船舶司令部潜水輸送教育隊矢野隊長からの「戰死認定書」発見…何故か日付は終戦前の昭和20年6月8日

 

 

戦前戦中の遺品の投稿がひと通り終り、今後投稿してゆく題材を求めて遺品漁りをしていたところ、長男康男の戦死に関し「戦死認定書」なるものが出てきた。

昭和20年6月8日 戦死認定書①
昭和20年6月8日 戦死認定書②
昭和20年6月8日 戦死認定書③
昭和20年6月8日 戦死認定書④

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戰死認定書
船舶司令部潜水輸送教育隊
陸軍少尉 三原康男

一、生死不明トナリタル日時場所
日時 昭和十九年十一月十七日二十二時0七分
場所 黄海南方東経一二四度三四・五北緯三三度三五海上
二、生死不明トナリタル前後ノ状況
昭和十九年十一月十五日特設水上勤務第自一四四至一五一中隊要員
トシテ陸軍輸送船江戸川丸(輸送指揮官河滿大尉)ニ乗
船シ篠田大佐ノ指揮スル「ミ二七」船團ニ加ハリ同日十六・00
頃大連港ヲ出帆「マニラ」ニ向ヒ航行中十一月十七日二二・
0七分(頃)江戸川丸ハ東経一二四度三四・五北緯三三度三五
海上ニ於テ敵潜水艦ノ魚雷攻撃ヲ受ケ遂ニ同船
右舷側三番船艙ニ被雷大音響ト共ニ爆發浸水
シ機関モ亦停止セリ
次テ甲板上ノ舟艇・自轉車等ニ引火シ火災ヲ生起スル
ニ至レリ 被雷直後全員警急集合所タル左舷甲板上
ニ集合シアリシモ輸送(司)指揮官ノ退船命令ニ據リ海
中ニ飛込ミ退避セルモノノ如シ 江戸川丸ハ翌十一月十八日
0一・三0分頃艏部ニ積載シアリシ爆雷ニ引火セルモノ
ノ如ク大爆音ト共ニ沈没セリ
退船者ハ船中ヨリ投出或ハ流出浮上セル筏木片浮
胴衣等ニ據リ漂流中同日0三・00分頃ヨリ一三・00分頃
ニ至ル間護衛艦タル海防艦一、掃海艇一ニ依リ乗船
者に貮千余名中約一九六名ヲ救助セリ 引續キ附近
海面ヲ捜索セルモ他ハ發見スルニ至ラズ 當時天候和風
程度ニテ良好ナリシモ闇夜ナリ
三、採リタル捜索手段
被雷當時敵潜水艦ノ攻撃は執拗ニシテ護衛艦ハ驅潜
並ニ他ノ船舶ノ護衛ニ任シタリシ為メ僚船鎮海丸専ラ
遭難者ノ救助ニ任シアリシモ之又敵潜ノ為メ撃沈
セラレタリ 十八日0三・00分頃ヨリ護衛艦ハ救助ニ着
手セルモ闇夜ノ為メ意ノ如クナラズ依テ一時之ヲ中止
天明ヲ待ッテ再ヒ救助ヲ開始セリ
然ルニ朝来風速加ハリ波浪髙クナリタルタメ捜索困
難トナリタルモ極力遭難地点ヲ中心トセル海域ノ捜索
ニ努メシ結果一九六名を救助セルモ他ハ何等ノ
手掛ナク同日一三・00分頃捜索ヲ中止シ十一月二十日
上海ニ入港セリ
四、戰死認定ノ理由
前記ノ如ク捜索スルモ得ル所ナク其ノ後半歳餘ヲ經タ
ル今日本人ニ関シ何等消息ナキハ船ノ遭難(者)時爆死又
ハ退船ノ餘祐ナク船ト運命ヲ倶ニスルカ又ハ海上ニ退船
スルモ大海中ナルタメト寒冷ノ為メ游泳力盡キ溺死
セルカ何レカニシテ茲ニ事實ヲ精査シ死体ハ發見セ
サルモ戰死シタルモノト認定ス
昭和二十年六月八日
船舶司令部潜水輸送教育隊長陸軍大佐矢野光二
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昨年11月8日に投稿した「生死不明トナリタル迄ノ経歴」とほぼ同じ内容なのであるが、今回のものは毛筆書きにて丁寧に認められており「正式な書類」感が強い。
ただ今回のものは日付は終戦前の昭和20年6月8日となっており、終戦後の昭和20年9月8日付で矢野隊長から送られてきた前回投稿のものよりも前に書かれたものとなるのだが、内容的には今回のものの方が詳しく記されている。

https://19441117.com/2020/11/08/

例えば
「二、生死不明トナリタル前後ノ状況」の次の件は9月8日の新しい(後の)ものでは
「〇〇隊要員」と省略されているが、今回の旧い(前の)ものでは「特設水上勤務~中隊要員」と正確に書かれており、他にも細かい部分で記述が異なっている部分が散見される。

小生の推測であるが、元々戦死認定書は昭和20年6月8日付で作成されていたが、戦争末期~終戦直後の混乱の中遺族への通達が出来ず、親族からの要請に応えるために矢野隊長以下船舶司令部の方が書類を書き写して(占領軍に隠れて)送付したのではないかと思う。
故に前回の投稿のものに同封された矢野隊長の手紙(こちらは昨年10月31日に投稿)に
御閲覧後 焼却下され度し
と朱書きされていたのであろう。

https://19441117.com/2020/10/31/

「四、戰死認定ノ理由」は前回投稿のものには記載がなく今回初めて目にする部分であるが、
「爆死、溺死」と遺族にとっては心をえぐり取られるような言葉が並んでいる。

これが「戦争」である…