昭和19年7月2日 三次中学同級生FUさんからの葉書 鹿児島海軍航空隊 いわゆる予科練…

 

今回の投稿は三次中学の同級生で「甲種飛行予科練習生」いわゆる「予科練」として鹿児島の海軍航空隊に入隊されていたFUさんからの葉書である。

先日一時帰郷した際の故郷三次や同級生達の様子を伝えている。

昭和19年7月2日 三次中学同級生FUさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 長らく御無沙汰したが貴様元気か。勿論元気
だろう。俺も元気か?元気だ。二十一日より帰省がかなって
本日帰隊した所だ。帰省中の感想をのべたい所だが紙が
ないので止めておく。兎に角三次は変っては居ない。まあ尾関
山や土手が畠になっている位のものだ。しかし君や桑原が居
ないので物足ない感じがした。つまり淋しかった。君の家には皆元気
だから御休神下され度候。二十六日は四年五年が挺身隊として
呉へ行った。非常な張切り方元気で出発した。俺達はそれを
見送りに帰ったような形になった。あいつらとは十分會い又遊
びもしながら心おきなく行ったと思う。二十七日は一寸学校へ行って
一席辨じたけれど元よりあまり口が達者でないので赤くなったり
青くなったり七面鳥が顔負しそうだ。然し皆感銘したようだった。
長い事便りをしなかったので気分を悪くしただろうが切角君から
もらった葉書を置き忘れていたのだ。許して呉れ。君の写真は君の
家へ行った時君のお母さんから一葉もらった。ではお体を大切に。
お互いに頑張ろう。
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当時の若者達の憧れでもあった「予科練」である。
戦況の悪化に伴う増員もあったとは言え頭脳だけでなく身体も優秀な人物しか入隊できない狭き門である。
当然FUさんも非常に優秀であり葉書の内容だけでなく達筆からもそのことが推し量られる。

葉書には赤鉛筆で米軍機らしき「空ノ毒蛇エアーコブラ(P-39か?)」とそれを撃墜せんとするゼロ戦とおぼしき「新鋭セントーキ」の戦闘シーンが描かれている。

「新鋭セントーキ」と「空ノ毒蛇エアーコブラ」

優秀であっても17~8才の青年である。
まだまだ子供の一面を持っているのだ。

「予科練」に関しては多くのサイトで当時の様子などの詳細が語られており、拙ブログでの解説は無用であるが、当時戦況の悪化は著しく、「予科練」は空だけでなく海でも特攻隊員の養成所の様相を呈していたようである。
以下サイトを参考頂きたい。

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2260

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2277

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2303

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2321

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2363

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2394

「特攻隊」に関しては現代に於いても賛否両論あるが、特攻に於て殉死された方々を「英霊」として崇めることは決して戦争を美化しているのではなく我国の国難に際して勇敢に戦って下さった方々への感謝と弔いの表現であると小生は思う。

FUさんが「特攻隊員」になられたか否かは定かではないが…

 

昭和19年7月4日 父芳一から三郎への手紙 康男マルユ学生卒業 マルユ?…

 

今回は父芳一から三郎へ宛てた手紙。
相変らず芳一の文字は難読が多い。二三か所怪しい部分があったが大勢に影響はないのでご勘弁願う。

七月に入り時候も梅雨から夏へと変わり、時の流れは玉葱、夏豆、ジャガイモ、ナス、キュウリなどの作物だけでなく「戦局悪化」も実らせていた。

長男康男は四国の暁部隊へ転隊し新たな隊務に着いた。

昭和19年7月4日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年7月4日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年7月4日 芳一から三郎への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際お世話になった。

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雨のない梅雨と農家は雨を待って居たが最近雨も降り田植
も大体済み嬉しい事だ。何と云っても稲の植付けは一億国民
の生命線だから。其後元氣で実務勉励中との事
安心した。家にも変りない。敬さんも近頃よく肥って
毎日家の中でコソコソして居る。寝ても居られないらしい。
しかし今暫らくは静養して絶対安全迄は勤務させぬ
つもりだ。康男兄さんも六月三十日夕方帰宅。七月一日
正午頃お父さんと一緒に出三次。千田町の下宿を引拂って
四国地へ移った。六月三十日マルユ学生卒業。三島の部隊では
実習か部下教育か 兎に角一応学生と云う事を済めた
訳だ。住所はまだ連絡しないが
愛媛県宇摩郡三島町暁部隊陸軍少尉――――様
で多分届く筈だ。康男から書面が行くだろうから
それから通信してもよい。
敬に宛てたハガキ七月三日に着した。兄さんから返事する
だろう。四五日前に書留小包で注文の文房具用紙類
を送ったが届いたやら。届いたら「無事故到着」の旨ハガキ
で返事せよ。
先日■■君からハガキ来た。お前も四月以来外出なきか
来ぬ との事。時局緊迫のため外出がないのだろう とあった。
魷の焼いたのでも送りたいと思って居るがまだ準備が出来
ぬ。
待望の夏休みも一ヶ月の後になった。無事で帰省する
様に 待って居る。トランクが入用なら早く知らせよ。買って
■■君宅へ届けて置かぬと間に合わぬ様になるから。
藤川君 宍戸君等予科練の連中六月下旬に休暇
で帰省。上着白黒ズボンに帽子に白覆した凛々しい姿で
挨拶に来た。お前等と逢う事はもうあるまい。
八月から飛行機に乗るんだそうな。
康男兄さんにお嫁さんを貰ってやり度いと 三原校長や其他
の人が心配して居て下さる。上下町と甲山町と二人お父さんが見
に行った。上下の方はお断り 甲山の方 昨日見に行ったがそれも
ドウでもよい位だ。急ぐ事もないが なるべく内地に居る間
にと思って居る。年内は内地に居るらしいので。
お前が手伝って植えた玉葱は十貫程出来た。夏豆も四五瓩
出来た。休暇にたべさすよ。ジャガタラ薯も七八貫とれた。
目下キューリが毎朝四五本はトレルよ。ナスも大分大きく
なった。お母さんも元氣になり家の世話をして居る。芳子も毎日
通学して居る。時候に注意し寝冷えせぬ様にせよ。では又。
七月四日朝八時十分書き終る。
父より
三郎様
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康男が「マルユ学生卒業」とあるが、「マルユ」とは何か?
小生もこの手紙を読むまでは知らなかったのでググってみた。

康男が所属していた「暁部隊」とは大日本帝国陸軍に於ける船舶運用部隊で、兵員や物資の輸送を任務としており輸送艦の「ゆ」から「マルユ」と呼ばれていた様なのだが、当時米潜水艦による陸軍輸送船団の消耗が著しく潜航による輸送を画策していたことから正確には「潜航輸送艇」を「マルユ」と呼んでいたらしい。

詳細は以下サイト参照願う。
http://www.gearpress.jp/blog/?p=5986

予科練へ行った同級生達が一時帰省し挨拶に来た旨の件に
「お前等と逢う事はもうあるまい。」
とあるが、ひょっとすると芳一は彼らが「特攻隊員」として今生の別れに来たと感じていたのかも知れない…
ならば、康男が同様の境遇に居るかも知れない事も気付いていたのかも…

「嫁さがし」も複雑な心境だったであろう…

 

昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙 物のない時代…

 

今回は病気で静養中の次兄敬から三郎に宛てた手紙。

以前の手紙では過激な言葉で三郎へ檄を飛ばしていたが、(病気で)家族に迷惑を掛けてしまったと云う負い目からか多少の自虐も含めた大人しい内容になっている。

昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙①
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙②
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙③
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。

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どうだ、其の後手紙を見ると元気の様
だが、まあせいぜい張切って御奉公して
くれ。充分体に気を付けて兄さん見
たいに張切ったのは良かったが… 此んな
事になって終い仕事は出来ず皆には
心配掛けるし何も得はない。一番損だ。
呉々も気を付けてくれ。
今は大分良くなりどうにか起きて
居る。未だ外には出ないが家の中でごそごそ
している。安心してくれ。殆ど大丈夫と思う。
ぼつぼつ相當ごちゃごちゃしていた本箱
や色々の本の整理をしている。芳子も良
く手傳ってくれるのではかどる。
芳子のは敵は本能寺でノートの古いの
を出しては使ってない所を切っている。
今頃の子供は変ったよ。仕方はないと言
うものの新しいのを余り使わない。
そんなのを持っていると気が引けるのかも
知れぬ。今になって自分等のノートの
残りが役に立った様な訳。
きゅうりが沢山なるので毎日きゅうり計り。
小学校の壁際(家の前の道路の)にづうー
と南瓜を植たのがもう沢山実がなって
いる。早く家に手を付ければよかったのに
小学校に先手をとられて終った。
毎日大きくなるのを見ているだけ。
畠の南瓜も大きくなり道行く人が
皆立止まって見ている。御父さんが大き
な棚を作られたので。
“なす”も元気良く大きくなりつつある。
ぢゃがいもが十貫計りとれた。三貫計り
献納して七貫程ある。
豆も沢山とは言えぬ迄も畠に位べて良
く出来た。
今日板木の御祖母さんが来られた。
税務署に要件があるとかで
今晩は泊まられる。
今日は此の辺りで
元気で勉強せよ
 四日
        敬
三郎殿
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「敵は本能寺」…
物資が不足しノートや便箋も新品を持つことが憚られた時代。
我が母芳子は敬の本箱整理の手伝いをしながら、兄達が使ったノートの未使用ページや未だ使えそうな余白部分を切り取って「再」利用していた様である。

以前にも述べたと思うが、息子である小生から見て芳子は決して「ケチ」ではなかった。それどころか身の回りのモノ(食器類や衣類、電化製品等)に関してはこだわりがあれば結構値の張るモノでも購入していた。

しかしながら「あの時代」を経験した世代だからであろう…何時使うかわからない様な包装紙や紙袋、古着など「捨てられない」ひとでもあった。

鉛筆を小刀(肥後守と云う折畳み式のもの)で削るのがとても上手だった。
紙縒り(コヨリ)も細くてピシッとしたものを縒ることが出来た。

「お母ちゃんはねぇ、クラスで一番上手じゃったんよ」と自慢たらしく幼い小生に鉛筆を削ったり紙縒りを縒って見せてくれたものである。

日本中にモノが溢れ何でも手に入る便利な世の中にはなったが、小刀で鉛筆を削りピシッと紙縒りを縒れる人はどれくらいいるだろうか…

 

昭和19年7月5日 康男から三郎への葉書 愛媛県宇摩郡三島町字中ノ庄に転地…

 

今回は長男康男が四国へ転隊後すぐに出した葉書。

康男は宇摩郡三島町にあった暁二九四〇部隊矢野部隊(陸軍潜水輸送教育隊・通称マルユ部隊)に配属された様である。

肉体的にも精神的にも疲れていたのであろうか、文字も多少「殴り書き」の様である…

 

昭和19年7月5日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 本格的な夏を迎えんとする候と
なったが、其後どうだ。訓練も暑さの砌、
仲々苦しい事と思うが、今緊張を欠いたら
今迄の苦心も水の泡となる。大いに自粛、百戒。
体には細心の注意を要する。八月ともなれ
ば帰省の機会もあるとの事。家では楽しみ
にして待っている。小官、本月初め当地に転じ
て新しく服務している。田舎はおおらかで、
仲々よろしい。帰郷して御前と会える
機会を今から待っているが、どうなるか分らん。
とにかく充分体に気をつけて頑張るべし。
早々
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康男の新しい住所は
愛媛県宇摩郡三島町字中ノ庄○○○○方
となっている。
現在の四国中央市の三島中ノ庄辺りであろうか。

当時帝国陸軍は戦艦や船舶をほとんど失っていた帝国海軍に頼らず自力で戦線へ物資を輸送するために中型潜水艦マルユ(○の中にユ)を極秘で開発・製造しており、康男はその潜水艦の運用任務にあたったと思われるが、この同時期に暁二九四〇部隊矢野部隊は小豆島に「陸軍船舶幹部候補生隊」を設置し「海の特攻隊」と呼ばれた通称マルレ(○の中にレ)艇の訓練を開始しておりそちらの作戦行動に関与していた可能性もある。

小生、これまで「特攻」と云う史実についてそれなりに理解しているつもりであったが、今回肉親である康男(大叔父)がこの「特攻」に関与していたかも知れない事を知るにつけ、これまでとは違った視点からこの「特攻」を知らなければならないと感じている。

「帰郷して御前と会える機会を今から待っているが、どうなるか分らん」
帰郷の予定も定かでなかったのは極秘任務にあたっていたためなのかも知れない…

 

閑話休題 なんの因果か…

拙いブログを綴り始めて凡そ一年になる。

母とその家族の残した手紙や葉書を読み解きながら第二次世界大戦末期の我国と庶民の様子を少しでも追体験していただけたら…と考えて始めたのだが、なんの因果か現在世界はまさかの”新型コロナ世界大戦”の真っただ中にある。

昨年8月30日の投稿で「75年前の愛でられなかった桜」の話をしたのだが、

https://19441117.com/2019/08/30/

悲しい事に令和に改元されて最初の満開となる今年の桜たちも「愛でられなかった桜」となってしまっている。
まぁ、実際の所は当時も現在も”花見の宴会”が自粛されただけで、個人的に「愛でて」いる方々は結構いらっしゃる筈ではあるが、しかし、やはり、刹那に咲き誇る「桜」の下での宴は日本の心情でありそれを封印せざるを得ないのは本当に残念である。

オリンピックに関しても昭和19年(1944年)はロンドンオリンピックが中止されており、その4年前の昭和15年(1940年)の東京オリンピックも中止になっているのである。

https://19441117.com/%e4%b8%89%e7%94%b7%ef%bc%88%e4%b8%89%e9%83%8e%ef%bc%89/%e4%b8%89%e9%83%8e%e3%80%80%e6%8c%af%e6%ad%a6%e5%8f%b0%e6%97%a5%e8%a8%98%e3%80%80vol-4/

今回の「東京オリンピック」は中止ではなく延期であるが、それにしても異常事態である。

東京近郊ではそろそろ葉桜になり始めた「桜」であるが、この時期各地の「桜」の下で再会されているであろう英霊の方々も少々寂しい思いをされているのではないだろうか…

 

昭和19年7月18日 鹿児島海軍航空隊FUさんからの葉書 これが最後の通信かも知れない…

 

今回はつい一ヶ月程前にも投稿した三次中学同級生で甲種飛行予科練習生として鹿児島海軍航空隊に所属していたFUさんからの葉書。

 

 

昭和19年7月18日 鹿児島海軍航空隊FUさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 御手紙拝見。貴様も元氣との事、安心した。
俺も元氣だ。貴様等も通信をやっとる相ぢゃが通信上達法
の密(秘?)ケツを伝授しよう。先づ符号を誰ヨリも先に確実に覚えること。
そして常に人より先を行くことだ。不断の努力無くして勝利は望め
ないからの。俺は通信に於ては決して人には負けて居らんぞ。貴様も
大いに頑張れ。戦いは将に激烈だからの。前線の将兵は我等を
待って居るのだ。此の国難を開拓するのは我々だからの。
帰省の時、桑原が居なかったので全く面白くなかった。彼は山梨
の航空機関学校へ今年四月から行っとる。(住所は後記ノ通り)
エンヂン機は見なかった。あの日の飛行が最初にして最後だった
らしい(?)又級友諸君もそれぞれ所を得た所へ行って居る。山縣君は薬専
へ、三宅は師範へ、秋本は?、廣澤は忘れた(“ーー”)。帰って学校で一・二・三年生を
集めて一席話したがどうもはなはだ心ゾーが破裂せんばかりに高鳴った。
幸便に任せて五年生諸君が働いて居る所もお知らせしよう。
山梨縣中巨摩郡玉幡村玉川 込山良作方 桑原義憲
廣島縣呉市阿賀寄宿舎第三寮三十七室 五年生一同
なお、これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら
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「通信」とは暗号も含めた無線通信の事であるが、戦争の拡大により通信要員の需要が増大し陸海軍共に軍部内での要員育成を行っていた様である。

「エンヂン機は見なかった。あの日の飛行が最初にして最後だったらしい(?)」の件は前回投稿した葉書への三郎からの返信に対してのやり取りらしく内容が不明である。
「エンヂン機」とは戦争末期に帝国海軍が開発していた「ジェットエンジン機」のことではないか?と思ったのだが、ググってみたところ国産初のジェット機の飛行は翌1945年8月7日の事でこの件にはあたらない様である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%8A%B1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

「なお、これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら」
最後のこの一文が気になったのであろう。三郎が付けたと思われる赤い線が引かれている。
FUさんが故郷三次へ一時帰郷し三郎宅(三郎は不在であったが)を訪問した際の様子を見て父芳一が
「お前等と逢う事はもうあるまい。」
と三郎への手紙に記している。
これは芳一が「FU君は特攻隊に志願したのかも知れん」と思って書いたものだと思っていたが、豈図らんや本人自身が同様の事を書いている。
葉書の内容からはさほど悲壮感や惜別感は感じられないのであるが、やはり特攻隊員に志願されたのであろうか…

 

昭和19年7月22日 千代子から三郎へ 待ち焦がれる「夏休み」…今生の別れとならん事を…

 

今回は千代子が三郎に宛てた手紙。

目前に迫った三郎の夏休み帰省を心待ちにした内容である。

 

昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。
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お葉書ありがとう。折角如何して
居るやらと案じて居りましたが
幸に変りなく毎日元気でやってゐま
す由大変うれしく思います。
家の方には別に変りはありません。
今年は大掃除が七月にありまし
て、十五日が検査日でありました。
十三日はお父様が休んで手伝って
下さいました。十四日は私が一人でやり
ましたが、何かと体を用心しますので
またしてもお父様の手をかります。
づっと母さんも元気になって大掃除
をしてもあまりつかれも出ません。
元の躰になったのでしょう。安心して下さい。
ほんとに月日の立つのは早いものですよ。
まだまだと思っていましたが、七月も二十二日
となりました。一ヶ月もせんうちに
帰省できますかね。
それから康男兄さんは又(十九日)広島
へ帰りました。二十日朝広島で集合
という命で十九日朝帰り終列車
で又広島へ帰りましたよ。
十月頃まで広島へ居るらしいよ。
くわしい事は私もよく存じませんがね。
夏休みに帰ったら面会できましょう。
又下宿の心配せんと前のは外の将校
がかりたそうな。二人居るとか、二十日もせん
のに又帰るとはどうも一寸先も知れ
ません。サイパン島のことを思えば
自分勝手など口に出来ませんね。
三郎様も一日(も)早く一人前になれる
日を楽しみに待っていますよ。
雨が降らんので畠の作物も弱って
居ります。国民学校の校庭は
ナス、サツマイモ、トマト、ナンキン、とても
たいした作物ですよ。
三郎さんも見たらびっくりしますよ。
同級生が居らんから一寸淋しいね。
今朝、管さんに会いました。倉野
さんのおばあさんですが、あの倉野
さんはお休みはないのでしょうね。
もしおあいしたら三次へことづけ
をいたしましょうかと申してみなさい。
敬兄さんの友 野面さんも十五日から
三日ほどあそんで帰られました。
芳子も元気で通学してゐます。
授業するのは一年生と二年生です。
三年生は十日市の飛行機会社
の部分品を作るのだそうです。
お互に負けない様に自分自分の
仕事に精出しましょうね。
三郎さんも暑さに負けん様に
気をつけて勉強、教練をやって
下さいね。板木のおばあさんも
楽しみに待って居られるよ。
三郎が帰ってくればくればとあれもこれも
と約束の用意はしてあります。
みんな待ってゐますからね。
ではこれから夕食の支度を致します。
四時になりますからね。呉ゝも用心してね。
元気を出して勉強するのですよ。
サヨウナラ
母より
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三郎の夏季帰省まで一ヶ月足らずとなり息子の帰宅を待ちわびる内容となっている。

大掃除の事、自身の体調の事、芳子や板木のおばあちゃんの事など色々と書いているが、やはり気掛かりは軍人となった康男と三郎の事であろう。
特に康男は出征が近づいており母千代子の心中は察して余りある。

その康男に関する件に
「サイパン島のことを思えば自分勝手など口に出来ませんね」
と記しているが、この一文でここ何度かの投稿に「今生の別れ」的な表現や印象が多く感じられたことに得心した。
サイパン島では直前の6月15日から日米の激しい戦闘があり7月9日の日本軍玉砕によって米軍の占領下となった。
サイパンからは日本本土全域への空襲爆撃が可能となることからこの敗戦は単なる敗戦にとどまらず、日本側から見れば「絶対国防圏」を破られた形となり、結果的に大東亜戦争での敗戦を決定づけた非常に重い敗戦であったと言える。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

千代子を含め一般庶民がどこまで「サイパンの戦い」について知っていたか疑問ではあるが(おそらく「わが軍大苦戦も米軍を撃破し…」的な大本営発表を聞かされていたのではないかと思う…)軍人である康男や予科練のFUさん(3/12,4/8投稿)は戦局の悪化状況を実感していたと思われる。
康男が「二十日もせんのに又帰るとはどうも一寸先も知れません」と云う状況になったのも、前回の投稿でFUさんが「これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら」と記したのも、この「サイパンの戦い」と無関係ではないだろう…

 

昭和19年7月14日 三次中学親友Mさんからの葉書 海軍工廠の通年動員中に受験勉強

 

今回は三次中学同級生で呉海軍工廠へ通年動員で勤労中のMさんからの葉書。

葉書の消印(19.7.14と思われる)からするともう少し前に投稿すべきであったのだが、小生のミス(-_-;)で前後してしまった。

 

昭和19年7月14日 三次中学同級生Mさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 三原君
元氣旺盛にて軍務に精励してゐる
事と思う。自分も元氣でやっとるか
ら安心し給え。早く所を知らせ度
かったんだが今日迄延びてしまった。
許して呉れ。我々受験者は(海軍兵学校)
五日頃から当局の取りはからいで勉強
させて貰ってゐる。全員張切って猛勉
中だ。君は遊泳演習に行ったか。では又。
***********************

呉海軍工廠での通年動員勤労中のMさんであるが、以前(昨年12/29)の投稿でも言って居た通り直近に迫った海軍兵学校の受験に向け当局(海軍?)の計らいで受験勉強に精を出している。
これが海軍工廠でなく当時仲の悪かった陸軍関係の工場だったら受験勉強の時間を与えて貰えたかどうかチョット疑わしい…

差出しの住所は
「呉市阿賀町小倉寄宿舎第四寮三十五号室」
とある。
現在の阿賀公園の辺りであろうか。

明治時代に呉鎮守府が設置されて以来、呉は海軍と共に発展した場所である。
大きな艦船の造船に適した地形である事が大きな理由であったが、その逆に平坦地が少なく街の発展に伴い人口が増えるとその急峻な斜面に住宅が建てられるようになった。
その代表が「両城の階段住宅」であり小生も幼少の頃に住んだ場所である。

両城の階段住宅
https://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/e/5808a705647746a87d2b21919019089b

当時の写真もあったので序でに…

両城の階段にて 左端が小生 昭和36年頃か?

 

昭和19年7月25日 康男から三郎への葉書 戦局悪化の中「御前とも逢える可能性が増大した」…

 

今回は直近に広島への再配置転換となった長男康男から三郎に宛てた葉書。

逢えないと思っていた三郎との再会が叶いそうになった喜びを「可能性が増大」と表現している。

 

昭和19年7月25日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 愈々暑さ厳しき時候となったが、
其後元気で精励しているか、待望の
休暇も近付いて大いに張切っている事と
思う。兄さんは都合でまた広島へ帰る事
になって廿日からこちらに来ている。
家にもチョット帰って来た。広島はどうも
縁が深い。又当方御厄介になる筈。
御前とも逢える可能性が増大した訳だ。
体に充分気をつけて、逢える日を待っている。
早々
***********************

何故康男が四国への転隊直後に再転隊で広島へ戻って来たのか本当の理由は不明であるが、以前の投稿にも記した様にこのひと月程まえに日本軍がサイパン島での戦いに敗れ「絶対国防圏」を突破されたことで一層の戦況悪化を招いた事が関係していたのではないかと考えられる。

しかし皮肉な事に、その結果おそらく逢えないと思っていた三郎と逢える「可能性が増大した」のである。

葉書では「逢える」と云う言葉を遣っている。「会える」ではなく…
「会う」は単に「顔を合わせる」とか「集まる」と云った意味で用いられるが、一方「逢う」は「大切な人」や「強い思い入れのある人」とあう場合に使われる。

遠く離れた場所(陸軍予科士官学校)へ行ってしまった三郎とは「もう二度と逢えない」と康男は思っていたのであろう…

 

昭和19年7月29、30日 もうすぐ故郷へ… 三郎から父母へ帰省の連絡 

 

今回は二週間後に迫った帰省について三郎が父母に宛てた便り2通。

29日(土曜日)に父母宛にざっくりとした手紙を出し、翌30日(日曜日)に母千代子宛に詳細を記した手紙を出している。

まずは7月29日の葉書から

昭和19年7月29日 三郎から父母への葉書

解読結果は以下の通り。
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前略
期末試験も二十六日に終了し遊泳演
習等ノ準備をして居ます。
お見通りするのも近附いて来ました
ので張切ってゐます
ではお知らせ迄
休暇にはよろしくお願い致します
三十日には外出します
***********************

続いて7月30日の母千代子宛の手紙

昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙①
昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙②
昭和19年7月30日 三郎から千代子への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
***********************
前略 お手紙拝見致しました。休暇
も近づき喜んで居ます。康男兄さんも
又廣島に帰られた相で対面出来ると
思いこれ又喜んでゐます。今日(三十日)
は雨天ですが外出して■■様の所にお
邪魔してこの手紙も書いて居ます。
明三十一日は遊泳演習ノ準備。一日より
沼津海岸に行きます。私は皆が下
手なのかしれませんが最上級の班に入れら
れました。沼津には一日より八日迄居て
八日に帰校。九日一日学校に居て十日の
十二時二十四分発の特別仕立の列車
で帰郷する事になってゐます。予定では福
山には停車せず糸崎に翌十一日の午前
九時頃に着く予定です。ですから家につ
くのは福塩線で十二時頃と思いますが
今年は非常に対して背嚢等を持ち帰
ることになりましたから出来得れば駅まで
誰か来て頂けば幸甚ですが。
休暇は大体二週間の予定です。
では敬兄さん、芳子によろしくお傳
え願います。
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29日の葉書は単に帰省の予定を伝えたものであるが、30日の手紙は26日に届いた母からの手紙(2020年4月19日投稿)への返信となっており、いつもお世話になっている父の友人宅へお邪魔してゆっくりと手紙を認めている。

戦況悪化に伴い鉄道の運行本数もかなり削減されている中で「特別仕立の列車」が出されるほど優遇されていたことには少々驚いたが、将校不足にあえぐ軍部の彼らに対する期待の大きさを示すものであったかも知れない。

さて、陸軍予科士官学校での遊泳演習をググっていたところ「昭和19年10月制作」の「将校生徒の手記 陸軍予科士官学校」と云う動画を見つけたのでリンクしておく。
多分にプロパガンダ的な動画ではあるが将に三郎在校当時の学校の様子であり興味深いものがあるので是非ご覧頂きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=LBZTZts4Zvk