広島市本川町の三郎宅での新年会…かな? 昭和45(1970)年頃か…

明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

令和三年が明け当ブログも足かけ三年目を迎えました。
本年も出来るだけ沢山の方々にご覧頂けるよう頑張る所存です。

扨て新年第一回は、昭和45年頃の正月に三郎宅に芳一・三郎・芳子の揃った(小生にとってはかなり懐かしい)写真が発見されたので、それを投稿したいと思う。

三郎宅での新年会にて 昭和45年頃

後列の3人の女性は左から、三郎次女・長女・奥さん
前列左より、三郎・常子(芳一後妻)・芳一・芳子長女・芳子
最前列右に鎮座しているのが小生(芳子長男)
である。

実はこの写真は小生の手許にあったものではなく、国際新報社から出版された「新 昭和回顧録 我が人生の記」と云う分厚く立派な書物に掲載されていたものである。

以前よりこの書物が遺品の中にあることは知っていたのだがこれまで内容については知らなかった。
「何か投稿出来るモノはないかなぁ」と漁っていたところ(笑)目に留まったので開いてみた訳である。

この「新 昭和回顧録 我が人生の記」と云う書物は先の大戦で散華された軍人・軍属の方々を称え記録に残すべく広島県遺族会の協賛によって出版されたもので長男「故 三原康男」が掲載されているのだが、編纂当時芳一は既に他界しておりどうやら常子が写真・記事を提供して掲載されたものらしい。

写真でもお判りの様に三郎は(三原家の中では)体格も良く陸軍士官学校で鍛えられた厳格さもあった。
かなり以前の投稿(2019/05/08)の最後の件でこの写真当日の出来事をお伝えしたのだが、その中で三郎は小生にとっては「怖い伯父さん」であったと言っている気持ちが多少分かって頂けるのではないだろうか…
https://19441117.com/2019/05/08/

 

船舶司令部潜水輸送教育隊矢野隊長からの「戰死認定書」発見…何故か日付は終戦前の昭和20年6月8日

 

 

戦前戦中の遺品の投稿がひと通り終り、今後投稿してゆく題材を求めて遺品漁りをしていたところ、長男康男の戦死に関し「戦死認定書」なるものが出てきた。

昭和20年6月8日 戦死認定書①
昭和20年6月8日 戦死認定書②
昭和20年6月8日 戦死認定書③
昭和20年6月8日 戦死認定書④

***************************
戰死認定書
船舶司令部潜水輸送教育隊
陸軍少尉 三原康男

一、生死不明トナリタル日時場所
日時 昭和十九年十一月十七日二十二時0七分
場所 黄海南方東経一二四度三四・五北緯三三度三五海上
二、生死不明トナリタル前後ノ状況
昭和十九年十一月十五日特設水上勤務第自一四四至一五一中隊要員
トシテ陸軍輸送船江戸川丸(輸送指揮官河滿大尉)ニ乗
船シ篠田大佐ノ指揮スル「ミ二七」船團ニ加ハリ同日十六・00
頃大連港ヲ出帆「マニラ」ニ向ヒ航行中十一月十七日二二・
0七分(頃)江戸川丸ハ東経一二四度三四・五北緯三三度三五
海上ニ於テ敵潜水艦ノ魚雷攻撃ヲ受ケ遂ニ同船
右舷側三番船艙ニ被雷大音響ト共ニ爆發浸水
シ機関モ亦停止セリ
次テ甲板上ノ舟艇・自轉車等ニ引火シ火災ヲ生起スル
ニ至レリ 被雷直後全員警急集合所タル左舷甲板上
ニ集合シアリシモ輸送(司)指揮官ノ退船命令ニ據リ海
中ニ飛込ミ退避セルモノノ如シ 江戸川丸ハ翌十一月十八日
0一・三0分頃艏部ニ積載シアリシ爆雷ニ引火セルモノ
ノ如ク大爆音ト共ニ沈没セリ
退船者ハ船中ヨリ投出或ハ流出浮上セル筏木片浮
胴衣等ニ據リ漂流中同日0三・00分頃ヨリ一三・00分頃
ニ至ル間護衛艦タル海防艦一、掃海艇一ニ依リ乗船
者に貮千余名中約一九六名ヲ救助セリ 引續キ附近
海面ヲ捜索セルモ他ハ發見スルニ至ラズ 當時天候和風
程度ニテ良好ナリシモ闇夜ナリ
三、採リタル捜索手段
被雷當時敵潜水艦ノ攻撃は執拗ニシテ護衛艦ハ驅潜
並ニ他ノ船舶ノ護衛ニ任シタリシ為メ僚船鎮海丸専ラ
遭難者ノ救助ニ任シアリシモ之又敵潜ノ為メ撃沈
セラレタリ 十八日0三・00分頃ヨリ護衛艦ハ救助ニ着
手セルモ闇夜ノ為メ意ノ如クナラズ依テ一時之ヲ中止
天明ヲ待ッテ再ヒ救助ヲ開始セリ
然ルニ朝来風速加ハリ波浪髙クナリタルタメ捜索困
難トナリタルモ極力遭難地点ヲ中心トセル海域ノ捜索
ニ努メシ結果一九六名を救助セルモ他ハ何等ノ
手掛ナク同日一三・00分頃捜索ヲ中止シ十一月二十日
上海ニ入港セリ
四、戰死認定ノ理由
前記ノ如ク捜索スルモ得ル所ナク其ノ後半歳餘ヲ經タ
ル今日本人ニ関シ何等消息ナキハ船ノ遭難(者)時爆死又
ハ退船ノ餘祐ナク船ト運命ヲ倶ニスルカ又ハ海上ニ退船
スルモ大海中ナルタメト寒冷ノ為メ游泳力盡キ溺死
セルカ何レカニシテ茲ニ事實ヲ精査シ死体ハ發見セ
サルモ戰死シタルモノト認定ス
昭和二十年六月八日
船舶司令部潜水輸送教育隊長陸軍大佐矢野光二
***************************

昨年11月8日に投稿した「生死不明トナリタル迄ノ経歴」とほぼ同じ内容なのであるが、今回のものは毛筆書きにて丁寧に認められており「正式な書類」感が強い。
ただ今回のものは日付は終戦前の昭和20年6月8日となっており、終戦後の昭和20年9月8日付で矢野隊長から送られてきた前回投稿のものよりも前に書かれたものとなるのだが、内容的には今回のものの方が詳しく記されている。

https://19441117.com/2020/11/08/

例えば
「二、生死不明トナリタル前後ノ状況」の次の件は9月8日の新しい(後の)ものでは
「〇〇隊要員」と省略されているが、今回の旧い(前の)ものでは「特設水上勤務~中隊要員」と正確に書かれており、他にも細かい部分で記述が異なっている部分が散見される。

小生の推測であるが、元々戦死認定書は昭和20年6月8日付で作成されていたが、戦争末期~終戦直後の混乱の中遺族への通達が出来ず、親族からの要請に応えるために矢野隊長以下船舶司令部の方が書類を書き写して(占領軍に隠れて)送付したのではないかと思う。
故に前回の投稿のものに同封された矢野隊長の手紙(こちらは昨年10月31日に投稿)に
御閲覧後 焼却下され度し
と朱書きされていたのであろう。

https://19441117.com/2020/10/31/

「四、戰死認定ノ理由」は前回投稿のものには記載がなく今回初めて目にする部分であるが、
「爆死、溺死」と遺族にとっては心をえぐり取られるような言葉が並んでいる。

これが「戦争」である…

 

明治30年頃の三原家の写真 芳一は1歳 千代子は生まれる前…

 

小生から見ると芳一・千代子は祖父母にあたるのだが、遺品を漁っていると結構古い写真などが出てくるもので、今回のものはその芳一・千代子から見て父・祖父母にあたる人々の写真である。

 

三原家の写真 明治30年頃

写真と共に芳一が昭和13年に取得したと思われる戸籍抄本が保管されていたのでそれと照らし合わせてみた。
小生から見れば曽(ひい)祖父・高(ひいひい)祖父母にあたり、120年以上も昔の「ご先祖様」を拝むことが出来るとは思っていなかったので少々興奮気味である。

戸籍で確認したところ高祖父母(和七・キク夫妻)はともにそこそこ長命で、和七は大正十三年に72歳で、キクは昭和12年に77歳で没している。
しかしその息子(曽祖父)の常一は(この写真が明治30年のものだとすると)翌31年に結婚し33年に長女千代子を儲け翌34年に23歳の若さで他界している。(何故亡くなったのか詳細は不明)
千代子にすれば物心がついた時には既に父親は居なかったわけである。
いや、それどころかもう数年彼の死期が早ければ千代子は生まれておらずその末裔たる小生など将に「影も形もなかった」のである。

明治29年生まれの芳一は当時1歳くらいであった。
その後大正10年29歳の時に千代子と結婚し同時に一人息子を亡くし跡継ぎのいない和七・キク夫妻と養子縁組をしている。
ただし、その年の8月に長男康男が生まれているので「できちゃった婚」のにおいが…

因みに康男も常一と同じ23歳で戦死している…

 

大正4年3月11日撮影 芳一18歳… 慰安旅行か? 三次の某旅館にて

 

前回に続き今回も100年以上前の旧い写真を投稿。

上掛けのトレーシングペーパーには「大正四年三月十一日撮影」と記されているので、芳一18歳の時のもので、小生の手許にある芳一の写真の中では一番旧い。

 

大正四年三月十一日 芳一18歳の頃

二階外廊下の右から四人目の新聞らしきモノを読んでいるのが若かりし頃の芳一である。
建物や人の影が長く伸びていることから察するに夕刻の様で、会社の慰安旅行等で観光地を巡った後宿に到着し一風呂浴びたあとでの一コマのようである。
場所等の詳細は不明だが、写っている人力車をトレーシングペーパーには「三次某車夫」と書いているので、三次或いはその近郊であろう。

扨て、慰安旅行だとすれば当時芳一は何処に勤めていたのか小生は知らないのだが、「銀行マン」だったと云う話は芳子から聞いてはおり、また遺品の中に「広島縣農工銀行創立三十五周年記念 昭和八年九月」と記された置時計があるので、おそらくこの「広島縣農工銀行」につとめていたのではないかと思う。

広島縣農工銀行創立35周年記念置時計①
広島縣農工銀行創立35周年記念置時計①

 

広島縣農工銀行創立35周年記念置時計②
広島縣農工銀行創立35周年記念置時計②

人物自体は小さく写っているため芳一の表情がはっきり確認できないのが残念であるが、小生の手許にある唯一の「禿げていない時の芳一」の写真である…

 

明治28年 曽祖父三原常一の就職先は第六十六国立銀行…?

 

今回も少々時代を遡って小生の曽祖父(千代子の父)である三原常一に関しての話題である。

前回の投稿で芳一(小生の祖父、千代子の夫)が銀行マンで広島県農工銀行に勤めていたらしいと云う話をしたが、どうやら常一も銀行マンだった様である。

 

雇申付 三原恒(常?)一 明治28年10月2日

解読結果は以下の通り

***************************
        三原恒一

雇申付候也
 但月給金参円給与候事

明治廿八年十月二日
      第六十六国立銀行頭取
        天野嘉四郎
      同支配人
        福原陳興
***************************

要は採用辞令の様な書類であろう。

恒一となっているが恐らく記載ミスと思われる。

この時常一は17歳で当時の学校制度では尋常中学校を卒業したばかりの年齢である。
ググってみたところ、当時六十六国立銀行は本店は尾道市、支店は広島市と福山市にあったようであるが、常一がどこに配属されたかは定かでない。

ただ、この4年後の明治32年の写真が遺っている。

明治32年地価及地租率改正の際 於三次税務署

これは明治32年の地価及び地租率改正の際の三次税務署執務人員の記念撮影で、上から二段目の右から三番目が常一である。
この写真当時常一が銀行職員だったのか税務署員であったのか不明であるが、案外入行当時から地価・地租率関連の仕事で三次税務署に派遣された様な勤務形態だったのかも知れない。

それにしても当時の国立銀行職員って国家公務員?
だとしたら”ひいじいちゃん”ちょっとすごい(笑)