今日は令和になって最初の8月6日
「原爆の日」である。
昭和20年8月6日
芳子(小生の母)は当時三次高等女学校の生徒で、午前八時十五分は勤労奉仕をしていた。
あの日の様子を話してくれたことがある。
朝草むしりしよったらね、広島の方が”ピカッ!”と光ったんよ。
「今、広島の方が光らんかった?」
ゆうて皆で話しよったら、そのうち
「広島がおおごとになっとるそうな」
云う噂が流れてきてね、
「どうなったんかね」
言うて心配しとったら
夜になって怪我人が汽車やらトラックやらでいっぱい運ばれてきたんよ。
そりゃ大変じゃったんじゃけぇ。
その後どうなったのかは話してくれなかったのだが、
今回ブログに投稿する関係で当時の状況をググったところ、
以下の記事を見付けた。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=48894
まさに芳子の同級生たちの記事であり、恐らく彼女も救護にあたった筈である。
「修羅場」だったのであろう…
小生に話さなかったのは、思い出したくない記憶だったのだと思う。
芳一(小生の祖父)は被爆者手帳を持っていた。
直接被爆した訳ではないが、当時広島市にいた次男の敬の安否を確認するために、翌日か翌々日に広島市に入っており、入市被爆者となった。
当時の広島での状況については芳一からも芳子からも聞いておらず、また手紙や書類も残っていない(未だ紐解いていない手紙類もあるが昭和20年3月頃を最後に残っていない様子である)ので想像するしかないのだが、敬は爆心地からは4Km程離れた祇園町と云う所に住んでおり、爆発による直接の被害は受けていなかったと思われる。
しかし、この大惨事は元来病弱であった敬のその後の健康状態に少なからぬ影響を与えたであろう。
三男の三郎は当時、陸軍士官学校(神奈川相武台)在学中で被災していないが、戦後昭和30年頃から爆心地にほど近い相生橋の袂にある「和田ビル」というアパートに住んでいた。
現在の様子は画像の通り古びたアパートであるが、当時は広島の中心地のハイカラなビルで、かなり立派な感じであった。
子供の頃、正月の年始の挨拶に行ったときには、ベランダから間近に見える原爆ドームや真下を走る路面電車を飽きもせず眺めたものである。