昭和19年8月9日 陸軍予科士官学校 富士隊 服部隊長から芳一への連絡書

今回は三郎の夏休暇帰省に際し陸軍予科士官学校側から父兄宛に出された連絡文書である。
封筒に「三原芳一殿」とあるだけで住所や切手・消印が無いので帰省の際に三郎が持って帰って来たものと思われる。
達筆な上に経年劣化した昔ながらの「ガリ版印刷」で読み辛い事に加えて小生の無学もあり、かなり「???」な部分もあるが凡その内容は把握出来たと思う。
※B4横の一枚であるがサイズの都合上半分づつの画像掲載とした。

昭和19年8月9日 陸軍予科士官学校-富士隊-服部隊長から芳一への連絡書①
昭和19年8月9日 陸軍予科士官学校-富士隊-服部隊長から芳一への連絡書②

解読結果は以下の通り。

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拝啓時下炎暑の候加えて戦局将に重大の秋貴堂愈々御健康御
奉公の事と相業邦家のため慶賀仕り益此度の御子弟の課業着々
と進み将卒の忠節を期待仕ること只感激の至りにて本人の努力も
勿論先輩各位並に御家庭からの御援助の賜と深謝仕る次第
に御座い益 今般上司よりの配慮に依り生徒に休暇を与え
らることに相成りが今国民等しく戦争を身近に感じ只管
戦斗しある時 生徒には夫々父母或は縁者の許に帰省を許
されし所以のことにて一には以て将卒の英気を養い一には以て孝養
を盡し後顧の憂なくならしめんとの意に別ならず希くは上司
の意を諒とし本休暇をして効果あらしめられんことを
休暇中の心得 往復の心構 非常の処置等に関してを本人に
申聞かせ置きなど 尚家庭に於ても将校生徒たるの矜持を
以て将来国軍の中堅たるべき大切なる赤子なりとの心組にて
放綻安逸を戒め進んで社会の活模範と士気の高揚とに
貢献するの檄を以て御指導を賜らば幸甚に存じ度 我等
も此期間学校に於て次期訓練の準備に邁進し再度旺盛なる
志気を以て御子弟の帰校を期待仕るものに御座い益 此処に休
暇帰省に当り幸便に託し以て御挨拶申述益
尚別紙に個人につき特に連絡申上べき事項相添え御参考に
供し度且生徒帰校に當りては通信蘭に御記入の上持参せらめられ
度御依頼申上益

八月九日
富士隊長   陸軍中佐 服部征夫
同庶務将校  陸軍大尉 小池三郎
同第六区隊長 陸軍中尉 前田長司
同第七区隊長 陸軍大尉 海老澤英夫
同第八区隊長 同    前田八郎
同第九区隊長 同    増澤一平
同第十区隊長 同    岡田生駒
父兄殿
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全体的に判読できない部分が多かったのだが、特に「に、も、が、は、や」等の助詞の判読が難しく文脈から適当に訳した部分もある。
また「益(ます)、度(たく)」も少々適当になってしまったのでご容赦願いたい。

この連絡書と共に三郎は帰省したのであるが、我家では父母や兄妹たちと再会し水入らずの時を過ごしたと思われる。
当然のことであるがこの間は家族間での通信はされておらずどの様な帰省になったのかは想像するしかない。
以前の投稿でも述べたが著しく悪化した当時の戦局の下、軍人である康男や三郎は言うまでもなく一般市民である家族に於ても本土全域が米軍機の空襲圏内になってしまった状況での一家揃ってのひとときはおそらく「一期一会」或いは「今生の別れ」の様相を呈したものになっていたであろう。

文中にある「別紙に個人につき特に連絡申上べき事項」に関しては、芳一が「家庭通信蘭」に記入したものを三郎が帰校時に持参していると思われるのだが(コピーなど存在しない時代であり)芳一が複写したものが残っている。
この「写し」も解読して投稿したいのだが、これがまた、あの芳一独特の難読文字で書かれており解読に少々時間が掛かりそうなのですこしご猶予頂きたい。

 

昭和19年9月2日 三郎 夏季休暇から帰校して十日余り…もうホームシック?

 

二週間の夏季休暇を頂き故郷三次での「命の洗濯」から十日余り。

「将校生徒 三郎」がホームシック?

 

昭和19年9月2日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年9月2日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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前略 其後お変り有りませんか 大分家からの通信が
遠のいた様に感じますが と云ってもお別れしてから未だ十日余り
しか経って居らぬのですからね 敬兄さんは其後如何ですか
私が別れる時大分悪化された様でしたから何時も氣にかかっ
て居ります 二人しか居られぬ兄様ですからね
お母様は私が帰三した時も早や病氣前の如き躰になられ
て居られたのを見て非常に嬉しくありました
家は変って居ませんね
本日夜は(二日)中秋の名月で二ヶ中隊(私の中隊と前の中隊)
が合同して学校正門を入ると左手にあったでしょう 池が
その周りに坐って月を仰いで詩吟を吟じました 池の周りに
「かがり火」を燃いて月は眞円く何か物思わせるものが
ありました この手紙もこの詩吟会が終った直後に心に浮
ぶまゝを書いて居ります 本日は土曜日で随意自習ですから
それからこの手紙を書こうと思ったもう一つの因は本日より
馬術が始まりました 早速今日午後乗りました 私でも馬上の
勇姿颯爽たるものです 速足といってパカパカと普通に
歩くより速く人間で云う駈足をやりました の仲々尻の方が
落着きません
予科の地はもう朝晩涼しくなりました 武蔵野の秋
は早くあります 虫は今も盛に鳴いて居ります
中谷の写真は未だ出来ませんか 出来得れば我家(家・屋)の
写真・芳子・敬兄さん・康男兄さん・お父さん・お母さんの写真
(敬兄さんが写されたので良いですから)思い出の種となる様
なのをお願い致します 模型機のも良いです(写真帳ニアリ)
私が一人で(中学で)写った分は区隊長殿に一枚呈出しますからその積り
で送って下さい
十七日に第二期第一回の外出があります 相変らず■■様方
へ行く積りです 第二期は色々と行事があります
先づ二年生の卒業 一年生の入校 私達の野営演習
其の他 お正月もありますからね 今の所冬休暇は有りま
せんから では今日はこれまで
隙があったら御通信下さい
敬具

二伸
金は区隊長殿に三十五円預入 手許に二十円ばかりもってゐますが予備の爲■■様の方へお送り下さい
倉野さんにも会い色々話をしました 菅にも葉書を出すつもりです
それから家で作って持って来た糊は決して腐りませんからあの糊
の素があったら買っておいて下さい
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9月2日の時点で「お別れしてから未だ十日余りしか経って居らぬ」とあるので、三郎の夏季休暇はおそらく8/9~8/22頃だったと思われる。

この夏季休暇をどのように過ごしたのか、家族でどんな話をしたのか、楽しかったのか、切なくなかったのか…等々知りたい事は沢山あるのだが、当然の事ながらこの間は家族間の通信はなく想像するしかない。
戦況は激化・悪化の一途を辿り、次の家族全員での再会が果たしてあるのか…すら判らない状況下での一家団欒であり将に「一期一会」であったのである。
少なくとも小生などの戦後世代の過ごした「夏休み帰省」とは一線を画すものであったことは間違いない。

「思い出の種となる様な」家族や我家の写真を送ってもらうことになっていたらしくその催促をしている。
次兄敬の病状も気掛かりであっただろうし、中秋の名月の下で感傷的になっていたことも手伝ってか、さすがの「将校生徒」もホームシックに陥ったのであろう…

まだ十代の青年である。さもあらん…

 

昭和19年10月11日 三郎から父芳一への手紙 畏まった候文の巻き手紙…理由は?

 

今回は三郎が芳一に宛てた手紙であるが、畏まった候文で認められた毛筆の巻き手紙である。

また、前回投稿の手紙から一ヶ月以上経過しているが、内容からするとその間に芳一或いは千代子からの通信はあった様子なのだが小生の手元には存在していない。

 

昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙③
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙④

解読結果は以下の通り。

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御尊書難有く拝誦仕り候
其の後御壮健に御暮しとの事大いに安心仕り候
又種々御懇篤なる御教訓我が肝に
銘じて夢中にても忘却仕り申さず候
扨て當方は二年生の卒業を寸前
にひかえ又私達の浅間山麓に於ける
野営演習も近付き稍多忙の感有之
教授部学科等もさきて環境整理
を実施し居り候 氣候も去る四日間
連続の大雨により一転致しめっきり秋の
深きを思わせる如く相成り申し候
来る十五日外出致す予定に候へども
母上様の御丹精の物未到着の事
と思い候も野営終了後廿九日に
再び外出致す所存に候へば其時
にても良く候
本日頃康男兄様の所属決定致
すとの事 色々と期待仕り候
板木の伯父様の一週(周)忌有りたとの事 私は
遥かこの振武の地にて禮拝致し置き候内
悪しからず御承被下度候
三井田村先生よりの御報せにては合格者
は数名有れど海兵と両校突破致したもの
殆どにて本校に来ると思はるゝは一名のみ
にて稍落膽仕り候 尚柳原君は
海兵も駄目らしく候
三次の祭も近付きた事に候 去年の秋
はと思い候もこの予科の如き幸福なる
所は他になきものと今更乍ら考え候
区隊長殿へも手紙を出されるも可く候
河村曹長殿は全快され候も今は私の
区隊付にては無之候ど御通信せられるも
悪しからず候
末筆乍ら母上様 敬兄様 芳子殿
によろしく御鶴声の程御願申し上候
時節柄御身御大切の程御祈り
申し上候
頓首
三郎
父上様
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内容の前に2~3難しい語彙があったのでググってみた。

・稍 :「やや」と読むらしい。
・鶴声:鶴が鳴くとその迫力で一瞬であたりが静まり返る事に因み権威ある人の言葉に例えた。
・頓首:頭を地面にすりつけるようにお辞儀すること。ぬかずくこと。中国の礼式に因む。

扨て、何故畏まった候文なのか?
はっきりした理由が判らないので想像してみた。

「種々御懇篤なる御教訓我が肝に銘じて夢中にても忘却仕り申さず候」とある。
おそらく父芳一からの手紙に「種々御懇篤なる御教訓」が書かれていたのであろう。
その有難い教えを戴いたことに対して感謝と敬意を示すための「畏まった候文」しかも「毛筆書きの巻き手紙」であったと思われる。

更には「本日頃康男兄様の所属決定致すとの事」ともあり、尊敬する兄康男の戦地へ出兵が決定する事への「祝意」と「武運長久祈念」を示したものでもあったかもしれない。

芳一が三郎に対して教訓を与えたのは、多分に康男の戦地出兵が決定する事が影響していたであろう。
いや、むしろ康男への教訓をそのまま三郎へも教えたのかも知れない。

小生など戦争を体験した事のない世代は「戦地へ赴く」を言う事実を軽く考えてしまいがちであるが、実際には本人は言うまでもなく家族・恋人・友人等の身近な人々にとっては「二度と逢えないかも知れない」という恐怖に押しつぶされんばかりの心境であった筈である。
芳一だけでなく「戦地へ赴く」身近な人を持った人々は「何とか生きて還って来て欲しい…」と教訓や祈りを必死で送ったのである。

 

昭和19年10月29日 三郎から芳一への手紙 仕送りへの感謝と外出予定の連絡

 

今回は三郎が芳一に宛てた葉書。
芳一の知己宅にお邪魔した10/29(日)に書いたと思われるのだが、なぜか消印は11月(何日かは判別できず)になっているので恐らく帰校後に書き翌日以降に投函したものと思われる。

 

昭和19年10月29日 三郎から芳一への手紙(宛名面)
昭和19年10月29日 三郎から芳一への手紙

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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拝復 御手紙有難く拝見仕りました。本廿九
日無事外出して帰って参りました。ご配慮の
品々一々味わいました。有難うございました。本日は
■■様は丁度御留守で故郷の方へ行かれて
居られ正午頃十日間の旅行を終えて帰
っ(て)来られました。そして種々お土産を頂き
満足して帰って参りました。厚く御礼申し上
げて下さい。次は十一月三日と十一月十二日と
です。以後は今の所不明です。では又。
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前回の投稿もそうであったが今回の葉書もこの前に届いている筈の芳一からの(恐らく小包と一緒に届いたと思われる)手紙が小生の手元には残っていない。
ただ単に紛失しただけなのか或いは何かの事情があったのかは不明であるが、丁度この時期に長男康男(海軍船舶司令部暁部隊所属)の激戦地フィリピン出征が決定したことで家族全体に激震が走っており、その動揺が影響したのではないかと考えている。

次回以降の外出予定を「次は十一月三日と十一月十二日とです」と伝えているが、現在11/3は憲法記念日でありこれは1948年に制定された祝日であるから「それ以前は?」とググってみたところ戦前は明治天皇の誕生日に因み「明治節」と云う祝日であった。

今回の葉書は内容的には多くなくチョット物足りないので最近出てきた康男が撮ったと思われる軍隊訓練時の写真をアップしておく。

訓練の合間に①
訓練の合間に②
訓練の合間に③
訓練の合間に④

皆さん良いお顔をしていらっしゃる…