昭和19年7月30日 康男から三郎への葉書 「そろそろ御腰を 上げる時が近付いた模様だ」出征命令下る???

 

今回は長男康男が帰省間近の三郎に宛てた手紙。

自身の出征を匂わせる部分もあり、康男の身辺も急を告げてきた様である。

 

昭和19年7月30日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 酷暑の砌、相変らず精励の
事と思う。家の方も其後共々変り無し。
敬も別に心配する点も無し。芳子は
真黒になって作業に水泳に頑張っている。
兄さんも相変わらずだ。今月三十日は許可されて
帰宅。英気を養っている。
戦況急迫でどうなるか分らんが、来月十三日
頃帰宅出来ればと思っている。久方振り
に一家内揃いて話し度い。俺もそろそろ御腰(ミコシ)を
上げる時が近付いた模様だ。では元気で
待て。               早々
***********************

「許可されて帰宅」して認めているのだが、この戦局重大時に帰宅を許可されるのは恐らく出征が決定したのではないかと考えられる。
前回三郎に宛てた葉書から五日しか経っておらず「早く三郎と逢って話がしたい」と云う気持ちが伝わってくる。

当時(昭和19年5月頃)の写真があるので投稿しておく。

昭和19年5月19日 康男 四国金毘羅社にて①  右端が康男
昭和19年5月19日 康男 四国金毘羅社にて②

因みに①の裏書には

「昭和十九年五月十九日
㋴学生
暁南丸実習 多度津上陸の折
琴刀比羅宮参拝」
とあり康男が当時陸軍の秘密部隊であった輸送船団の将校であったことが判る。

昭和19年5月19日 康男 四国金毘羅社にて 裏書

恐らくこの輸送船団の作戦行動での出征が決まったのであろう。
軍人として鍛えられていたとは云え20代の青年である。
何度も言うが現代の我々には想像し難い精神状態であった筈である…

 

昭和19年8月1日 三次中学同級生MOさんからの葉書 「勤労動員は夏季休暇無しだよ~( ノД`)…」

 

今回は(これまで何度か投稿したことがあるが…)三郎の幼馴染で三次中学同級生のMOさんからの葉書。

6月26日に呉海軍工廠への勤労に動員されてから一ヶ月程経過してからの便りである。

昭和19年8月1日 三次中学同級生MOさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓
長らく御無沙汰したが変りはないか
僕も元氣で表記の所で国家の爲に
働いて居るから安心してくれ。
君等は八月に休暇があると言う事だ
がこちらではそんな暇もないよ
次に写真の事はよくわかった。しかし
まだもらいに行っておらない。それと
丸住、中村、日南、向井、新田等に陸士の第
一次試験に合格したよ。
ではさようなら
***********************

親元を離れ慣れない環境の中での勤労動員で体力的にも精神的にも相当疲れていると考えられるのだが案外元気そうである。
まあ、当然検閲されるのであるから元気なフリもしなければならなかったのかも知れないが…

呉海軍工廠でのMOさんたちの生活がどんな状況だったのかググってみたところ「NHK戦争証言アーカイブス」に以下の動画があった。
かならずしも勤労動員の日々の生活を映したものでは無いが、空襲の際の惨状など当時の状況が生々しく語られている部分もあり(長編ではあるが)是非ご覧頂きたい。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001150116_00000

 

 

昭和19年8月3日 父芳一から三郎への手紙 三郎帰省まであと一週間…「皆一緒に話せる」

 

今回は七月三十日に三郎が母千代子に出した手紙(2020年5月9日投稿)への返信。

何度も言うが芳一(小生の祖父)の文字は本当に難解である。
今回の投稿にも何ヶ所か怪しい部分があるがご容赦頂きたい。

 

昭和19年8月3日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年8月3日 芳一から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
(今朝手紙が着いたとお母さんが電話で悦んで聞かせた)
其後元氣で勉学してるそうで両親共安心した。随分暑さも
厳しいので相當汗を出してる事と思う。家にも敬の病気も大体
順調にて相當肥満して来たが当分は働けないと思う。暑さで三階
住居は少し困って居る。然し都会地に比べたら問題ではない。
食事も先づ戦時食としては上々の方で栄養物も少し手に入れて居る。
康男も七月一日に四国の三島と云う所へ転居したが十六日やらに又廣島付近
の坂駅近くの部隊へ派遣となり当分居るらしい。一旦千田町の栃木
と云う居宅を引払ったが又舞い戻って居る。然し今度は太田少
尉と二人同居だそうな。船舶将校となったので何時何處へ行くやら
わからんが輸送や〇〇上陸ではないらしいので後方勤務の方らしい。
十三日の日曜日には或いは帰省できるかも知れん。三十一日に帰ったので
多分六日は休みなし。十三日が全休となろうとの事。その時は久々で
皆一緒に話せる。二週間の休暇がいただけたらことに結構だ。
海兵連中先般二週間で来て居た。白服に短剣でブラブラ
して居たよ。 今年の陸豫士学科試験合格者は二人だとか
丸住と中村とか、十二三日頃に陸豫士で体格検査を受ける由今日
新聞に出て居た。昨年は相当合格者を出したが本年は僅少ら
しい。遊泳は上級とか しっかりやれ。陸軍でも海の子だから泳ぎ
は上手に限る。然し無理せぬ事肝要なり。■■さんには度々
世話になる事だ。礼状を出して置く。
お前の休暇中にお父さんも三四日休暇を貰うつもりだ。
福山や広島へも行って見よう。
あと一週間計りで故郷の土が踏める。十一日の到着時刻は
福山から電話して置け。糸崎からでもよい。
敬も芳子も楽しみに待って居る。但し何も土産物はいらな
いから心配するなよ。
  三日午後四時          父より
   三郎へ
***********************

夏季休暇の帰省まであと一週間程。父母兄妹…家族全員が三郎の帰郷を心待ちにしている。
但し現代の様な平時に於ける夏休みの帰省とは心待ちの度合いが違う。
土日返上で”月月火水木金金~♪”だった芳一も「三四日休暇を貰うつもりだ」と気合が入っている。
軍人である康男や三郎は何時戦場へ行ってしまうか判らないし、残る家族にしても「空襲」に遭う可能性がない訳ではない。
実際に長男の康男は出征が間近に迫って来た様子であり、この時の三郎の帰郷は一家にとっては「一期一会」或いは「今生の別れ」の様相を呈していたに違いない。

その康男は「廣島付近の坂駅近くの部隊へ派遣」とあるので坂付近の陸軍部隊についてググってみた。
当時、陸軍船舶司令部は「㋹部隊」という水上特攻艇部隊を創設しその一部が坂駅近くの鯛尾という場所にあった様で康男はそこに配属されたと思われる。
鯛尾は金輪島を挟んで船舶司令部本部のあった宇品の対岸に位置しており「㋹部隊」の訓練等に於ける至便かつ重要な場所であったと思われる。

宇品・坂鯛尾地図

「㋹部隊」に関しては以下サイトもご覧頂きたい。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=21704

このなかで「船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)」の一期生(15~20歳)は1944年4月に入隊したとあるが、康男は彼らの上官として赴任したのかも知れない。

積もる話までもう少しの辛抱である…

 

昭和19年8月9日 陸軍予科士官学校 富士隊 服部隊長から芳一への連絡書

今回は三郎の夏休暇帰省に際し陸軍予科士官学校側から父兄宛に出された連絡文書である。
封筒に「三原芳一殿」とあるだけで住所や切手・消印が無いので帰省の際に三郎が持って帰って来たものと思われる。
達筆な上に経年劣化した昔ながらの「ガリ版印刷」で読み辛い事に加えて小生の無学もあり、かなり「???」な部分もあるが凡その内容は把握出来たと思う。
※B4横の一枚であるがサイズの都合上半分づつの画像掲載とした。

昭和19年8月9日 陸軍予科士官学校-富士隊-服部隊長から芳一への連絡書①
昭和19年8月9日 陸軍予科士官学校-富士隊-服部隊長から芳一への連絡書②

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓時下炎暑の候加えて戦局将に重大の秋貴堂愈々御健康御
奉公の事と相業邦家のため慶賀仕り益此度の御子弟の課業着々
と進み将卒の忠節を期待仕ること只感激の至りにて本人の努力も
勿論先輩各位並に御家庭からの御援助の賜と深謝仕る次第
に御座い益 今般上司よりの配慮に依り生徒に休暇を与え
らることに相成りが今国民等しく戦争を身近に感じ只管
戦斗しある時 生徒には夫々父母或は縁者の許に帰省を許
されし所以のことにて一には以て将卒の英気を養い一には以て孝養
を盡し後顧の憂なくならしめんとの意に別ならず希くは上司
の意を諒とし本休暇をして効果あらしめられんことを
休暇中の心得 往復の心構 非常の処置等に関してを本人に
申聞かせ置きなど 尚家庭に於ても将校生徒たるの矜持を
以て将来国軍の中堅たるべき大切なる赤子なりとの心組にて
放綻安逸を戒め進んで社会の活模範と士気の高揚とに
貢献するの檄を以て御指導を賜らば幸甚に存じ度 我等
も此期間学校に於て次期訓練の準備に邁進し再度旺盛なる
志気を以て御子弟の帰校を期待仕るものに御座い益 此処に休
暇帰省に当り幸便に託し以て御挨拶申述益
尚別紙に個人につき特に連絡申上べき事項相添え御参考に
供し度且生徒帰校に當りては通信蘭に御記入の上持参せらめられ
度御依頼申上益

八月九日
富士隊長   陸軍中佐 服部征夫
同庶務将校  陸軍大尉 小池三郎
同第六区隊長 陸軍中尉 前田長司
同第七区隊長 陸軍大尉 海老澤英夫
同第八区隊長 同    前田八郎
同第九区隊長 同    増澤一平
同第十区隊長 同    岡田生駒
父兄殿
***********************

全体的に判読できない部分が多かったのだが、特に「に、も、が、は、や」等の助詞の判読が難しく文脈から適当に訳した部分もある。
また「益(ます)、度(たく)」も少々適当になってしまったのでご容赦願いたい。

この連絡書と共に三郎は帰省したのであるが、我家では父母や兄妹たちと再会し水入らずの時を過ごしたと思われる。
当然のことであるがこの間は家族間での通信はされておらずどの様な帰省になったのかは想像するしかない。
以前の投稿でも述べたが著しく悪化した当時の戦局の下、軍人である康男や三郎は言うまでもなく一般市民である家族に於ても本土全域が米軍機の空襲圏内になってしまった状況での一家揃ってのひとときはおそらく「一期一会」或いは「今生の別れ」の様相を呈したものになっていたであろう。

文中にある「別紙に個人につき特に連絡申上べき事項」に関しては、芳一が「家庭通信蘭」に記入したものを三郎が帰校時に持参していると思われるのだが(コピーなど存在しない時代であり)芳一が複写したものが残っている。
この「写し」も解読して投稿したいのだが、これがまた、あの芳一独特の難読文字で書かれており解読に少々時間が掛かりそうなのですこしご猶予頂きたい。

 

昭和19年9月2日 三郎 夏季休暇から帰校して十日余り…もうホームシック?

 

二週間の夏季休暇を頂き故郷三次での「命の洗濯」から十日余り。

「将校生徒 三郎」がホームシック?

 

昭和19年9月2日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年9月2日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
前略 其後お変り有りませんか 大分家からの通信が
遠のいた様に感じますが と云ってもお別れしてから未だ十日余り
しか経って居らぬのですからね 敬兄さんは其後如何ですか
私が別れる時大分悪化された様でしたから何時も氣にかかっ
て居ります 二人しか居られぬ兄様ですからね
お母様は私が帰三した時も早や病氣前の如き躰になられ
て居られたのを見て非常に嬉しくありました
家は変って居ませんね
本日夜は(二日)中秋の名月で二ヶ中隊(私の中隊と前の中隊)
が合同して学校正門を入ると左手にあったでしょう 池が
その周りに坐って月を仰いで詩吟を吟じました 池の周りに
「かがり火」を燃いて月は眞円く何か物思わせるものが
ありました この手紙もこの詩吟会が終った直後に心に浮
ぶまゝを書いて居ります 本日は土曜日で随意自習ですから
それからこの手紙を書こうと思ったもう一つの因は本日より
馬術が始まりました 早速今日午後乗りました 私でも馬上の
勇姿颯爽たるものです 速足といってパカパカと普通に
歩くより速く人間で云う駈足をやりました の仲々尻の方が
落着きません
予科の地はもう朝晩涼しくなりました 武蔵野の秋
は早くあります 虫は今も盛に鳴いて居ります
中谷の写真は未だ出来ませんか 出来得れば我家(家・屋)の
写真・芳子・敬兄さん・康男兄さん・お父さん・お母さんの写真
(敬兄さんが写されたので良いですから)思い出の種となる様
なのをお願い致します 模型機のも良いです(写真帳ニアリ)
私が一人で(中学で)写った分は区隊長殿に一枚呈出しますからその積り
で送って下さい
十七日に第二期第一回の外出があります 相変らず■■様方
へ行く積りです 第二期は色々と行事があります
先づ二年生の卒業 一年生の入校 私達の野営演習
其の他 お正月もありますからね 今の所冬休暇は有りま
せんから では今日はこれまで
隙があったら御通信下さい
敬具

二伸
金は区隊長殿に三十五円預入 手許に二十円ばかりもってゐますが予備の爲■■様の方へお送り下さい
倉野さんにも会い色々話をしました 菅にも葉書を出すつもりです
それから家で作って持って来た糊は決して腐りませんからあの糊
の素があったら買っておいて下さい
***********************

9月2日の時点で「お別れしてから未だ十日余りしか経って居らぬ」とあるので、三郎の夏季休暇はおそらく8/9~8/22頃だったと思われる。

この夏季休暇をどのように過ごしたのか、家族でどんな話をしたのか、楽しかったのか、切なくなかったのか…等々知りたい事は沢山あるのだが、当然の事ながらこの間は家族間の通信はなく想像するしかない。
戦況は激化・悪化の一途を辿り、次の家族全員での再会が果たしてあるのか…すら判らない状況下での一家団欒であり将に「一期一会」であったのである。
少なくとも小生などの戦後世代の過ごした「夏休み帰省」とは一線を画すものであったことは間違いない。

「思い出の種となる様な」家族や我家の写真を送ってもらうことになっていたらしくその催促をしている。
次兄敬の病状も気掛かりであっただろうし、中秋の名月の下で感傷的になっていたことも手伝ってか、さすがの「将校生徒」もホームシックに陥ったのであろう…

まだ十代の青年である。さもあらん…

 

昭和19年10月11日 三郎から父芳一への手紙 畏まった候文の巻き手紙…理由は?

 

今回は三郎が芳一に宛てた手紙であるが、畏まった候文で認められた毛筆の巻き手紙である。

また、前回投稿の手紙から一ヶ月以上経過しているが、内容からするとその間に芳一或いは千代子からの通信はあった様子なのだが小生の手元には存在していない。

 

昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙③
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙④

解読結果は以下の通り。

***********************
御尊書難有く拝誦仕り候
其の後御壮健に御暮しとの事大いに安心仕り候
又種々御懇篤なる御教訓我が肝に
銘じて夢中にても忘却仕り申さず候
扨て當方は二年生の卒業を寸前
にひかえ又私達の浅間山麓に於ける
野営演習も近付き稍多忙の感有之
教授部学科等もさきて環境整理
を実施し居り候 氣候も去る四日間
連続の大雨により一転致しめっきり秋の
深きを思わせる如く相成り申し候
来る十五日外出致す予定に候へども
母上様の御丹精の物未到着の事
と思い候も野営終了後廿九日に
再び外出致す所存に候へば其時
にても良く候
本日頃康男兄様の所属決定致
すとの事 色々と期待仕り候
板木の伯父様の一週(周)忌有りたとの事 私は
遥かこの振武の地にて禮拝致し置き候内
悪しからず御承被下度候
三井田村先生よりの御報せにては合格者
は数名有れど海兵と両校突破致したもの
殆どにて本校に来ると思はるゝは一名のみ
にて稍落膽仕り候 尚柳原君は
海兵も駄目らしく候
三次の祭も近付きた事に候 去年の秋
はと思い候もこの予科の如き幸福なる
所は他になきものと今更乍ら考え候
区隊長殿へも手紙を出されるも可く候
河村曹長殿は全快され候も今は私の
区隊付にては無之候ど御通信せられるも
悪しからず候
末筆乍ら母上様 敬兄様 芳子殿
によろしく御鶴声の程御願申し上候
時節柄御身御大切の程御祈り
申し上候
頓首
三郎
父上様
***********************

内容の前に2~3難しい語彙があったのでググってみた。

・稍 :「やや」と読むらしい。
・鶴声:鶴が鳴くとその迫力で一瞬であたりが静まり返る事に因み権威ある人の言葉に例えた。
・頓首:頭を地面にすりつけるようにお辞儀すること。ぬかずくこと。中国の礼式に因む。

扨て、何故畏まった候文なのか?
はっきりした理由が判らないので想像してみた。

「種々御懇篤なる御教訓我が肝に銘じて夢中にても忘却仕り申さず候」とある。
おそらく父芳一からの手紙に「種々御懇篤なる御教訓」が書かれていたのであろう。
その有難い教えを戴いたことに対して感謝と敬意を示すための「畏まった候文」しかも「毛筆書きの巻き手紙」であったと思われる。

更には「本日頃康男兄様の所属決定致すとの事」ともあり、尊敬する兄康男の戦地へ出兵が決定する事への「祝意」と「武運長久祈念」を示したものでもあったかもしれない。

芳一が三郎に対して教訓を与えたのは、多分に康男の戦地出兵が決定する事が影響していたであろう。
いや、むしろ康男への教訓をそのまま三郎へも教えたのかも知れない。

小生など戦争を体験した事のない世代は「戦地へ赴く」を言う事実を軽く考えてしまいがちであるが、実際には本人は言うまでもなく家族・恋人・友人等の身近な人々にとっては「二度と逢えないかも知れない」という恐怖に押しつぶされんばかりの心境であった筈である。
芳一だけでなく「戦地へ赴く」身近な人を持った人々は「何とか生きて還って来て欲しい…」と教訓や祈りを必死で送ったのである。

 

昭和19年10月29日 三郎から芳一への手紙 仕送りへの感謝と外出予定の連絡

 

今回は三郎が芳一に宛てた葉書。
芳一の知己宅にお邪魔した10/29(日)に書いたと思われるのだが、なぜか消印は11月(何日かは判別できず)になっているので恐らく帰校後に書き翌日以降に投函したものと思われる。

 

昭和19年10月29日 三郎から芳一への手紙(宛名面)
昭和19年10月29日 三郎から芳一への手紙

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
拝復 御手紙有難く拝見仕りました。本廿九
日無事外出して帰って参りました。ご配慮の
品々一々味わいました。有難うございました。本日は
■■様は丁度御留守で故郷の方へ行かれて
居られ正午頃十日間の旅行を終えて帰
っ(て)来られました。そして種々お土産を頂き
満足して帰って参りました。厚く御礼申し上
げて下さい。次は十一月三日と十一月十二日と
です。以後は今の所不明です。では又。
***********************

前回の投稿もそうであったが今回の葉書もこの前に届いている筈の芳一からの(恐らく小包と一緒に届いたと思われる)手紙が小生の手元には残っていない。
ただ単に紛失しただけなのか或いは何かの事情があったのかは不明であるが、丁度この時期に長男康男(海軍船舶司令部暁部隊所属)の激戦地フィリピン出征が決定したことで家族全体に激震が走っており、その動揺が影響したのではないかと考えている。

次回以降の外出予定を「次は十一月三日と十一月十二日とです」と伝えているが、現在11/3は憲法記念日でありこれは1948年に制定された祝日であるから「それ以前は?」とググってみたところ戦前は明治天皇の誕生日に因み「明治節」と云う祝日であった。

今回の葉書は内容的には多くなくチョット物足りないので最近出てきた康男が撮ったと思われる軍隊訓練時の写真をアップしておく。

訓練の合間に①
訓練の合間に②
訓練の合間に③
訓練の合間に④

皆さん良いお顔をしていらっしゃる…

 

昭和19年11月2~3日 康男の比島出征を知った三郎から芳一への手紙 「何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ち」

 

今回は遂に康男の出征が決まったとの連絡を速達で受取った三郎が芳一へ宛てた手紙である。

心中複雑なものがあった状況が読み取れる。

昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
拝復 速達本日(二日)受取りました かねて思っ
ては居ましたが康男兄さん遂に出動との事
何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ちになりまし
た。これが感激と云うのでしょうか。それに行先が比島
との事 又々一層この感じが大です
兄さんも日本軍人です 将校です この三千年来
の歴史を有する日本帝國が國運を賭して戦ってゐる
大東亜戦争の其の最も大切なる比島に出陣され
るのです これ程の喜びは又と有りましょうか
お父さんもお母さんも敬兄さんも芳子ちゃんも皆
一緒に康男兄さん萬歳を唱えて下さい そうして喜ん
で下さい 康男兄さんもさぞ嬉喜として出て行かれた
事でしょう 私も十ヶ月の軍人生活のお蔭か少しはこんな
氣持がわかる様になった様な氣が致します
私は今 康男兄さんの寫眞を前にしてこの手紙を書い
て居ります 夏休暇に康男兄さんと一夜を明かしたのが
当分のお別れとなりましたね 兄さんの寫眞を見てゐるとあの
朗らかなる笑いが聞える様な氣がします だが兄さんも私も
互に皇国護持の大任を有する益良夫です 八紘為宇
の皇漢に殉ずるべき責務を有して居ります
軍人たるものは必ず一度は是の如き事があります 私とても
近き将来必ずあります この間兵科の志望がありました
私は船舶 航空 歩兵 戦車 通信 高射 工兵と書きまし
た 航空兵にやられるかも知れません まだ適性検査が
ありませんが何兵になっても国の爲です
一年生が二十九 丗 丗一の三日間に入校しまし
た 三中からは三人位です 丸住は海兵に行ったらしいです
次に康男兄さんの事が忙しくなくなったら文具類を送
って頂きたいのですが 先づ手簿(紙質の良いのがあればそれが可いのですが)
歯ブラシ 吸取紙若干 計紙(全計紙)等が欲しくあります
廿九日には■■様方に行き非常に御地走になりました(餅)
本日(三日){この手紙は両日に渡って書きましたから}も外出する予
定ですが 遥拝式があって少し遅くなります 次は十二日
です。これ(手紙)は■■様方より出しますからあまり大ぴらにせられ
ぬ様にお願い致します
忘れて居ましたが廿九日にはちゃんと小包は着いてゐました
異常なく故郷の香髙かく頂きました 有難うございました
本日(三日)は珍らしく雨天です 明治節に雨の事は少ないです
ね それから顧みれば今日私の合格発表があったのですね
思い出すと何か因縁の様です あの日は快晴でしたね
迂頂点になったのですね お母さんにも申し上げて下さい
あれから一年になります 早いものです
では要用のみ 敬兄さん 芳子に体に氣を付ける様
お傳え下さい            敬具
***********************

「康男出征日決定 フィリピン島」旨の速達が届いたのであろう。
既にフィリピン島には米軍が上陸し激しい戦闘(と云うよりは圧倒的不利な状況下で壊滅的な打撃を受ける日本軍)が行われており将校生徒たる三郎もその状況はある程度知っていたと思われ、覚悟はできていたであろう…が
「何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ち」
と云うのが正直な感情だったと思う。

当時、康男や三郎など軍人にとっての「お国の爲」とは「八紘為宇の皇漢に殉ずる」と云うことであった。
「身を挺して国を、家族を護る」ことが使命だったのである。

「これが感激と云うのでしょうか」
「これ程の喜びは又と有りましょうか」
「皆一緒に康男兄さん萬歳を唱えて下さい そうして喜んで下さい 康男兄さんもさぞ嬉喜として出て行かれた事でしょう」
これらの言葉は三郎の本心では無かったであろう。いやむしろ逆であったと思う。
戦争と云う狂気が「悲しみ」を「喜び」に書き換えさせているとしか思えないのは小生が戦争を知らない世代だからであろうか…

祖父芳一も、伯父三郎も、母芳子もこの当時の家族や康男の様子を話してくれた事はないので想像でしかないが、
本人も家族も皆「本当に悲しく苦しかった筈だ!」としか思えない小生である…

康男 昭和19年頃 撮影日不明

 

昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部 三雲豊造部長からの巻き手紙 康男出陣への壮行…難読(-_-;)

 

前回の投稿で愈々康男の出陣が決定した旨をお伝えしたが、今回の投稿は康男の勤務先である日本興業銀行の人事部長から父芳一宛に届いた巻き手紙である。

 

昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部長 三雲豊造部長①
昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部長 三雲豊造部長②
昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部長 三雲豊造部長③

全文解読すべく鋭意努力したが惨敗であった。
とりあえず全体の意は理解できる程度には解読したつもりだがかなりの箇所で???があった。(完全に解らない部分は〇で表示したが他にも怪しい部分が結構あった。)
解読できる方いらっしゃったら御教示乞う。

(とりあえずの)解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 秋冷の候
愈々 御多祥賀に候
〇〇 本日は 〇〇
嬉しく〇〇 今度
御令息 康男殿には
南方第一線に御出陣
の趣 衷心より御勇戦
と武運の長久とを
祈っている次第に御座い益
戦局愈々重大化し
當地も三日にあげづ
空襲警戒の鳴渡る
状態にて 一億緊褌の
秋 今を措いて何日有る
へき哉と〇〇益
益々御自愛の上 御
活躍の程 祈り益
先は右御挨拶をと
如斯御座益
敬具
十一月六日
三雲豊造
三原尊堂
〇〇〇
***********************

日本興業銀行が「勤務先」ではあるのだが、実際には昭和17年1月の入社直後にオリエンテーションで出社するも同年2月には陸軍二等兵として臨時召集~入隊しその後は(多分)一度も出勤していないと思われる。
日本興業銀行入社に関しては以前の投稿を参照願う

https://19441117.com/2019/04/23/

戦況の拡大・悪化に伴い多くの若者が戦争に駆り出された時代である。
殆ど出勤していない(できない)新入社員への人事部長からの「通達」が戦地への壮行・激励の手紙である。
手紙を出す側も受取る側も複雑な気持ちであったろう…いや、悔しかったであろう。

昭和19年11月6日 三雲豊造氏封筒宛名面
昭和19年11月6日 三雲豊造氏封筒差出人面

因みにこの手紙は11月6日に出されたものであるが、封筒に芳一が「康男出帆ノ日着」と赤字で記入している。

康男の出陣は昭和19年11月9日であった。

 

昭和19年11月23日 「新嘗祭」⇒「勤労感謝の日」なのに…午後四時から徹夜の教練…

 

今回の投稿は「新嘗祭」の祭日に書かれた手紙。

祭日ではあるのだが「午後四時から明朝迄徹夜の教練」とある。
戦況は悪化の一途を辿り国家の危機であることを考えれば当然なのだが、現代の「平和ボケ世代」からすればつくづく大変な時代であったと実感する小生である…

昭和19年11月23日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年11月23日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。

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拝啓 其の後お変りは有りませんか。私は至極元氣に毎日々々を
送って居りますから御安心下さい。本日は新嘗祭で中隊にて休養して居
りますから近況をお報せ致します。所で今日は午後四時から明朝迄徹夜
の教練があります。仲々行軍距離も長く激しい方です。試みに課目をお知ら
せ致しますと「夜間神速ナル機動ヲ以テ所望ノ地点ニ進出シ敵ヲ急襲スル
要領」と言うのです。だが浅間山の教練を思えば何でもありません。まだまだ
東京は暖かですから。何といっても浅間は(あの時は十月の半ばでした)氷がはる、霜柱
が一寸五分位もちあげる程です。そうして雨がよく降り又浅間が一大轟音と共に煙を
吹き上げそれが雨と一しょにびしょびしょと降って冷たいのに加えて気持の悪かった事は
筆紙に云いつくせません。ある晩などは浅間が眞赤な溶岩をふいて山の頂上を
ながれてゐるのを見ました。 仲々雄大です。そう云う経験がありますから大丈夫です。
ここで一大悲報をお傳えせねばならぬ私の心をお察し下さい。それは私達の
最も敬愛する前田区隊長殿が転出されました。入校以来十ケ月、私を
かくまで育てて下さった区隊長殿と別れるのは実に断腸の思(い)です。だがしかし
区隊長殿は近くの航空士に行かれるのですからせめての喜です。
昨夜はお別れの会を開いて皆泣きました。実に残念です。皆と「こんな良い区
隊長殿は他に居られない」と云って居ります。が大命です。止むを得ません。
次の区隊長殿は第十区隊の陸軍大尉岡田生駒区隊長殿が二ケ区隊を持たれる
事になり私達の新区隊長殿になられました。岡田区隊長殿は私達も同じ
中隊の区隊長殿として入校以来よく知っていますから安心です。
次に、この間行われた航空の適性検査について、この検査は航空の方の人が
来られて実に綿密に行われました。精神機能、内科、眼科、耳鼻科等々
各科に軍医殿が精密に検査されます。私は耳鼻科以外は全部甲(甲が
最上です)で喜んでゐたのですが、最後に耳鼻にて肥厚性鼻炎自覚症とい
うことになって乙になりました。中耳炎の方は全然異常なし、聞く方も人一倍
よく聞えました。私の鼻はなおさねば不可ませんか。効能百%で手数のいらぬ
薬があれば…。私の体はこれ程精密にやっていただいたのですから自信がつきま
した。又お父さんお母さんに感謝してゐます。それでまた兵種志望があるのですが、航空は何ともわか
りませんが私は船舶兵も好いと思ってゐます。志望通りに行くかどうか
あれでも航空兵になるかも知れません。
小包は異常なく当着。非常に嬉しくありました。康男兄さんの折襟の
服を着て屋上で寫ったのは何時頃ですか。仲々立ぱですね。私も早く
将校になりたいです。それから日本刀の件は身に余りますね。実(本?)当に早く見たい
ものです。それから、お隣りの森島の国民学校の四年生の陽子様より
慰問文を頂きました。お禮を云って下さい。
では益々寒くなりますからお躰を大切に。
この手紙は二十三日に大部分書いて二十五日に出します。
次の外出日は未だ不明。十二月の三日頃かとも思ってゐますが分かりま
せん。分かり次第直ちにお報せ致します。
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三郎の夏季休暇(8月10~22日頃)以降はそれまでに比べると小生の手元に残っている手紙・葉書が少なくなっている。
実際に少なかったのか或いは単に手元に残っているものが少ないのかは定かではないが、6月のサイパン陥落による絶対防空圏崩壊~本土空襲開始などによる戦況の悪化で国民生活への影響が大きくなったことも原因しているのであろう。
実際に三原家に於ても長男康男が激戦のフィリピン島へ出陣しており、父芳一以下家族の心労は大変なもので手紙どころではない部分もあったと想像される。(ただこれは三原家に限ったことではなく日本全体の多くの家族で勃発していた状況であるが…)

今回投稿の三郎が芳一に宛てた手紙も二十日ぶりのものである。
そのせいもあってか一枚の便箋の表裏に”びっしり”と書き込んだ感がある。
内容も徹夜教練の話に始まり前田区隊長転出~航空適性検査~届いた小包の事等色々と書かれている。
特に航空適性検査の件では花形である航空兵になりたい気持ちと、より危険度が髙い(と思っていたであろう)航空兵に敢てなるよりは船舶兵でも…と云った気持ちとが相半ばする心情が表れている。

現代の我々からすれば「できるだけ安全な部署へ…」と考えるのがまっとうだと思うが、当時(特に軍人)は「国家、家族、子孫そして何よりも自信の名誉を守護る」と考えるのが当然であった。
その精神発露の最たるものが「神風特別攻撃隊」いわゆる「特攻隊」であろう。
小生は「自らの命を国家、家族、子孫そして何よりも自信の名誉を守護る爲に捧げた」特攻隊員は間違いなく「英雄」と考えるが、一部からは「犬死」「無駄死」等の中傷もあるが日本人として許されない暴言である。

ただその「暴言」も「英雄」に先立たれた御母堂様だけには許されるのかなぁ…と考えてしまう小生である…