今回は三郎が母千代子に宛てた葉書。
学年試験が始まったことや見ず知らずの少年から慰問状が届いたこと等、一見平穏な日常を記しているような内容であるが…
因みに絵葉書の場所の「名栗川」は入間川のことらしい。
解読結果は以下の通り。
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拝復 御手紙有難う御座居ました 皆様
御元気との事安心致しました 私方は本日
より學年試験始り奮斗致して居りま
す 寒稽古も十三日に完りました
八日に出ればよかったのですが五日に出る様
になってゐたので 癪でした 一日の違いですのに
試験が土曜日(廿日)に終り何やかやと一
月は終り二月十一日に外出が出来る予
定です 待遠しき事哉です
康男兄さんの事未だに不明で御心配で
しょうがあまり心をつかわない様にお願い申
し上げます それからこの間敷地国民学
校の伊達誠之君から慰問状を頂きました
私は実はこの人を知りません 伊達君も私を
なぜ知ったのでしょうか? では取急ぎて
(裏面)
この絵葉書
のところは十二月
に測図演習
に行った所で
この橋の上で
河流の状況
を説明され
たのです
この日は丁度
この様なよい天
気でしたが
B29が十機
ばかりやって
来ました
被害は勿論なかったのです
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頻繁にお邪魔させて頂いている芳一の知己宅へ小包を送って貰ったらしいが年明けに伺った時には届いておらず次回迄の「お預け」になってしまったことへの愚痴と思われる一節がある。
陸軍予科士官学校の「将校生徒」としては少々情けない感じもするが、要はそれ程までに物資(特に食料)不足が深刻であった証であろう。
慰問状の件についてはよく解らないが、「敷地国民学校」は三郎の実家のある三次の近隣にあったと思われ、おそらく地域の自治体等で出征者や軍関連学校へ進学した者の名簿を用意して子供達が慰問状を書いていたものと思われる。
「B29が十機ばかりやって来ました 被害は勿論なかったのです」とあるが、
(※最後の一行は絵柄と重なって判読が難しかったので正確ではないかも…)
三郎も軍人の端くれである。日本本土上空を敵爆撃機が十機も飛んでいる事がどういう状況であるかを知らない筈はなく、事の重大さは解っていたであろう。
実際に当時(昭和19年11月~)東京の飛行機工場を中心にB29による空襲が何度も行われており甚大な被害が発生していた。
但しこの時期はまだ焼夷弾が使用されていなかったことと軍需工場中心の空襲であったことで(後の大空襲と呼ばれるものと比べると)比較的被害が小さく、また当然大本営の隠蔽等もあり広く一般人には知られていなかったと思われる。
長男康男とは未だ音信不通のままの様である…