今回は三郎が母千代子へ宛てた葉書。
前回投稿した父芳一への手紙と一緒に認めたのであろう、翌日付にて投函されている。
解読結果は以下の通り。
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前畧 二月七日夜出された封書
本十三日受取りました 待ち兼ねて
居たので非常に嬉しくありました
三次に雪が降ってゐる様ですが皆元氣
との事安心致しました 此方も時々雪
が降りますが大した事はありません
雪の朝でも張切って上半身裸体となり
予科自慢の裸体操をやります
第二次の一年生が又入校して来て中
隊は満ち満ちて居ります 一年生も
大いに張切って居ります 三中からは
来なかった様ですね
お母さんの手紙を讀んで居ると家の
中が眼前に浮かんで来ますよ
外は雪がしんしんと降り人の足音がキシキシと聞える等 実に実感
が出て居ます 敬兄さんは寒さに負けては居られませんか 氣持ちは充分
丈夫に持って そうして用心して下さい 芳子ちゃんも日曜迄學校に行って
居るとの事 御苦労ですね だが何處も同じです 兄さんも日曜日
に作業等やってゐますよ 日髙君は神経痛で熱海の方へ療
養に行って居り阿野君も「カリエス」か何かで入院して居る様です
二人の兵科は不明ですが多分地上と思います お父様にも葉書は
出しましたが十一日に外出したら完全にとってあって非常に嬉しくありました
厚くお礼を申し上げて下さい 次は三月十一日と思いますが其れまで
外出を楽しみに大いに張切ってやります それから今日三原の修
君から葉書を頂きました 修君も広で働いて居るのですね
私もそれを思い感謝して居ります私達の様に満足に勉強で
きる所は他にありませんからね では風邪にかからない様にお願い申します
さようなら
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「第二次の一年生が又入校して来て中隊は満ち満ちて居ります」とあるが、
三郎たちは陸軍予科士官学校第60期生で昭和19年2月入校であるが、次の61期は戦況悪化における将校の消耗を補うべく多数の生徒を採用したため、昭和19年11月に1648名、昭和20年2月2700名、4月に幼年学校から900名が入校している。
3回に分かれての入校となったのは、三郎たち60期が航空士官学校や座間の陸軍士官学校(相武台)へ進学して部屋が空くのを待ったためである。
上記の状況からすると三郎は昭和20年4月に本科(陸軍士官学校)に入校したと思われる。
「日髙君は神経痛で熱海の方へ療養に行って居り阿野君も「カリエス」か何かで入院して居る様です」
おそらく日髙君、阿野君ともに三次中学の先輩か同級生と思われる。
「カリエス」とは結核菌などの感染による脊髄の病気で、結核が「国民病」と恐れられていた当時は大変心配な状態だったのではないかと思われる。
次兄の敬もそうであったように「病気である上に(お国の為に戦えないと云う)世間的に肩身の狭い思い」をしながら生きることは、本人はもとより家族や親戚も辛い思いを強いられる時代であった。