昭和19年7月25日 康男から三郎への葉書 戦局悪化の中「御前とも逢える可能性が増大した」…

 

今回は直近に広島への再配置転換となった長男康男から三郎に宛てた葉書。

逢えないと思っていた三郎との再会が叶いそうになった喜びを「可能性が増大」と表現している。

 

昭和19年7月25日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 愈々暑さ厳しき時候となったが、
其後元気で精励しているか、待望の
休暇も近付いて大いに張切っている事と
思う。兄さんは都合でまた広島へ帰る事
になって廿日からこちらに来ている。
家にもチョット帰って来た。広島はどうも
縁が深い。又当方御厄介になる筈。
御前とも逢える可能性が増大した訳だ。
体に充分気をつけて、逢える日を待っている。
早々
***********************

何故康男が四国への転隊直後に再転隊で広島へ戻って来たのか本当の理由は不明であるが、以前の投稿にも記した様にこのひと月程まえに日本軍がサイパン島での戦いに敗れ「絶対国防圏」を突破されたことで一層の戦況悪化を招いた事が関係していたのではないかと考えられる。

しかし皮肉な事に、その結果おそらく逢えないと思っていた三郎と逢える「可能性が増大した」のである。

葉書では「逢える」と云う言葉を遣っている。「会える」ではなく…
「会う」は単に「顔を合わせる」とか「集まる」と云った意味で用いられるが、一方「逢う」は「大切な人」や「強い思い入れのある人」とあう場合に使われる。

遠く離れた場所(陸軍予科士官学校)へ行ってしまった三郎とは「もう二度と逢えない」と康男は思っていたのであろう…

 

昭和19年7月29、30日 もうすぐ故郷へ… 三郎から父母へ帰省の連絡 

 

今回は二週間後に迫った帰省について三郎が父母に宛てた便り2通。

29日(土曜日)に父母宛にざっくりとした手紙を出し、翌30日(日曜日)に母千代子宛に詳細を記した手紙を出している。

まずは7月29日の葉書から

昭和19年7月29日 三郎から父母への葉書

解読結果は以下の通り。
***********************
前略
期末試験も二十六日に終了し遊泳演
習等ノ準備をして居ます。
お見通りするのも近附いて来ました
ので張切ってゐます
ではお知らせ迄
休暇にはよろしくお願い致します
三十日には外出します
***********************

続いて7月30日の母千代子宛の手紙

昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙①
昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙②
昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
***********************
前略 お手紙拝見致しました。休暇
も近づき喜んで居ます。康男兄さんも
又廣島に帰られた相で対面出来ると
思いこれ又喜んでゐます。今日(三十日)
は雨天ですが外出して■■様の所にお
邪魔してこの手紙も書いて居ます。
明三十一日は遊泳演習ノ準備。一日より
沼津海岸に行きます。私は皆が下
手なのかしれませんが最上級の班に入れら
れました。沼津には一日より八日迄居て
八日に帰校。九日一日学校に居て十日の
十二時二十四分発の特別仕立の列車
で帰郷する事になってゐます。予定では福
山には停車せず糸崎に翌十一日の午前
九時頃に着く予定です。ですから家につ
くのは福塩線で十二時頃と思いますが
今年は非常に対して背嚢等を持ち帰
ることになりましたから出来得れば駅まで
誰か来て頂けば幸甚ですが。
休暇は大体二週間の予定です。
では敬兄さん、芳子によろしくお傳
え願います。
***********************

29日の葉書は単に帰省の予定を伝えたものであるが、30日の手紙は26日に届いた母からの手紙(2020年4月19日投稿)への返信となっており、いつもお世話になっている父の友人宅へお邪魔してゆっくりと手紙を認めている。

戦況悪化に伴い鉄道の運行本数もかなり削減されている中で「特別仕立の列車」が出されるほど優遇されていたことには少々驚いたが、将校不足にあえぐ軍部の彼らに対する期待の大きさを示すものであったかも知れない。

さて、陸軍予科士官学校での遊泳演習をググっていたところ「昭和19年10月制作」の「将校生徒の手記 陸軍予科士官学校」と云う動画を見つけたのでリンクしておく。
多分にプロパガンダ的な動画ではあるが将に三郎在校当時の学校の様子であり興味深いものがあるので是非ご覧頂きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=LBZTZts4Zvk

 

昭和19年7月30日 康男から三郎への葉書 「そろそろ御腰を 上げる時が近付いた模様だ」出征命令下る???

 

今回は長男康男が帰省間近の三郎に宛てた手紙。

自身の出征を匂わせる部分もあり、康男の身辺も急を告げてきた様である。

 

昭和19年7月30日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 酷暑の砌、相変らず精励の
事と思う。家の方も其後共々変り無し。
敬も別に心配する点も無し。芳子は
真黒になって作業に水泳に頑張っている。
兄さんも相変わらずだ。今月三十日は許可されて
帰宅。英気を養っている。
戦況急迫でどうなるか分らんが、来月十三日
頃帰宅出来ればと思っている。久方振り
に一家内揃いて話し度い。俺もそろそろ御腰(ミコシ)を
上げる時が近付いた模様だ。では元気で
待て。               早々
***********************

「許可されて帰宅」して認めているのだが、この戦局重大時に帰宅を許可されるのは恐らく出征が決定したのではないかと考えられる。
前回三郎に宛てた葉書から五日しか経っておらず「早く三郎と逢って話がしたい」と云う気持ちが伝わってくる。

当時(昭和19年5月頃)の写真があるので投稿しておく。

昭和19年5月19日 康男 四国金毘羅社にて①  右端が康男
昭和19年5月19日 康男 四国金毘羅社にて②

因みに①の裏書には

「昭和十九年五月十九日
㋴学生
暁南丸実習 多度津上陸の折
琴刀比羅宮参拝」
とあり康男が当時陸軍の秘密部隊であった輸送船団の将校であったことが判る。

昭和19年5月19日 康男 四国金毘羅社にて 裏書

恐らくこの輸送船団の作戦行動での出征が決まったのであろう。
軍人として鍛えられていたとは云え20代の青年である。
何度も言うが現代の我々には想像し難い精神状態であった筈である…

 

昭和19年8月1日 三次中学同級生MOさんからの葉書 「勤労動員は夏季休暇無しだよ~( ノД`)…」

 

今回は(これまで何度か投稿したことがあるが…)三郎の幼馴染で三次中学同級生のMOさんからの葉書。

6月26日に呉海軍工廠への勤労に動員されてから一ヶ月程経過してからの便りである。

昭和19年8月1日 三次中学同級生MOさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓
長らく御無沙汰したが変りはないか
僕も元氣で表記の所で国家の爲に
働いて居るから安心してくれ。
君等は八月に休暇があると言う事だ
がこちらではそんな暇もないよ
次に写真の事はよくわかった。しかし
まだもらいに行っておらない。それと
丸住、中村、日南、向井、新田等に陸士の第
一次試験に合格したよ。
ではさようなら
***********************

親元を離れ慣れない環境の中での勤労動員で体力的にも精神的にも相当疲れていると考えられるのだが案外元気そうである。
まあ、当然検閲されるのであるから元気なフリもしなければならなかったのかも知れないが…

呉海軍工廠でのMOさんたちの生活がどんな状況だったのかググってみたところ「NHK戦争証言アーカイブス」に以下の動画があった。
かならずしも勤労動員の日々の生活を映したものでは無いが、空襲の際の惨状など当時の状況が生々しく語られている部分もあり(長編ではあるが)是非ご覧頂きたい。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001150116_00000

 

 

昭和19年8月3日 父芳一から三郎への手紙 三郎帰省まであと一週間…「皆一緒に話せる」

 

今回は七月三十日に三郎が母千代子に出した手紙(2020年5月9日投稿)への返信。

何度も言うが芳一(小生の祖父)の文字は本当に難解である。
今回の投稿にも何ヶ所か怪しい部分があるがご容赦頂きたい。

 

昭和19年8月3日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年8月3日 芳一から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
(今朝手紙が着いたとお母さんが電話で悦んで聞かせた)
其後元氣で勉学してるそうで両親共安心した。随分暑さも
厳しいので相當汗を出してる事と思う。家にも敬の病気も大体
順調にて相當肥満して来たが当分は働けないと思う。暑さで三階
住居は少し困って居る。然し都会地に比べたら問題ではない。
食事も先づ戦時食としては上々の方で栄養物も少し手に入れて居る。
康男も七月一日に四国の三島と云う所へ転居したが十六日やらに又廣島付近
の坂駅近くの部隊へ派遣となり当分居るらしい。一旦千田町の栃木
と云う居宅を引払ったが又舞い戻って居る。然し今度は太田少
尉と二人同居だそうな。船舶将校となったので何時何處へ行くやら
わからんが輸送や〇〇上陸ではないらしいので後方勤務の方らしい。
十三日の日曜日には或いは帰省できるかも知れん。三十一日に帰ったので
多分六日は休みなし。十三日が全休となろうとの事。その時は久々で
皆一緒に話せる。二週間の休暇がいただけたらことに結構だ。
海兵連中先般二週間で来て居た。白服に短剣でブラブラ
して居たよ。 今年の陸豫士学科試験合格者は二人だとか
丸住と中村とか、十二三日頃に陸豫士で体格検査を受ける由今日
新聞に出て居た。昨年は相当合格者を出したが本年は僅少ら
しい。遊泳は上級とか しっかりやれ。陸軍でも海の子だから泳ぎ
は上手に限る。然し無理せぬ事肝要なり。■■さんには度々
世話になる事だ。礼状を出して置く。
お前の休暇中にお父さんも三四日休暇を貰うつもりだ。
福山や広島へも行って見よう。
あと一週間計りで故郷の土が踏める。十一日の到着時刻は
福山から電話して置け。糸崎からでもよい。
敬も芳子も楽しみに待って居る。但し何も土産物はいらな
いから心配するなよ。
  三日午後四時          父より
   三郎へ
***********************

夏季休暇の帰省まであと一週間程。父母兄妹…家族全員が三郎の帰郷を心待ちにしている。
但し現代の様な平時に於ける夏休みの帰省とは心待ちの度合いが違う。
土日返上で”月月火水木金金~♪”だった芳一も「三四日休暇を貰うつもりだ」と気合が入っている。
軍人である康男や三郎は何時戦場へ行ってしまうか判らないし、残る家族にしても「空襲」に遭う可能性がない訳ではない。
実際に長男の康男は出征が間近に迫って来た様子であり、この時の三郎の帰郷は一家にとっては「一期一会」或いは「今生の別れ」の様相を呈していたに違いない。

その康男は「廣島付近の坂駅近くの部隊へ派遣」とあるので坂付近の陸軍部隊についてググってみた。
当時、陸軍船舶司令部は「㋹部隊」という水上特攻艇部隊を創設しその一部が坂駅近くの鯛尾という場所にあった様で康男はそこに配属されたと思われる。
鯛尾は金輪島を挟んで船舶司令部本部のあった宇品の対岸に位置しており「㋹部隊」の訓練等に於ける至便かつ重要な場所であったと思われる。

宇品・坂鯛尾地図

「㋹部隊」に関しては以下サイトもご覧頂きたい。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=21704

このなかで「船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)」の一期生(15~20歳)は1944年4月に入隊したとあるが、康男は彼らの上官として赴任したのかも知れない。

積もる話までもう少しの辛抱である…