学、大学予科、高等学校高等科、専門学校若しくは実業専門学校に於て六ヶ月の修業短縮が実施されており、軍関係学校に関しては十八~二十年度まで受験~入学時期が繰上げられている。
三郎たちの世代はこの影響をもろに受け、修業短縮だけでなくそれまでは年間四ケ月であった勤労動員が将にこの昭和十九年の三月から通年動員に変更されたことに伴い、三郎の同級生たちも呉の海軍工廠などへ長期間動員されている。

※詳細は以下文部科学省のHPにて参照頂きたい。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317693.htm

大竹海兵団の威力恐るべしである。
先日投稿したMOさんの手紙にもあったが、相当絞られ影響を受けたのであろう。
海兵団に比べ我が母校のたるんでいる部分が目について我慢できなかったようである。
まぁ、確かに便所は綺麗でなければいけないと思う…

 

昭和19年4月25日 三次中学同級生Sさんからの葉書 三次も春闌(たけなわ)…

 

本日も三次中学同級生からの葉書である。

さすがに内容的に似たような(決して便りを出された方々を揶揄している訳ではない)投稿が続くと閲覧して下さる方々もつまらないのでは…と考えてしまうのだが、内容は似ていてもあの時代の真っただ中で一生懸命生きていた人々の声や気持ちを少しでも多くの人々に知って頂くためのブログであることを再認識して続行させて頂く。

昭和19年4月25日 三次中学同級生 Sさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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春も漸く闌となりました。【一昨日国語の時間に予習不足で
岡部先生に相当余が
しぼられた。(ヲハリ)】
相変らず元気で練成に励んで居る事と思う。
こちらは皆元気だ。
校庭の桜も正に満開。次にニュース。
上川先生が因島へかえられた。又、木原先生が広島へ
轉勤なさった。沢井先生が(軍曹)教練の先生
として来られた。今頃は軍事教練として手旗・
モールス信号を習っている。
陸軍関係、今年は約百名、海軍関係約五十名
八木君が広工と高等商船と二つパス。広工へ行ったらしい。
御健康を祈る。乱筆にて失礼。
では又。
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「闌(たけなわ)」など当時の若者は難しい漢字を遣っていたんだなぁ…と感心しながら、ちょっとググってみた。

「宴も闌となりましたが…」などと結婚披露宴や忘年会などでよく耳にする言葉であるが、「闌」とは「最高潮」を指すものと思っていたが、正しくは「盛りを少し過ぎた頃合い」を指すらしい。
確かに一番盛り上がっているときに水を差すのは無粋であろう。

さて、故郷三次も春闌となり母校の桜も満開との報せ。
先日の母千代子の手紙にあった様に、さすがに戦時下の非常事態に於て花見に興じる人はいないが、それぞれの心の中には例年の様に桜を愛でる気持ちが残っており、三郎もそのあでやかさを思い出したであろう…。

高等商船と広島高工に合格した同級生の八木さんの動向に関しては、以前投稿したMOさんの情報では「高等商船に行く」となっていたが、今回は「広島高工」となっている。
どちらかの情報が間違っていたのか、進学先を変更されたのかは不明であるが、当時「高等商船」は海軍に直結した学校となっており親・親戚などからの反対等あり考え直したのでは…と小生は感じている。

国家全体が戦時色に染まった時代である。全ての国民にとって厳しい状況ではあったが、自分の進みたい道が学問や研究であった若者たちにとっては特に厳しく辛い時代であったと思う。

 

昭和19年4月30日 三郎から父芳一への手紙 天長節大観兵式での大感激を報告

今回は三郎が父芳一に宛てた手紙の投稿。

昭和19年4月29日天長節に行われた大観兵式に召集された際の大感激を興奮冷めやらぬ様子で父へドヤ顔(?)で報告している。

現代でも天皇陛下を至近距離で”拝顔”できる機会はかなり稀だが、当時の国家体制から考えれば”ドヤ顔”どころか一生の自慢話であり、青年三郎の興奮度は相当なものであったであろう。

昭和19年4月30日 三郎から父芳一への手紙

解読結果は以下の通り。

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本丗日外出シテ確カニ小包受取リマシタ。開クノモモドカシク
嬉シクテ故郷ノ香ガ致シマス。色々ト心配ヲオ掛ケ致シテ済ミマセン。
昨廿九日天長節ニハ大観兵式ニ陪観シ実ニ二十米モ離レナイ
所ニ大元帥陛下ヲ仰ギ、恐懼感激所措ク知ラズト云フ所デス。
神々シキ御姿ヲ生マレテ始メテ仰イダノデスカラ當然デス。
陛下ノ御後ニ、三笠宮、高松宮殿下ヲモ拝顔致シマシタ。
東條サンモ勿論、私ノ中隊ノ次ノ中隊ニ東條サンノ息子サンガ
二年生ニ居ラレマス。非常ニ良ク似テ居ラレマス。眼鏡モツルガ上
ノ方ニツイタ円形デナイノヲカケテオラレマス。背丈ハ小サイ方デス。
毎日見マス。ソレカラ、私ノ學校内デ寫シタ寫真ガ出来マシタ
カラ、オ送リ致シマス。コレハ夏休暇ノ時ノ服装デス。余リ寫真
屋ガ上手デハアリマセン。東京都内ニ外出シテ寫シタノガ五月上旬
ニ出来上ル予定デスカラ、コノ寫眞ヲ分配スルノハ考ヘテ行ッテ下サイ。
東京ノ写真屋デ撮ッタノハ半身デ、ヤハリ十枚アリマスカラ。コノ寫
眞ヲ森保ガ二枚位貰ヒニ来ルカモシレマセンカラ、来タラ渡シテ
下サイ。
兄サンノ躰ノ具合ハ如何デスカ。芳子ハ元気デスカ。
オ母サンモ無理ヲセラレヌ様オ願ヒ致シマス
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既にお気付きのこととは思うが、今回の手紙は「漢字とカタカナ」で書かれている。
戦後世代の人間にとって”カタカナ”は外来語を表すイメージが強いが、戦前教育では”ひらがな”より先に”カタカナ”を教えており、公文書なども同様に「カタカナ混じり文」であったことなどから当時の人々は”ひらがな”よりも”カタカナ”の方に馴染みがあった。
ただ普段は「ひらがな混じり文」であったのに何故この手紙を「カタカナ混じり文」で書いたのかは不明である。
飽くまで想像であるが、大元帥(天皇)陛下はじめ皇室の方々の様子を記す関係で公式文書並みに格式のあるものにしたかったのかも知れない。

大元帥陛下、三笠宮、高松宮殿下に続き、東條首相のことに触れているが、皇室の方々に比べ「東條サン」と呼んでいるところが興味深い。
三郎が、当時陸軍大臣、参謀総長も兼務していた東條首相を小ばかにしているとは考えづらく、どう云った状況なのか考えてみた。
小生は子供の頃母(芳子)が「東條さんはいいおひと~♫」と唄っていたのを記憶しており、当時そんな流行り歌があったのであれば「東條サン」と云う呼称も尊称に近いものだったのかも知れない。はたまたそのご子息が陸軍予科士官学校の一学年上の中隊にいることで親近感があったのかもしれないが…

この時の天長節大観兵式の様子がYouTubeにあったのでURLを添付しておく。
この画像のどこかに三郎が写っているかも知れない…
https://www.youtube.com/watch?v=bAuGgqsepzk&list=PLfCTKikq6ntkik5vS02YTA_T30i5E7yJ3&index=9&t=12s

ある程度年配の方々には釈迦に説法となってしまうが、一部ご存知ない方のために説明させて頂く。
「天長節」とは、明治元年から昭和23年までは天皇の誕生日で当時は4月29日であった。終戦後昭和24年から「天皇誕生日」に変更され、昭和天皇崩御直後に「天皇誕生日」ではなくなったがゴールデンウィーク期間の休日であったことなどから「みどりの日」として祝日のまま存続。平成19年に「昭和の日」と名称変更され現在に至る。
ただ、小生などの昭和に生まれ育った世代には「4月29日=天皇誕生日」が染みついてしまっている…

写真を同封していた様だが、確実ではないが以前投稿した下の写真ではないかと思う。

昭和十九年四月九日 三郎十八歳 陸軍予科士官学校にて

 

昭和19年5月2日 三次中学・陸軍予科士官学校先輩Yさんからの葉書 差出地は千葉県四街道 陸軍野戦砲兵学校に…

 

今回は当ブログでも何度か投稿した三次中学・陸軍予科士官学校の先輩のYさんからの手紙。

前回(7/14)に投稿した昭和19年4月8日付の手紙の差出地は神奈川県の相武台(陸軍士官学校)であったが、今回の手紙は千葉県四街道の「陸軍野戦砲兵学校」となっていた。

昭和19年5月2日 Y先輩からの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 観兵式陪観せられしや。此度は
我等が参加しなかったから貴様等には
淋しかったろう。外出しているか。大いに
鋭気を養うべく、しゃばの空気にまけんで
しっかり外出し給え。小生、此の度満州へ
行くことになった。本校では、昨日記念祭
あり。面白いものを見たよ。六月頃会おう。
元気で勉強し給え。他の面々は何処。
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差出し元住所は「陸軍野戦砲兵学校 教導聯隊 第八中隊 見習士官 〇〇〇〇」となってる。
早速、「陸軍野戦砲兵学校」をググってみたところ、以下サイトにて詳しく説明されていたのでご覧頂きたい。

https://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/003e75e131f09cba13340cdc966f9597

こちらのサイトの説明によると、「160名ほどの募集に対して、1943年には47倍もの受験者があったという」とあり、相当の難関であったことが伺える。
父芳一が三郎に「Y先輩に負けるな」と言うほど優秀な人物であったが、この難関校に入学していることでその事実が明確になった。

しかしながら同サイトには、この1944年に多分Yさんの1学年上級生と思われる同年に繰上げ卒業となった方々の殆どが戦死した状況も記されてる。(実際にこの卒業生の方々が門司港を出港されたのがこの葉書より前か後かは不明であるが、元々の教育年限が2年であったことを考えると恐らくこの後と思われる。)
いかに秀才でシッカリしていたとはいえ、十代の青年であったYさんにとっての衝撃は計り知れないものであったのではなかろうか…

小生のような平和ボケの戦後世代は、つくづく「途方もない時代」であったことを実感させられてしまう事実である…

 

昭和19年5月2日 三次中学同級生Yさんからの葉書 新計画とは…

 

今回は三次中学同級生のYさんからの葉書。

Yさんは3月までの進学受験の結果が芳しくなく、落胆の中で三郎との葉書のやり取りを行いながら、5月末に迫った陸軍予科士官学校受験に向けて頑張っている。

昭和19年5月2日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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三原君、其の後元気に
て日夜将校生徒とし
ての任務に邁進している
ことと思う。降って小生も恙なく、来るべき二十八日に向い
準備を進めている。安心して
呉れ。學校も新計晝の基に
着々とその歩を進められ、今では
清潔・整頓・規律ある日課が行
われている。今日はこれにて失礼。
体を大切に。
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前(昭和18)年度に三郎が陸軍予科士官学校を受験したのが9月20日であったから、4ヶ月近く受験が早まっている。
受験する側にとっては日程が早まっただけでも大変なのに、その受験に必要な時間が戦争激化による学徒動員などに奪われてしまい満足に勉強すらできない。
受験生の焦りと不安は募りに募ったであろう…

葉書の中に「學校も新計晝の基に着々とその歩を進められ」とあるが、その「新計晝」とは当時の政府がいよいよ不利となった戦局挽回の為に非常措置として定めた「決戦非常措置要綱」の事と思われる。
具体的には
十九年二月
中等学校程度以上の学徒は「今後一年、常時之ヲ勤労其ノ他非常勤務ニ出動セシメ得ル組織体制ニ置キ必要ニ応ジ」動員することに決定した。
 同 三月
「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定し、動員の基準を明らかにした。この中において、
1)学徒の通年動員
2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置
3)教職員の率先指導と教職員による勤労管理
などが強調された。
文部省はこの決定に基づいて詳細な学校別動員基準を決定し、三月末指令した。
※文科省HP 「トップ > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行」より

軍関係学校受験生に対しては動員先で勉強や授業等の時間が配慮された等の情報が他の同級生からの便りにあるが、軍需工場での重労働の合間の勉強では体力的にも精神的にも非常に辛いものであったに違いない。

戦後世代が経験した「受験戦争」とは比較にもならない苛烈さであったが、その「受験戦争」すらドロップアウトした小生など情けない限りである。