昭和20年1月17日 三郎から母千代子への絵葉書 B29が十機ばかりやって来ました…

 

今回は三郎が母千代子に宛てた葉書。

学年試験が始まったことや見ず知らずの少年から慰問状が届いたこと等、一見平穏な日常を記しているような内容であるが…

因みに絵葉書の場所の「名栗川」は入間川のことらしい。

 

20年1月17日 三郎から千代子への絵葉書①
20年1月17日 三郎から千代子への絵葉書②

解読結果は以下の通り。

***********************
拝復 御手紙有難う御座居ました 皆様
御元気との事安心致しました 私方は本日
より學年試験始り奮斗致して居りま
す 寒稽古も十三日に完りました
八日に出ればよかったのですが五日に出る様
になってゐたので 癪でした 一日の違いですのに
試験が土曜日(廿日)に終り何やかやと一
月は終り二月十一日に外出が出来る予
定です 待遠しき事哉です
康男兄さんの事未だに不明で御心配で
しょうがあまり心をつかわない様にお願い申
し上げます それからこの間敷地国民学
校の伊達誠之君から慰問状を頂きました
私は実はこの人を知りません 伊達君も私を
なぜ知ったのでしょうか? では取急ぎて

(裏面)
この絵葉書
のところは十二月
に測図演習
に行った所で
この橋の上で
河流の状況
を説明され
たのです
この日は丁度
この様なよい天
気でしたが
B29が十機
ばかりやって
来ました
被害は勿論なかったのです
***********************

頻繁にお邪魔させて頂いている芳一の知己宅へ小包を送って貰ったらしいが年明けに伺った時には届いておらず次回迄の「お預け」になってしまったことへの愚痴と思われる一節がある。
陸軍予科士官学校の「将校生徒」としては少々情けない感じもするが、要はそれ程までに物資(特に食料)不足が深刻であった証であろう。

慰問状の件についてはよく解らないが、「敷地国民学校」は三郎の実家のある三次の近隣にあったと思われ、おそらく地域の自治体等で出征者や軍関連学校へ進学した者の名簿を用意して子供達が慰問状を書いていたものと思われる。

「B29が十機ばかりやって来ました 被害は勿論なかったのです」とあるが、
(※最後の一行は絵柄と重なって判読が難しかったので正確ではないかも…)
三郎も軍人の端くれである。日本本土上空を敵爆撃機が十機も飛んでいる事がどういう状況であるかを知らない筈はなく、事の重大さは解っていたであろう。
実際に当時(昭和19年11月~)東京の飛行機工場を中心にB29による空襲が何度も行われており甚大な被害が発生していた。
但しこの時期はまだ焼夷弾が使用されていなかったことと軍需工場中心の空襲であったことで(後の大空襲と呼ばれるものと比べると)比較的被害が小さく、また当然大本営の隠蔽等もあり広く一般人には知られていなかったと思われる。

長男康男とは未だ音信不通のままの様である…

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書 待望の兵科発表 ん?消印が「大和」? 振武臺は埼玉県のはず…

 

今回の投稿は三郎が父芳一に宛てた葉書。

入校後約一年が経過し「待望」の兵科が発表された事を知らせている。

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書①
昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書②

解読結果は以下の通り。
***********************
冠省 其の後お変りは御座居ませんか お蔭様で私
は風邪も引かず元氣にやって居りますから御安心下さい
さて待望の兵科が発表されました 私は予期の如く地
上兵科です(地上兵科中の細部は未だ先のことです)
ですから又當分予科に残る事となりました すぐ航空士官
學校の方へ行くものもあります 惜別の情に堪えないもの
があります 次の外出日は二月十一日 紀元節 其の間三週間
待遠しい事オビタダシイです 小包(十三日提出された)未到着
(廿日現在)です まだ日数がかかるとおもいます 試験も本日(廿日)
をもって終り成績は良好です 試験の終った喜はどこでも同じですよ
では早速お報せまで 草々
***********************

冠省(かんしょう):「手紙の時候の挨拶などの前文を省略する」という意味で手紙の冒頭に使われる頭語。
結語として「草々」「怱々」「草々」「不一」が使われる。

これまで気付かなかったのだが、葉書の消印が「大和」となっている。
振武台(陸軍予科士官学校)は埼玉県北足立郡朝霞町である。ひょっとすると振武台からの通信物(手紙・葉書等)は一旦(神奈川県大和市に隣接している)相武台(陸軍士官学校)に移送され再度検閲されて発送されていたのではと思いググってみたが真偽の程は解らなかった。

また、一年程前の入校当時の郵便物は大体3~4日で配達されていたのだが、この時期になると一週間~10日程要しており、空襲等による戦況悪化が交通機関へも大きな影響を与えていたと思われる。

扨て、陸軍予科士官学校入校からほぼ一年が経過し、三郎「待望」の兵科が発表された。
予想通り?の「地上兵科」となったが細かい兵科区分は未定との由。

飛行機好きの三郎は本心では「航空兵科」に進みたかったのではないかと思うが、以前「船舶兵となって(故郷三次に近い)宇品へ行きたい」と云っており思惑通りだったのであろう。学年試験の首尾が良かったこととと合わせて安堵している様子が伺える。

この後三郎たち生徒は約半年間程各兵科に分れて専門教育を受けてから、本科(相武台)へ入学するのだが、実際にはこの後半年間は終戦までの混沌期間であり実際に予定通りに入学したかどうかは不明である…

 

昭和20年1月30日 三郎から母千代子への葉書 届いた小包は「お母さんの香が致しました…」

 

今回は待ちに待った小包がやっと届いた嬉しさを込めて三郎が母千代子へ宛てた葉書。

「これはお母さんの香が致しました」
本当に待遠しかったのであろう。
嬉しさが溢れている。

 

昭和20年1月30日 三郎から千代子への手紙①
昭和20年1月30日 三郎から千代子への手紙②

解読結果は以下の通り。

***********************
御葉書並に封緘ハガキ正に受取りました 家には皆変り
ないとの事安心致しました 私も至極元氣と云いたい所です
が少々風邪ギミです が大した事はありません 兵科が定
りそれにつれて當然編成換があり私達は第七区隊
となりました 区隊長殿は増澤一平大尉殿ですから
その様御承知下さい 小包は仲々到かず小包がついたら
一緒に手紙を出そうと思っていてこんなに御無沙汰致し

※赤字は区隊長のコメント
三郎君 元気ニテ修養セラレ居リ益 御安心ヒ下度候 増

ました譯です 遂に本丗日到着致しました ほんとに有難うございました これは
お母さんの香が致しました
別段忙くのではないのですがついでの時 チリ紙 白モメン(カタン)
糸 筆(小筆ニ属スルモノ休暇ノ際ノ如キ)をお送り下さい
しもやけはなおりましたがなお注イしてゐます では又
***********************

実家から送られてきた小包を開いた瞬間「我が家の香」が鼻腔を刺激し言い様の無い懐かしさを感じる事を小生も経験した事はあるが、「お母さんの香が致しました」とは本当に待ち焦がれ嬉しくそして懐かしかったのであろう。

チリ紙、糸、筆等の日常品を仕送りして貰わねばならない程物資不足が深刻であった当時、母親の愛情が詰まった小包ほど有難く嬉しいモノは無かったかも知れない…

因みに「白モメン(カタン)糸」とは「綿のミシン糸」のことで「カタン」とは「コットン」からきた言葉らしい。

「小筆」も所望しているが、確かに今回投稿の葉書は少々文字が読み辛く筆先が揃っていない様に思われる。
まぁ、それでも小生の文字よりは全然上手であるが…

 

昭和20年1月31日 三郎から父芳一への葉書 「安の目薬」とは?

 

今回は三郎から芳一に宛てた葉書。

年末年始だからかも知れないが、このところ三郎と実家とのやり取りが多少増えている様子である。

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書①
昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書②

解読結果は以下の通り。

***********************
前畧 廿八日出しの御葉書
本丗一日受取りました 色々と御心
配有難う御在居ます 私も
お蔭で風邪も快くなり元氣に
教練に學課に邁進致して居り
ますから御安心下さい 「安の目薬」
の効力偉大か 今の所昨年の凍傷
は全快 以後かからぬ様に注意して
居ります 手の甲はカサカサになって
ヒビの方がきれそうで この方に注意
して居ります 当地は早や二ヶ月以上
晴天が續き空氣乾燥し切って
居ますのです。猛烈に風邪を引き
易く咽喉の方が侵され易い状況
ですから學校等にも注意され稀
に「マスク」をつけさせられたり「ウガイ」ノ励行を叫ばれてゐます 殊にこの學校付近
は猛烈な「ホコリ」が立って一米先が見えなくなり舎内に五粍位「ホコリ」がつ
もることは稀ではありません これから風でも吹きつのると余計です 待ちにまった
小包は丗日(昨日)受取り開いてみて非常に嬉しく感じ家で包みをつくられた状況が
目の前にありありとうかんで来ました 腹巻の方は早速使用してゐます これを
してゐるとお母さんと一緒です 何事も安心して腹に力を入れて出来ます
時々腹の方をなでて見てゐます 内容品其他外部も全然異常ありま
せんでした 念の為にもう一度申し上げますが区隊が変り地上部隊は
第七区隊となりました 心氣一転して大いに張切ってやります 地上兵科
となった以上は大分私の本望兵科に近づく予算が大となりましたから
喜んで居ります こちらはまだ雪が降りません 乾燥一点張りです
明日から二月となりますが昨年の今頃は家で何をしてゐましたやら 私も
この振武臺に来てから早や一年も過ぎんとしてゐます 一刻も早く
将校となって第一線に出て米英をやっつけねばと思えばまだ月日のたつの
がおそい位です 康男兄さんから通信があったら知らせて下さい では又

※赤字は区隊長のコメント
三郎君 一生県命元氣でやってゐます 区隊長
***********************

『「安の目薬」の効力偉大か 今の所昨年の凍傷は全快』とある。
「安の目薬」?
目薬で凍傷全快?
早速ググってみた。

どうやら広島安佐地区の上安と云う所で製造されていた「目薬」なのだが、目薬ではあるが軟膏で下瞼につけ体温で自然に溶けて眼に入ると云う薬で、塗り薬として他の効用もあったようである。
おそらく「凍傷にも効く」と実家から送られてきたものを患部に塗り込んだのであろう。

http://masuda901.web.fc2.com/page5etx28.html

今年はコロナウイルスの影響で「マスク」が生活必需品に定着してしまったが、75年前の陸軍予科士官学校でも「マスク」と「うがい」が必須だったようである。

上州名物と呼ばれる「からっ風」であるが、埼玉朝霞辺りでも猛威を振るっていたのかもしれない。
『気温の低い時期に乾燥し「からっ風」でホコリが舞う』
と云うインフルエンザが流行る典型的な状況だったと思われる。
将校生徒のみならず教官たちも沢山ダウンされたのではないだろうか…

以前の投稿で「戦況悪化の影響で郵便への影響が出ている」旨の事を書いたが、今回の葉書は消印が「2/3」で芳一の手許に届いたのが「2/7」(宛名下部に記載されている)となっており、また葉書の中にも
「廿八日出しの御葉書 本丗一日受取りました」
とある。
広島埼玉間は3~4日で届いており、未だ郵便配達状況の悪化が常態化していたのではなかったのかも知れない。

「康男兄さんから通信があったら知らせて下さい」
長男康男の消息は未だ不明の様である…