今回は三次中学の(おそらく)先輩で舞鶴市の海軍機関学校生徒のNさんからの葉書。
梅雨時となり舞鶴も朝霞もそして三次も蒸し暑さが増してきた時候であるが、それでも「ニューギニヤ」よりは遥かにましだとある。
解読結果は以下の通り。
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拝啓
永い間失礼して誠に済まぬ。其後貴様も元気一杯
豫科士官学校生活を送っている事と思う。小生も
其後無事で学術訓練に励んでいる。敵米英は既
に吾内南洋に反攻して来ている。ぼやぼやしては居れ
ぬ。三中の四年五年も工廠等の作業で大変らしい。
之から暑さも益々加わるだろうが、「ニューギニヤ」の暑さより
遥かに涼しいだろう。然し、健康には充分注意して
学術に訓練に邁進し、逞しき将校としての素養を
練磨しよう。 では今日は之にて失礼する。
三原三郎 君
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「敵米英は既に吾内南洋に反攻して来ている」とあり「ニューギニヤ」が例えに挙がっているが、実際には一年半以上前の昭和17年11月に連合軍がニューギニア島に上陸し、その後日本軍は苦戦~撤退の繰り返しを強いられている。
大東亜戦争に於ける「ニューギニア戦線」とは、連合軍に制空・制海権を握られ補給路を断たれた日本軍が「敵」との戦闘だけでなく「飢餓」と「病魔」でも多くの犠牲者をだした戦いである。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/newginia/newginia.htm
南洋北洋各戦地での物資・食料の不足は逼迫していたが、制空・制海権を奪われた中での兵站補給は至難を極めた。
あまり知られていないが(前回の投稿でも取り上げた)康男が所属していた「陸軍船舶司令部暁第二九四〇部隊」とはこれらの補給を目的に輸送船団を指揮運用する部隊であり、当時「最も損害率の高い部隊」の一つであったらしい。
既に日本軍の圧倒的不利な状況にあった当時でも正しい戦況を知らされることは無かったのであろう。海軍機関学校生徒の認識がこの状況であった。
「まだまだ挽回可能!」と軍関係の学校・機関へ進んでいった康男や三郎の様な若者達が大勢いたであろう事を考えると国民に対する情報隠蔽や虚偽情報流布がどれ程大きな政治犯罪であるかを痛感せざるを得ない…