昭和19年6月18日 三次中学同級生Fさんからの葉書 ”通年動員”と云う重圧… 

 

今回は三次中学同級生のFさんからの葉書。

これまでFさんの葉書は当ブログに2回(2019/5/6、7/23)投稿しているが、我が国を思う気持ちが強く、かつとても生真面目な方だと云う印象が強い。

熱望する(旧制)高校への入学を目指し努力している最中の「通年動員命令」はFさんに苛烈な重圧となって圧し掛かって来たようである…

昭和19年6月18日 三次中学同級生Fさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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既に初夏の候と相成りました。貴方其の後如何が
御過日かとお伺い申し上げます。小生相変らず、現
在迄、日を送って参りました。明日知れぬ国家を
思う一念に燃え滾れる我身も、今日まで楽しい
日々を過ごせし事、実に在り難き極みです。待ちに
待ちし動員も(御存じでしょうが)目前。廿六日に迫逼し、我身を
我が精根を何処迄も発揮すべき時と思うの
外はありません。大いに頑張り貫きます。して
万一我が希望を達成し得れば幸いと覚悟致し
て居ります。先づはお伺い旁々述意まで。
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以前の投稿の内容からは「一刻も早く国家の役に立つべく」と思いながらも(旧制)高校への想いを断ち切れず、「卑怯者」の誹りを覚悟して(実際には誰もそんな事は思っていないのだが…)自身の目指す進学へ邁進していたFさんであったが、その矢先の「通年動員命令」である。

「明日知れぬ国家を思う一念に燃え滾れる我身も、今日まで楽しい日々を過ごせし事、実に在り難き極み」や「万一我が希望を達成し得れば幸いと覚悟致し」の部分はまるで戦地に赴く兵士の「遺書」の様な記述であり、ある種の落胆が読み取れる。

国家の非常事態と理解し納得しようと苦しんだのであろう。
無念さは計り知れない…

 

昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙 四方山話、難読文字満載…(;´д`)

 

今回は以前(2020/1/19)に投稿した三郎から母千代子への手紙に対する父芳一からの返信。

三郎が家を離れて約4ヶ月が過ぎ、逢えないもどかしさを詰め込んだような「四方山話」と前回の手紙での三郎からの要望事項への回答が満載された内容となっている。

昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙③
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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昭和十九年六月二十日
先日の母への手紙慥かに到着。其後無事勉強して居るそうで
父母共安心。何と云っても健康第一なり。自己の衛生に留意して病気せぬ
事何より大切なり。健康なれば勉強も出来る。「健全なる精神は健全
なる体に宿る」 どうか体を大切にせよ。敬兄さんの様になっては一大挫
折する。 康男は矢張り宇品に居る。広島市千田町二丁目 栃木
吾一様方 として通信せよ。然しもう長くは居ないかも知れん。
六月一杯位で四国地に転ずるらしいがはっきりしない。
年内は内地に居るかも知れんと云うので、嫁さんを貰ってやり度
いと思って三原一之先生に心配して貰って居る。上下町へお父さん
と三原先生と十八日に見に行ったが好ましくないので断るつもり。
甲山町によいのがあるので今調査中だがそれも調べて見
なければわからん。まあ縁があれば話するかも知れんがまだどうな
るやらわからん。その内に出て行ったらお仕舞いだから。
敬さんも二ヶ月の闘病生活で餘程肥えて体にも肉がついた。
朝夕メタボリンの注射をお父さんがしてやって居る。卵も毎日
三個以上、牛乳二合、魷や魚も多少づつ手に入れて食べさせ
て居る。何としても一年位では全快させ度いと努力して居る。
気分もよいし食慾も進むし、まあ気長に療養すれば大丈夫
よくなると思う。
康男も元気で船舶の勉強をして居るらしい。階級は学生だそ
うな。海軍機関学校を出た者と同様に取扱われる様になるの
かも知れんよ。
お母さんも病気全快。朝早くからバタバタと働いている。敬の
裏に続く
世話から芳子の世話、それに康男も時々帰って来るし、お母
さんも多忙だよ。それでも元気になったので喜んで居る。
沖の上隣りの久留島さんが六月尾道へ引越したので其後へ君
田の校長だった太田章さんが十日市の青年学校長になったので
転宅して来た。太田先生は親類になるので力強くなった。
沖にも弟子は官用に出し此常は仕事も休みだ。三宅にも
変りない。福原の静雄君、モーターで大辺詐欺を働らいて居るらし
いので一ヶ月位前から警察に拘留されている。どうでも刑務所
行きらしい。悪るい事をすれば必ずわかるものだ。気の毒でも
仕方がない。章君が先般一寸休暇で帰って泣いたそうな。
人間は悪るい事をするのが一番の不忠不孝だ。
二上にも寿治(カズハル)さんが三月やらに病死し近頃は商売も少なく
寂しい事だ。森保君や佐々木・大膳などにも別に変
りはない。国民学校には庭や家の前の道路辺りにカボチャを
植えられ随分大きくなって居る。校長先生 今朝も縄を引張
りつつ、千個位はならすつもりだ。そして先生と生徒と一人一個
位は食べたいと思って居ると話して居られた。
中学校にも此常殆んど毎日作業で麦刈り・田植の手伝に
行って居られる。十六日(空襲のあった朝)東城に出張すべく汽車
で行っていたら、福原先生やら眼鏡をかけた若い先生と老人
の先生と三人生徒と共に乗り込み塩町駅の次まで話して行った。
お前の写真(市中で写した物)をお目に掛けたら大辺喜んで居られ
た。時々は通信せよ。
芳子も作業に行っている。麦刈り・田植の手伝だ。お前の植えた
夏豆はもう殆ど実った。夏休みには煎って食べさせて
やるとお母さんが云って居るよ。一斗位あると思う。ジャガイモ
もよく出来た。もう少し食べた。来月初めに掘り取るよ。
キウリ・ナスなど植えている。よく出来るよ。
尾関山の広場も大潟海岸のシバ原は全部畑になって居る。
食料増産でみんな大量だ。
今月初め位、服部隊長殿より謄写刷りの長い通信をいただ
いた。それは家庭と学校との連絡とか、本人への激励とか
夏休みのある事(状勢の悪化せぬ限りとある)、学校では
何一つ不自由のない事など、コマゴマと書いてあった。
そして成績の悪るい者、即ち注意を要する事項は別紙で
指導してあるとあったが、お前の事は何も別紙が入って
居ないのみか、前田連隊長がその手紙の終りの方へ
「本人純真でよく勉強して居る。将来相当伸びると思うが
大いに激励してやってくれと」あった。そして手紙の礼も云って
あった。で早速、服部隊長へも前田大尉へも手紙を出して
置いた。その手紙に私物は送らんでもよい。書籍なども学校
にあるし、食べ物は勿論文具類なども送る必要はない様
に書いてあったが、雑記帳、西洋紙、朱肉、糊、手帳、スタンプ
インキ台など送ってもよいのか。もし禁じられて居るのに送っ
てお前の成績に関係する様な事があってはならぬ。前田
連隊長に伺って見て許されたら送った方がよくはないか。
秘くして使用する事は気もトガめるし、校規をミダす
事になるから、よく考えてもう一度様子せよ。書籍は送
ってやる。
裏に続く
板木の長山・池田・玉井にも皆元気で増産に励んで居られた。
此間一寸行った。目下田植最中と思う。
四月初めに福山に行き鞆へも一泊した。お前も休みには行って見よ。
昔が偲ばれるよ。
■■さんの所へ良く行くか。先日ウドンを六把送って置いた。
魷でも送ろうと思って居る。
行ったら、お父さん・お母さんから宜敷云って来ましたと申し伝えて
くれ。軍刀一振お前のものを■■さんの知り合いの河田と
云う人に頼んである。それは日本刀鍛錬会作品の新品で
軍隊に納める品だそうな。陸士出は優先的に買えるそうなのだが
仲々早く手に入らんとの事で頼んである。尤も前田大尉
殿から心配して貰えば案外便利かも知れんが。河内老人の
娘聟の山田英と云う刀剣研師が遊衹館の刀の手入れも
し、又日本刀鍛錬会に関係しているので伝手で一本心配して
やるとの事。但し値段は軍隊に納めると二百円位だが、四百円位
は出さなければ早く手に入らんとの事だ。どちらかと云えば将
校に頼んで軍隊の方から買った方が便利だが、家にあるのは
刀身はよいが少し短いのでお前には不足と思うので、二尺一寸
位の無庇のものを一振手に入れて置き度いと思って居る。
まあ焦る訳でもないが。
忙しくても時々通信せよ。ハガキでよい。先生や知人、朋友へも通信
を怠るなよ。そして真面目に上官の命をよく遵奉して
勉強せよ。お国の役に立つ人間となれよ。
では今日はこれで筆止め。無事を祈る。
六月二十日午後六時十分書き終る。
銀行にて
父より
三郎どのへ
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何度も云っているが、芳一の文字は非常に読み辛い。
ただ今回は葉書でなく手紙だったので文字が大きかった事がせめてもの救いであった。

慥かに(たしかに)、魷(イカ)などの現代では殆ど見なくなった漢字だけでなく
文字自体が読めず前後の脈絡などから想像して解読した部分が多数あったので多少正確性に欠けている事をご了承頂きたい。

まずは家族の近況の報告に始まり、ご近所の状況を世間話的にたっぷりと記している。
モーターの詐欺で刑務所に行ったご近所さんの話は小生も初めて知った。

「康男も元気で船舶の勉強をして居るらしい。階級は学生だそうな。海軍機関学校を出た者と同様に取扱われる様になるのかも知れんよ。」の件があるが、当時康男は「陸軍船舶司令部船舶練習部学生」であったらしい。
陸軍の”船舶司令部”とは何か変な感じであるが当時南洋方面等での激戦地域への兵站輸送を任務とし、その任務遂行に必要とされる将校の教育も行われておりその学生であった。
以前投稿した集合写真が当時のものである。

19年2月暁二九四〇部隊 前列一番左が康男

「陸軍機動輸送」の詳細については以下サイトをご覧頂きたい。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu39.htm

 

以前このブログで「夏豆」の事を「枝豆」と書いてしまったが、どうやら「そら豆」が正解だったらしい。
まあ、小生にしてみればどちらも大好物なのでどうでも良いが…

三郎の通信簿が陸軍予科士官学校から届いたようで、その内容が上々であったことで芳一の喜んでいる様がわかる。
ただ、私物の送付に関する件は多少「親バカ」じみていて恥ずかしい気もするが…

日本刀の話の部分も多少「親バカ」なのかも知れないが、当時軍刀は大日本帝国陸海軍の制服の一部であったものの階級に合った刀を自前調達する必要があったため、出来るだけ良い刀を手に入れようとあちこちの伝手を頼っていた様である。
因みに当時の軍刀は基本的に「日本刀」であったが、現代で云う美術・骨董的価値のある「日本刀」の他に軍に納めるために工業的に作刀された「工業刀」があった。
手紙の中に出てくる「日本刀鍛錬会」も「靖国刀」と呼ばれる日本刀を靖国神社の境内で作刀していたとのこと。
詳しくは以下参照下さりたい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%88%80

「銀行にて」???
私用の手紙を職場で書いちゃダメですよ~
おじいちゃんへ
愚孫より

 

昭和19年6月20日 海軍機関学校Nさんからの葉書 「ニューギニヤ」…

 

今回は三次中学の(おそらく)先輩で舞鶴市の海軍機関学校生徒のNさんからの葉書。

梅雨時となり舞鶴も朝霞もそして三次も蒸し暑さが増してきた時候であるが、それでも「ニューギニヤ」よりは遥かにましだとある。

昭和19年6月20日 海軍機関学校生徒Nさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓
永い間失礼して誠に済まぬ。其後貴様も元気一杯
豫科士官学校生活を送っている事と思う。小生も
其後無事で学術訓練に励んでいる。敵米英は既
に吾内南洋に反攻して来ている。ぼやぼやしては居れ
ぬ。三中の四年五年も工廠等の作業で大変らしい。
之から暑さも益々加わるだろうが、「ニューギニヤ」の暑さより
遥かに涼しいだろう。然し、健康には充分注意して
学術に訓練に邁進し、逞しき将校としての素養を
練磨しよう。 では今日は之にて失礼する。
三原三郎 君
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「敵米英は既に吾内南洋に反攻して来ている」とあり「ニューギニヤ」が例えに挙がっているが、実際には一年半以上前の昭和17年11月に連合軍がニューギニア島に上陸し、その後日本軍は苦戦~撤退の繰り返しを強いられている。
大東亜戦争に於ける「ニューギニア戦線」とは、連合軍に制空・制海権を握られ補給路を断たれた日本軍が「敵」との戦闘だけでなく「飢餓」と「病魔」でも多くの犠牲者をだした戦いである。

http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/newginia/newginia.htm

南洋北洋各戦地での物資・食料の不足は逼迫していたが、制空・制海権を奪われた中での兵站補給は至難を極めた。

あまり知られていないが(前回の投稿でも取り上げた)康男が所属していた「陸軍船舶司令部暁第二九四〇部隊」とはこれらの補給を目的に輸送船団を指揮運用する部隊であり、当時「最も損害率の高い部隊」の一つであったらしい。

既に日本軍の圧倒的不利な状況にあった当時でも正しい戦況を知らされることは無かったのであろう。海軍機関学校生徒の認識がこの状況であった。
「まだまだ挽回可能!」と軍関係の学校・機関へ進んでいった康男や三郎の様な若者達が大勢いたであろう事を考えると国民に対する情報隠蔽や虚偽情報流布がどれ程大きな政治犯罪であるかを痛感せざるを得ない…

 

昭和19年6月26日 康男から三郎への葉書 「戦局正に重大」 康男の出陣近し…か?

 

今回は長男康男から三郎への葉書。

以前の手紙の内容などからも三郎が康男の動向を気にしていた様子が伺えていたが、ついに動きがあるようである。

 

昭和19年6月26日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 暦では入梅后幾日、文字通りの
空梅雨で毎日暑さが続く。御前達の訓練も
愈々本格的になって、毎日相当疲れる事と思う。
其後体の調子は如何。何といっても躰が第一、
気候に負けるな。今こそ一番緊張すべき時だ。
休暇でも頂ければ早く御前の立派な姿が見たいものだ。
兄さんもどうやら今月限りで広島に別れを告げる。
来月早々愛媛県宇摩郡三島町暁二九四〇部隊矢野
部隊の方に宿先変更の予定。移ったら早速
様子する。戦局正に重大、自重百変せよ。   敬具
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陸軍予科士官学校入校後数ヶ月の三郎が正確な戦況を知らされていたか甚だ疑問であるが、陸軍船舶司令部船舶練習部学生であった康男はかなり詳しく戦況を知らされていたのではないかと思われる。

康男の所属していた陸軍船舶司令部とは陸軍に於ける船舶での輸送や上陸を専門とした部隊であったが、戦局の悪化(と言うよりも「敗色濃厚」と言った方が正確か…)したこの当時には水上特別攻撃艇(通称:マルレ)に乗って爆雷とともに敵艦に突撃すると云う特攻部隊も存在しており、作戦遂行にあたっては戦局に関してもある程度正確な情報が知らされていたと思われる。
詳しくは以下サイトをご参考願いたい。
http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/heiwa/heiwa009/four%20sets%20of%20bitter%20fighting%20attacks%20boat.html

その康男が近く愛媛県宇摩郡三島町へ異動するとある。
削除線で消されてはいるが「(船舶司令部)暁二九四〇部隊矢野部隊」のある場所であり、おそらく戦地へ向けての出発が近いと云うことであろう。

戦時下に於て軍隊に入り出兵命令が出るまでの間は「ガンで余命宣告された」ような気持ちなのではないか…と以前の投稿でも書いたが、葉書の中の
「早く御前の立派な姿が見たいものだ」
「今月限りで広島に別れを告げる」
と云った言葉に、いよいよその「余命の最後」が近づいて来た事への覚悟が見て取れるようである…