今回は七月三十日に三郎が母千代子に出した手紙(2020年5月9日投稿)への返信。
何度も言うが芳一(小生の祖父)の文字は本当に難解である。
今回の投稿にも何ヶ所か怪しい部分があるがご容赦頂きたい。
解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
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(今朝手紙が着いたとお母さんが電話で悦んで聞かせた)
其後元氣で勉学してるそうで両親共安心した。随分暑さも
厳しいので相當汗を出してる事と思う。家にも敬の病気も大体
順調にて相當肥満して来たが当分は働けないと思う。暑さで三階
住居は少し困って居る。然し都会地に比べたら問題ではない。
食事も先づ戦時食としては上々の方で栄養物も少し手に入れて居る。
康男も七月一日に四国の三島と云う所へ転居したが十六日やらに又廣島付近
の坂駅近くの部隊へ派遣となり当分居るらしい。一旦千田町の栃木
と云う居宅を引払ったが又舞い戻って居る。然し今度は太田少
尉と二人同居だそうな。船舶将校となったので何時何處へ行くやら
わからんが輸送や〇〇上陸ではないらしいので後方勤務の方らしい。
十三日の日曜日には或いは帰省できるかも知れん。三十一日に帰ったので
多分六日は休みなし。十三日が全休となろうとの事。その時は久々で
皆一緒に話せる。二週間の休暇がいただけたらことに結構だ。
海兵連中先般二週間で来て居た。白服に短剣でブラブラ
して居たよ。 今年の陸豫士学科試験合格者は二人だとか
丸住と中村とか、十二三日頃に陸豫士で体格検査を受ける由今日
新聞に出て居た。昨年は相当合格者を出したが本年は僅少ら
しい。遊泳は上級とか しっかりやれ。陸軍でも海の子だから泳ぎ
は上手に限る。然し無理せぬ事肝要なり。■■さんには度々
世話になる事だ。礼状を出して置く。
お前の休暇中にお父さんも三四日休暇を貰うつもりだ。
福山や広島へも行って見よう。
あと一週間計りで故郷の土が踏める。十一日の到着時刻は
福山から電話して置け。糸崎からでもよい。
敬も芳子も楽しみに待って居る。但し何も土産物はいらな
いから心配するなよ。
三日午後四時 父より
三郎へ
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夏季休暇の帰省まであと一週間程。父母兄妹…家族全員が三郎の帰郷を心待ちにしている。
但し現代の様な平時に於ける夏休みの帰省とは心待ちの度合いが違う。
土日返上で”月月火水木金金~♪”だった芳一も「三四日休暇を貰うつもりだ」と気合が入っている。
軍人である康男や三郎は何時戦場へ行ってしまうか判らないし、残る家族にしても「空襲」に遭う可能性がない訳ではない。
実際に長男の康男は出征が間近に迫って来た様子であり、この時の三郎の帰郷は一家にとっては「一期一会」或いは「今生の別れ」の様相を呈していたに違いない。
その康男は「廣島付近の坂駅近くの部隊へ派遣」とあるので坂付近の陸軍部隊についてググってみた。
当時、陸軍船舶司令部は「㋹部隊」という水上特攻艇部隊を創設しその一部が坂駅近くの鯛尾という場所にあった様で康男はそこに配属されたと思われる。
鯛尾は金輪島を挟んで船舶司令部本部のあった宇品の対岸に位置しており「㋹部隊」の訓練等に於ける至便かつ重要な場所であったと思われる。
「㋹部隊」に関しては以下サイトもご覧頂きたい。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=21704
このなかで「船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)」の一期生(15~20歳)は1944年4月に入隊したとあるが、康男は彼らの上官として赴任したのかも知れない。
積もる話までもう少しの辛抱である…