康男が乗船していたミ二十七船団の「江戸川丸」は、昭和十九年十一月十七日二十二時七分 敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、翌十八日一時三十分頃に沈没したと「生死不明トナリタル迄ノ経歴」(前回投稿)に記されている。
沈没迄の三時間半…康男は必死で生きようとしたであろう…
いや、沈没後もひたすら味方の救援を待ちながら冷たく暗い黄海でもがいたに違いない…
寒かったであろう…
怖かったであろう…
悔しかったであろう…
大東亜戦争に於いては、ガダルカナル島や硫黄島などの激戦地や神風特攻隊などで勇ましく果敢に散華された方も多くいらっしゃるが、康男の様に戦闘の遑もなく無念のうちに散って逝った方も決して少なくはない。
特に米軍に制海制空権を握られた戦争末期の輸送船団は悲惨であった。
今回の投稿にあたり下記サイトで勉強させて頂いた。
こちらのサイトによると、康男のような輸送船で戦地に向う途中等で攻撃を受け沈没や座礁により戦死された方は6万柱を超えている。
http://www.jsu.or.jp/siryo/honseki/
康男が遭難した黄海に於ても23隻が撃沈され9000柱近い英霊が今も尚海底深く眠られているのである…
http://www.jsu.or.jp/siryo/map/korea/china/yellowsea/yellowsea.html
もちろん康男も…
私の大叔父も江戸川丸に乗船していたようです。
下川様
コメントありがとうございます。
ajoromiこと青盛と申します。
同じ江戸川丸に乗船されていた方の血縁の方に拙ブログをご覧頂けたことに感激しております。
あの世の康男(小生の大叔父)も喜んでることと思います。
私の叔父が船員として乗船し死没いたしました。
祖父は終戦の年に病没しました。
私は、前後しばらくして生まれた為、彼らの顔を知りません。
父の話によると祖父母の悲しみは大きく叔父の死について多くを語らなかった様です。
その父も昨年末に兄や祖父母の元に旅立ちました。
昔も今も世界各地でこの様な悲しみが絶えないことにやりきれない想いです。
相原様 コメント頂きありがとうございます。
私の場合も同様で祖父、叔父、母親皆大叔父の戦死に関しては全くと言っていいほど話しませんでした。
家族にとって本当に思い出したくない出来事だったのだと思います。
こんな悲劇がいつまでも無くならない世の中…哀しいですね
masahiro様
返信いただきありがとうございます。
申し遅れましたが伯父も江戸川丸に乗船しておりました。
父が鬼籍に入り伯父を直接知る人物がいなくなりました。
どのような形でも時に思い出すことが故人への供養になるのかなと…
没後、今年で80年になりますがご遺族とこのような形で繋がるとは思いませんでした。
私の伯祖父が船員として乗船し戦死いたしました。
船団の目的地が高尾(台湾)だったこともあり、戦死の詳報は当初『高尾に上陸してから陸戦で戦死』や『中国大陸で戦死』など情報が錯綜し、正確な戦死日も不明だったそうで、戦死報告を受け取ったときは『船乗りなのになぜ陸戦で戦死なのか』と不思議に思ったそうです。
祖父に伯祖父の生前の話をいろいろと話を聞きました。特に自慢の兄だったようで、そのせいか当時を思い出すもの[兄の遺品や戦争映画(特に船舶が沈没するもの)]を見ると、押し黙って涙に暮れておりました。
岡部様 コメント頂きありがとうございます。
投稿者のajoromiこと青盛と申します。
私の大叔父の場合は9ヶ月以上経った終戦後に届いた戦死告知があったのでそれが最初の情報と考えて居りましたが、岡部様のコメントを読ませて頂くうちに”ひょっとするとそれ以前に非公式な告知として同様の情報が届いていたのでは…”と思う様になりました。今となっては解らない事ですが…
私は当時の様子を知る祖父・叔父・母親の誰からも詳細はおろかちょっとした逸話さえも聞かされることはありませんでしたので、伯祖父様からいろいろ聞かれた岡部様を羨ましく思います。
masahiro様
返信いただきありがとうございます。
私の祖父も本当は話したくなかったのかもしれませんが、私がしつこく聞くので話してくれたのかなと今では思います。
実際、戦時中に工場で技術主任だったころの話はよくしてくれましたが、終戦間際の徴兵されてからの話はほとんどしませんでした。
さて、戦時死亡宣告について、私の家の話になりますが、日本郵船からいただいた[日本郵船戦没船史]に記載の戦没月(11月)と墓誌に刻まれている戦没月が10月となっており一致していません。
祖父になぜ月が違うのかと尋ねたことがありますが、戦時死亡宣告に10月と記載があったとのことでした。
実際の死亡月が判明したのも[日本郵船戦没船史]をいただいた昭和46年だそうで、戦時中は相当混乱(もしくは情報秘匿)があったのかなと思います。