「素養検査ニ関スル筆記」vol.1

 

小生の手許には三郎が記した「素養検査ニ関スル筆記」なるノート(メモと言った方がよいかも…)が遺っているのだが、これは陸軍予科士官学校の各教練に於ける種々の動作や行動のマニュアル或いは理論説明の様なものである。
今回以降数回に亘ってこの内容を投稿してゆく。

 

素養検査ニ関スル筆記 表紙
素養検査ニ関スル筆記 通則1
素養検査ニ関スル筆記 通則2

解読結果は以下の通り。

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     各個教練(基本)
通則
一、各個教練ノ目的ハ諸制式及諸法則ニ習熟シ
  部隊教練ノ確乎タル基礎ヲ作り併セテ軍隊
  教育トノ連携ヲ特ニ密接ニスルニ在リ
二、本教育ヲ通ジ特ニ服従心 堅忍持久 闊達敢為
  規律節制等ノ諸徳ヲ涵養スベシ
三、各個教練ニ於テ生ジタル固癖ハ常ニ固著シテ之ヲ
  矯正スルコト難ク其ノ不備ハ部隊教練ニ於テ之
  ヲ補ウコトモ亦難シ 故ニ周密厳格ニ之ヲ行ウ
  ト共ニ教練ト連撃(繋?)スル体操ノ利用ニ留意シ以
  テ動作ノ正確ヲ期スルコト緊要ナリ
四、教練実施ノ要ハ巧妙ニアラズシテ熟練ニ在リ
  而シテ熟練ハ方法ノ適切ナルト復習ヲ厭ハザ
  ルトニ依リテ得ラルルモノナリ 故ニ各個教練ハ各
  学年ヲ通ジテ絶エズ之ヲ行ウヲ必要トス
***********************

ご覧頂いてお分かりの通り、内容的には左程難しいことが書いてあるわけではない。
しかしながら個々の教練内容に関して目的や具体的な方法が示されているのは(特に)短期間で体得せねばならなかった将校生徒たちにとっては重要かつ有難かったのではないかと思う。

当時の日本軍は「やる気と能力のある奴だけが残る」世界ではなく、「短期間で大量のやる気と能力のある奴を一人前の将校に育成することが絶対」とされていたのである。

因みにこのメモ帳はA5サイズのノートを上下半分に切って使っている。
愈々物資不足も深刻化していた様である…
 

「素養検査ニ関スル筆記」vol.2

 

今回は「素養検査ニ関スル筆記」の第二弾で「徒手」の章である。

内容とは直接関係ないが漢字や語彙に於て現代では殆ど見かけなくなった表現が散見されたので、それらについてもググってみた。

 

素養検査ニ関スル筆記 徒手1
素養検査ニ関スル筆記 徒手2
素養検査ニ関スル筆記 徒手3
素養検査ニ関スル筆記 徒手4
素養検査ニ関スル筆記 徒手5
素養検査ニ関スル筆記 徒手6
素養検査ニ関スル筆記 徒手7
素養検査ニ関スル筆記 徒手8
素養検査ニ関スル筆記 徒手9

解読結果は以下の通り。

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第一章 徒手
一、不動ノ姿勢
[要旨]不動ノ姿勢ハ教練基本ノ姿勢ナリ
    故ニ常ニ精神内ニ充溢シ外厳肅端正ナラザル
    ベカラズ
[號令]気ヲ著ケ
[要領](イ)両眼ハ正シク開キ前方ヲ直視ス
    (ロ)両肩ヲ稍々後ロニ引キ一様ニ下ゲ (ハ)両膝ハ
     凝ラズシテ伸バス (ニ)両踵ヲ一線上ニ揃エテ
     之ヲ著ケ両足ハ約六十度ニ開キテ齊シク
     外ニ向ク (ホ)掌ヲ股ニ接シ指ハ軽ク伸バシテ
     竝ベ中指ヲ概ネ袴ノ縫目ニ當ツ (ヘ)両臂
     ハ自然ニ垂ル (ト)上體ハ正シク腰ノ上ニ落着
     ケ背ヲ伸バシ且少シク前ニ傾ク (チ)口ヲ閉ヅ
    (リ)頸及頭ヲ真直ニ保ツ

二、休憩
[號令]休メ
[要領]先ヅ左足ヲ出シ爾後片足ヲ舊ノ所ニ
    置キ其ノ場ニ立チテ休憩ス 休憩中ト雖モ
    許可ナク話スコトヲ禁ズ

三、右(左)向 半右(左)向 後向
1.右(左)向
[號令]右(左)向ケ右(左)
2.半右(左)向
[號令]半(ナカバ)右(左)向ケ右(左)
[要領]イ、左足尖ト右足トヲ少シク上ゲ
    ロ、左踵ニテ九十度或ハ四十五度右(左)
      ニ向キ
    ハ、右踵ヲ左踵ニ著ケテ同線上ニ揃ウ
3.後向
[號令]廻ワレ右
[要領]イ、右足ヲ其ノ方向ニ引キ足尖ヲ僅
      カニ左踵ヨリ離シ
    ロ、両足尖ヲ少シク上ゲ
    ハ、両踵ニテ後ロニ廻ワリ
    ニ、右踵ヲ左踵ニ引著ク

四、行進
[要旨]行進ハ勇往邁進ノ気概アルヲ要ス
1.速歩行進
[號令]前ヘ進メ
[要領]速度ハ一分間ニ百十四歩ヲ基準ト
    ス 頭ヲ真直グニ保チ口ヲ閉ジ両臂ヲ自
    然ニ振ル 両眼ハ正シク開キ前方ヲ直
    視ス
1.左股ヲ少シク上ゲ脚ヲ前ニ出シ
2.左脚ヲ伸バシツツ蹈著ケ同時ニ概ネ膕ヲ
  伸バシ体ノ重ミヲ之ニ移ス
3.左足ヲ蹈著クルト同時ニ右足ヲ地ヨリ離シ
  左脚ニ就テ示セル如ク右脚ヲ前ニ出シテ
  蹈著ケ行進ヲ續ク
2.停止
[號令]分隊止レ
[要領]後ロノ足ヲ一歩前ニ蹈出シ次ノ足ヲ
引キ著ケテ止ル
3.行進間ノ右(左)向
[號令]右(左)向ケ前ヘ進メ
[要領]イ、左(右)足尖ヲ内ニシテ約半歩前ニ蹈著ケ
    ロ、体ヲ右(左)方ニ向ケ
    ハ、右(左)足ヨリ新方向ニ行進ス
4.行進間ノ後向
[號令]廻レ右前ヘ進メ
[要領]イ、左足尖ヲ内ニシテ約半歩前ニ蹈著ケ
    ロ、両足尖ニテ後ロニ廻ワリ
    ハ、續イテ行進ス
5.歩調止メ
[號令]歩調止メ
[要領]正規ノ歩法ニ依ルコトナク速歩ノ歩長
    ト速度トニテ行進ス
6.歩調取レ
[號令]歩調取レ
[要領]正規ノ歩法ヲ取ル
7.駈歩行進
[號令]駈歩進メ
[要領]速度ハ一分間ニ約百七十歩トス
1.「駈歩」ノ豫令ニテ不動ノ姿勢ノ儘右
  手ヲ握リ腰ノ髙サニ上ゲ肘ヲ後ロニスルト
  共ニ左手ニテ剣室ヲ握ル(剣ヲ帯ビタル場
  合)
2.「進メ」ノ動令ニテ両脚ヲ少シク屈メテ左股ヲ
  僅カニ上ゲ
3.右足ヨリ約八十五糎ノ所ニ蹈著ケ次ニ左脚
  ト同法ヲ以テ右脚ヲ前ニ出シ
4.常ニ体ノ重シヲ蹈著ケタル足ニ移シ続イテ
  行進ス
8.駈歩ヨリ停止
[號令]分隊止レ
[要領]二歩行進シ後ロノ足ヲ一歩前ニ
    蹈出シ次ノ足ヲ引著ケテ止リ剣室放
    ツト共ニ右手ヲ下ロス
9.駈歩ヨリ速歩
[號令]速歩進メ
[要領]二歩行進シタル後速歩ニ移リ剣室
    ヲ放ツト共ニ右手ヲ下ロシ續イテ行進ス
10.駈歩間ノ諸動作
[要領]駈歩間ノ諸動作ハ速歩行進間ニ於
    ケル要領ニ準ズ 但シ速歩ニ於ケルヨリモ二歩
    多ク行進シタル後動作ス
***********************

飽くまで機械的な説明なのだが、[行進]の部分に「勇往邁進ノ気概アルヲ要ス」とあるのが面白い。現代であれば「元気いっぱいに」のような感じであろう。

語彙としては
・徒手 :手に何も持っていないこと。(第二章に[小銃]があるのでそれとの対比であろう)
・稍々 :「やや」
・齊シク:「ひとしく」 齊には、そろう・ひとしい・平ら・揃える等の意味がある。
・股  :「もも」 どちらかというと「また」の方が主のような漢字であるがここに於ては「もも」である。
・速歩 :「はやあし」
・駈歩 :「かけあし」
注)「剣室」の”室”は本来”革ヘンに室”と云う字なのだが、当該フォントに存在しないため”室”とした。

速歩の要領が「速度ハ一分間ニ百十四歩ヲ基準トス」、駈歩は「速度ハ一分間ニ約百七十歩トス」と結構細かいのにも驚いた。そのくらい全体が細かく統率されていないと軍隊としての力が十分に発揮できないと云う事なのかもしれない。

 

「素養検査ニ関スル筆記」vol.3

 

今回は「第二章 小銃」なのだが、ちょっと長編過ぎるので半分で区切る事とした。

語彙に関しても小銃に関する専門用語が多く、結構知らないものや難しいものがあったのでググった内容を記しておいた。

 

素養検査ニ関スル筆記 小銃①
素養検査ニ関スル筆記 小銃②
素養検査ニ関スル筆記 小銃③
素養検査ニ関スル筆記 小銃④
素養検査ニ関スル筆記 小銃⑤
素養検査ニ関スル筆記 小銃⑥
素養検査ニ関スル筆記 小銃⑦
素養検査ニ関スル筆記 小銃⑧
素養検査ニ関スル筆記 小銃⑨

解読結果は以下の通り。

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第二章 小銃
第一節 基本
一、 不動ノ姿勢
[號令]気ヲ著ケ
[要領]1.銃ヲ握ルニハ腕関節ヲ稍々前
      ニ出シ 銃身ヲ拇指ト食指トノ間ニ置キ
      他ノ指ハ食指ト共ニ閉ヂ軽ク屈メテ銃床
      ニ添ウ
    2.銃口ハ右臂ヨリ約十糎離シ銃身ヲ後
      ロニシ
    3.床尾踵ヲ右足尖ノ傍ニ置キ銃身
      ヲ概ネ垂直ニ保ツ

二、 休憩
[號令]休メ
[要領]徒手ニ同ジ 此ノ際照星ヲ擦
    ラザル如ク銃ヲ保ツ

三、 右(左)向 半右(左)向 後向
[號令]徒手ニ同ジ
[要領]徒手ニ同ジ 但シ右手ニテ銃ヲ少シク
    上ゲ腰ニ支エ動作終レバ銃ヲ静カニ下ロス

四、 擔銃・立銃
1.擔銃
[號令]擔エ銃(ニナエツツ)
[要領]1.右手ニテ銃ヲ上ゲ銃身ヲ概ネ右ニ
      且垂直ニシテ拳ヲ略〃肩ノ髙サニスル
      ト同時ニ
    2.左手ニテ照尺ノ下ヲ握リ
    3.銃身ヲ半バ前ニ向ケ
    4.銃ヲ少シク上グルト同時ニ
    5.右臂ヲ伸バシテ食指ト中指トノ
      間ニ床尾踵ヲ置ク如ク床尾ヲ握
      リ
    6.銃ヲ右肩ニ擔イ銃身ヲ上ニスルト同
      時ニ左手ヲ遊底ノ上ニ置キ右上膞
      ヲ軽ク体ニ接シ
    7.床尾ノ環ヲ体ヨリ約十糎離シ
    8.銃ヲ上衣ノ釦ノ線ニ平行セシメ
    9.槓桿ノ髙サヲ概ネ第一第二釦ノ
      中央ニシ
   10.左手ヲ下ロス
2.立銃
[號令]立テ銃
[要領]1.右臂ヲ伸バシテ銃ヲ下ゲ銃
      身ヲ半バ右ニ向ケ且概ネ垂直ニ
      スルト同時ニ左手ニテ照尺ノ下ヲ
      握リ
    2.銃ヲ少シク下ゲ銃身ヲ右ニスルト同
      時ニ右手ニテ木被ノ所ヲ握リ其ノ拳
      ヲ略〃肩ノ髙サニシ
    3.銃身ヲ後ロニシ之ヲ下ゲ腰ニ支エ同
      時ニ左手ヲ下ロシ
    4.銃ヲ静カニ地ニ著ク

五、 行進
1. 速歩行進
[號令]前ヘ進メ
[要領]イ.豫令ニテ擔銃ヲ為シ動令ニテ
      行進ヲ起スモノトス
    ロ.銃ヲ擔ウコトナク行進スルニハ 右
      手ニテ銃ヲ少シク上ゲ腰ニ支ウ
2. 駈歩行進
[號令]駈歩進メ
[要領]豫令ニテ擔銃ヲ為シ剣室
    ヲ握リ 動令ニテ行進ヲ起スモ
    ノトス 銃ヲ擔ウコトナク駈歩
    スル場合ニ於テハ速歩ノ要領
    ニ準ズ 但シ豫令ニテ剣室ヲ握ルモノトス
3. 停止
[號令]分隊止レ
[要領]「止レ」ノ動令ニテ停止シ立銃ヲ為
    ス 銃ヲ擔ウコトナク行進シタルトキ
    「止レ」ノ動令ニテ停止セバ直チニ不
    動ノ姿勢ヲ取ルモノトス

六、 著剣 脱剣
1. 著剣
[號令]著ケ剣
[要領]1.不動ノ姿勢ニ在ルトキハ 右手
      ニテ小銃ヲ左ニ傾ケ銃身
      ヲ少シク右ニ
    2.銃口ヲ概ネ体ノ中央前ニシ
    3.左手ニテ柄ヲ逆ニ握リテ
    4.銃剣ヲ抜キ注目シテ確実ニ銃
      口ノ所ニ著ケ
    5.両手ニテ銃ヲ起シ不動ノ姿勢ニ
      復ス
2. 脱剣
[號令]脱レ剣
[要領]1.不動ノ姿勢ニ在ルトキハ 右
      手ニテ小銃ヲ左ニ傾ケ注
      目シテ左手ニテ銃剣ノ柄
      ヲ握リ
    2.右手ヲ上ゲ拇指ニテ駐子ヲ押シ左手ニ
      テ銃剣ヲ脱シ
    3.之ヲ右ノ方ニ倒シテ剣尖ヲ下ニシ
    4.右手ノ食指 中指ト拇指トニテ刃ヲ
      挟ミ持チ他ノ指ニテ銃ヲ保チ
    5.左手ヲ翻シテ柄ヲ握リ銃剣ヲ室
      ニ納メ左手ニテ右手ノ下ヲ握リ
    6.右手ヲ下ゲテ木被ノ所ヲ握リ両手ニテ
      銃ヲ起シ不動ノ姿勢ニ復ス

***********************

・拇指:親指。「拇」だけでも”オヤユビ”と読む。
・食指:人差し指。
・床尾:小銃などの銃床の末端部で、射撃のとき肩に当てる部分。
・床尾踵:床尾の角の部分。
・照星:銃身の先端にある突起状の照準装置。照尺と合わせて用いる。
・照尺:銃身の手前の方に取り付ける照準装置。照星と合わせて用いる。
・遊底:後装銃で弾薬を詰めるために,銃身の後尾を開閉する装置。
・上膞:上腕のこと。
・槓桿:”コウカン”と読む。銃の遊底 (ゆうてい) を操作するための握り。
・木被:銃床(銃やクロスボウの照準を安定させ発射時の反動を抑えるために肩に当てる部品)の木製部分
・略〃:ほぼ、だいたい。
・駐子:留ボタンの事か?

 

75回目の8月15日… そういえば康男伯父さんの誕生日は8月14日だったっけ…

 

75回目の8月15日である。
拙ブログの内容からしても特別な意味を持たざるを得ない「祈念日」なのであるが、既にSNS等では多くの方々が靖国をはじめとする8月15日を取り上げていらっしゃる。
ヘソマガリとしては「何か他の話題は無いかなぁ」と思案していたところ、長男の康男(小生にとっては伯父)の誕生日が大正10年8月14日とニアピンであることに”無理矢理”気付いた。

祖父芳一~母芳子~小生と引継いだ遺品の中に「三原康男出産祝物覚帖」なるものがある。
因みに康男以下敬、三郎、芳子と子供達の出産時のものは全てあるのだが、実際に内容を見るのは今回が初めてである。

 

康男出産祝物覚帖 表紙
康男出産祝物覚帖 内訳1
康男出産祝物覚帖 内訳2
康男出産祝物覚帖 内訳3
康男出産祝物覚帖 内訳4
康男出産祝物覚帖 内訳5
康男出産祝物覚帖 内訳6
康男出産祝物覚帖 内訳7
康男出産祝物覚帖 内訳8
康男出産祝物覚帖 内訳9
康男出産祝物覚帖 内訳10
康男出産祝物覚帖 内訳11
康男出産祝物覚帖 内訳12
康男出産祝物覚帖 内訳13
康男出産祝物覚帖 内訳14

どうやら生地・反物系の祝物が多い様であるが、よく知らない物ばかりであったのでググってみた。
・モスリン:木綿や羊毛などの梳毛糸を平織りにした薄地の織物の総称。
軽く暖かいので子供の着物によく使われていたらしい。
・友仙:友禅(仙)染のこと。
・縮:ちぢみ(縮)織物のこと。
・ネール:ネル(フランネル)のこと。

絣・紬などの他に、うどん・素麺・羊羹・饅十(頭)などの食べ物もあるが、その中で砂糖が多いのに驚いた。
当時はまだまだ貴重品だったようである。
下駄・雪駄・靴などもあり現代とはかなり様相が異なっていた事が判る。

芳一・千代子夫妻が待ちに待った長男の誕生を多くの人達が祝福してくれたのである。

子供の誕生は親、家族、親戚にとって大きな喜びであることは当時も今も変わらない。
親は子供の成長を望みその過程に一喜一憂するのであるが、「戦争」はあまりに大きな「一憂」であった…

大正10(1921)年8月14日 99年前のことである。

と云うことは? 康男伯父さんは白寿(99歳)か…

 

昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙 母へは本音で甘えられる?…

さて、今回の投稿に入る前に、前々回の投稿まで3回程続けていた「素養検査二関スル筆記」シリーズに関してであるが以下の理由に因りダラダラと投稿する必要も無いと考え中断したのでご了承頂きたい。
・内容的に多少単調になりすぎてしまった感がある
・原典と思われる「歩兵操典」なるものが以下サイトにある事を発見

歩兵操典
http://www.warbirds.jp/sudo/infantry/souten_index.htm

 

…で、今回の投稿は昭和19年年末に三郎が母に宛てた手紙である。
父芳一へ宛てる時とは異なり本音を出しながら少々甘えている様子が伺える。
「我は将校生徒なり!」とは云ってもまだまだ17歳の青年である。

昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙①
昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙②
昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙③
昭和19年12月28日 三郎から母千代子への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
取急ぎて手紙を書きます。これは請願休暇(一週間一月五日夕食時限迄)で岡山縣の久世町に帰省
するものに(兼先一郎君)頼んで出して頂きますから學校の方へは内緒です。
正月には二日間(一日と三日、三十一日と二日と云う具合に)外出があり、又
一月の五日か八日に外出が一度ある予定です。正月には■■様方へ
行くのですが、もち米・小豆等が無い様です。この間の外出にはなけなしの砂糖で
ぜんざいをして下さって非常に嬉しくありました。この分では正月にも餅
はあまり食べられませんと思います。ほし柿等も絶対という程ありません。
かち栗等も良いです。この間等は九州の方のものですが餅を四角に切って
本の様なかたちにして學校へ送ってもらって外出の際持って出た
ものもあります。書籍・文房具等としてです。案外、學校等へ送ら
れるのは途中も安全ではないのでしょうか。
近頃は非常に家の事を思い出して居ます。こんな事では不可ないと思うので
すが皆外泊したりするとつい思います。思う様に行かぬ事もあったりすると。
學校では腹がすいた等は云えませんからね。甘い物もあまり(ほとんど)なく、つまらないと
思う事があります。外出すれば■■様で大分頂けますから唯一の楽です。
(菓子類は全然ありません。東京は)
腹巻(なるべく毛)が欲しいのですが。寒い時には良いですから。今頃は夜寒くて
毎晩かならず便所に一回起きるのですが、猛烈、嫌です。又便所が
非常に近くなって困ります。まるで老人の様です。
時計の「ケース」が欲しいのですが、防水だけではやはり直グ「ガラス」が割れて
もう二度こわしました。が■■様の隣の時計屋でなおして頂きました。
家に多分有ったと思いましたが[ケースのイラスト画]の様な格好のケースです。私の時計
の大きさを書きますと

[時計の実際のサイズ画]この位です。少し大きいですから無いかもしれませんが
懐中時計用でも良いです。

航空兵になると一月と三月頃に二度に卒業する予定です。
地上は七月か八月ですが。まだ兵科は発表になりませんが
七割位は行く様です。航空に行けば多分
休暇があると思いますが。私は船舶兵(地上)となって宇品に行き
たいのです。船舶兵の教育は宇品であります。倉野さんは
船舶で宇品に行って居られる筈ですが、一度宇品から手紙が来ました。
念の為、三月迄の外出予定日を書きますと
1月は五日、八日のどちらか一日(年始は外いて)二月十一日、三月は十一日です。
近頃敵機がひんぱんと帝都に来ますが、學校には爆弾は一つも落ち
ませんから安心して下さい。余り狙って居ない様です。
区隊長殿が変られてからはあまりおもしろくない様です。前田区隊長殿
は実は航空士官学校に行かれたのです。いつも前田区隊長殿の事を
思い出して居ます。実に良い区隊長殿でした。
康男兄さんからは其後通信ありませんか。康男兄さんの寫眞をいつも眺めて
居ます。芳子の女学生姿の寫眞等も欲しいです。
お正月には家内一同で寫って下さい。私も正月には寫したいと思ってゐます。
敬兄さんの徴兵はどんなですか。あまり無理は考えものですから。
では急いで乱筆お許し下さい。
十二月二十八日  夜

表書は■■様方としておきます。速達で出します。
それからこの間学校で皆行社の「さる又」、お父さんのはかれる様なやわらかい
茶色なメリヤスのものを買ったのですがどうしましょうか。送りましょうか、
もって居ましょうか。■■様に差上げましょうか。質は良いと思います。
軍足のやぶれたぼろぼろがあれば送って下さい。学校では新しいのと換えて
呉れますから。
風邪薬、腹薬、キヅ薬等少々お送り下さい。

(ここからは恐らく千代子がメモしたと思われる)
シモ焼薬 腹薬 キヅ薬 トケイノケース
干柿 菓子 餅 カチ栗
***********************

三郎は正月の休みには何時もお世話になっている芳一の知己宅へ伺う予定なのだが、世の中(特に東京)の食料不足は深刻で御馳走はおろか甘い物一つ食べられなさそうな状況に母親に縋らざるを得なかった様である。

勿論学校には知られたくない内容(女々しい?卑しい?)が含まれていると思っており、更には(どさくさ紛れなのか)前区隊長を懐かしみつつ暗に現区隊長を批判する様な事も書いた上で
「これは請願休暇(一週間一月五日夕食時限迄)で岡山縣の久世町に帰省するものに(兼先一郎君)頼んで出して頂きますから學校の方へは内緒です。」
とある。(笑)
実際に封筒の消印は”19.12.31”と兼先さんが岡山へ帰省したと思われる日付になっており、翌元旦に千代子の元へ届いている。

食料の他にも腹巻や本来は学校に常備されているべき薬類も送って欲しいと書いている。
陸軍予科士官学校に於てさえこの様な状況であったのだから一般市民レベルでの物資不足は相当深刻だった事が想像できる。

「康男兄さんからは其後通信ありませんか。康男兄さんの寫眞をいつも眺めて居ます。」
11月9日にフィリピン島へ出征した長男康男の消息が一ヶ月以上途絶えているのである…

 

昭和20年1月1日 三郎から父芳一への巻き手紙 謹賀新年 聖戦第五年目も勝利に明け…

今回は三郎が父芳一に宛てた巻き手紙。

昭和二十年の年賀の挨拶として巻き手紙の形で認められている。

陸軍予科士官学校として生徒全員がこの様な”年賀状”を認めたのか三郎が個人的に認めたのか定かではないが、最後の辺りに「候文不出来の所御訂正をお願い致します」とあるのをみると、どうやら慣れない候文の訓練等で生徒全員が認めたのではないかと思われる。

昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙①
昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙②
昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙③
昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
謹賀新年
聖戦第五年目も勝利に明け我等
は皇國の彌榮を冒頭に祈願致し候
将校生徒として否醜の御楯としての最
初の新春に候へば何となしに意義深き
印象に残るものを感じ居り候も時局は
非常を超え驕敵米鬼は我が神州
を覬覦し止まざる状態に候へば冬期休暇
も僅かに東京付近に直系尊族の住
居し居る者 大阪等々相当遠距離なるも右記人
上京せる場合は許可せられ候
のみに三泊四日間を與へられし程に候間
歸郷御尊顔を拝する事叶はず候
我が家に居らる四人にて楽しく御過し
被遊る事御拝察申上候
私も外出致さば■■様方に御厄介を
御掛け申す心算に候へば
父上よりも宜しく御礼申上被下度候
如是謂ひ居る際にも康男兄様は
南方決戦場比島に於て晝夜を別
たぬ激戦を續行されつつあるやも不知所候
我身の幸福を不可忘却一刻も早く
一人前と可成く努めざる不可所御座候
昨年の此頃は御母上は病床に在られ候も
康男兄様時々歸宅され敬兄様私
等も居り家内打揃ひし事にても本年は
左様に之無く淋しき事とても
母上壮健にあらせられ敬兄様も殆ど全快
されし由私達二人の不在をも補ひて餘り
ある事に存じ上候
一生の問題たる兵科も私事にして只〃
命のまヽ區隊長海老澤英夫大尉殿
にお任せ致し居り候 為念区隊長殿
の御芳名を記し置き候間
御誤り無之き様御願申上候
十二月廿一日出の御芳翰本廿五日受
取り年賀と共に以上書述候
嚴寒の砌り尚〃御躰に御配慮
の程遙かに振武臺上より御祈り
申し上候
敬具
昭和二十年元旦
三郎
父上様

追伸
日附けには廿年と書きましたが十二月廿五日に認めました
小包東京に送られずば書籍・文房具として學校
にお送り下さるゝもよくあります(■■様へ送られずば)
候文不出来の所御訂正をお願い致します

敬兄様
余り動ず元の立派なる躰に一日も早く
なって下さい 風邪は絶對引かざる様
御注意下さい

芳子殿
作業等に負けずしっかり勉強して
この立派な成績を落さない様に
くれぐれも躰に氣をつけて
***********************

あまり馴染みのない語彙があったのでググってみた。

・彌榮:いやさか、いやさかえ、やさかえ、やさか、やえい と複数の読みがある。主に「一層栄える」という意味。「万歳」に意味が近く、めでたい意味でも使われる。
・醜の御楯:しこのみたて。天皇の楯となって外敵を防ぐ者。武人が自分を卑下していう語。「今日よりは顧みなくて大皇(おおきみ)の 醜の御楯と いふ物は 如此(かか)る物ぞと 進め真前(まさき)に」と云う万葉集に歌より。
・覬覦:きゆ。 身分不相応なことをうかがいねらうこと。非望を企てること

冒頭「聖戦第五年目も勝利に明け…」と始まっているが、実際には「時局は非常を超え驕敵米鬼は我が神州を覬覦し止まざる状態に候へば」と本土への空襲が頻繁になり始めた時期でもあり、危機感は相当強まっていたと思われる。
実際に昭和二十年に入ってからは6大都市(東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・京都)だけでなく地方都市への空襲も激増した。

この国家の非常時に於ては「我身の幸福を不可忘却一刻も早く一人前と可成く努めざる不可所御座候」と将校生徒としての矜持を見せてはいるものの、まだまだ17歳も青年である。帰郷して家族の顔が見たい気持ちが強く感じられる手紙である…

※追伸にもある通り19年12月25日に認められた手紙であり、前回投稿した手紙とは時系列が前後しているが表向きの日付を優先した。

 

昭和20年1月17日 三郎から母千代子への絵葉書 B29が十機ばかりやって来ました…

 

今回は三郎が母千代子に宛てた葉書。

学年試験が始まったことや見ず知らずの少年から慰問状が届いたこと等、一見平穏な日常を記しているような内容であるが…

因みに絵葉書の場所の「名栗川」は入間川のことらしい。

 

20年1月17日 三郎から千代子への絵葉書①
20年1月17日 三郎から千代子への絵葉書②

解読結果は以下の通り。

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拝復 御手紙有難う御座居ました 皆様
御元気との事安心致しました 私方は本日
より學年試験始り奮斗致して居りま
す 寒稽古も十三日に完りました
八日に出ればよかったのですが五日に出る様
になってゐたので 癪でした 一日の違いですのに
試験が土曜日(廿日)に終り何やかやと一
月は終り二月十一日に外出が出来る予
定です 待遠しき事哉です
康男兄さんの事未だに不明で御心配で
しょうがあまり心をつかわない様にお願い申
し上げます それからこの間敷地国民学
校の伊達誠之君から慰問状を頂きました
私は実はこの人を知りません 伊達君も私を
なぜ知ったのでしょうか? では取急ぎて

(裏面)
この絵葉書
のところは十二月
に測図演習
に行った所で
この橋の上で
河流の状況
を説明され
たのです
この日は丁度
この様なよい天
気でしたが
B29が十機
ばかりやって
来ました
被害は勿論なかったのです
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頻繁にお邪魔させて頂いている芳一の知己宅へ小包を送って貰ったらしいが年明けに伺った時には届いておらず次回迄の「お預け」になってしまったことへの愚痴と思われる一節がある。
陸軍予科士官学校の「将校生徒」としては少々情けない感じもするが、要はそれ程までに物資(特に食料)不足が深刻であった証であろう。

慰問状の件についてはよく解らないが、「敷地国民学校」は三郎の実家のある三次の近隣にあったと思われ、おそらく地域の自治体等で出征者や軍関連学校へ進学した者の名簿を用意して子供達が慰問状を書いていたものと思われる。

「B29が十機ばかりやって来ました 被害は勿論なかったのです」とあるが、
(※最後の一行は絵柄と重なって判読が難しかったので正確ではないかも…)
三郎も軍人の端くれである。日本本土上空を敵爆撃機が十機も飛んでいる事がどういう状況であるかを知らない筈はなく、事の重大さは解っていたであろう。
実際に当時(昭和19年11月~)東京の飛行機工場を中心にB29による空襲が何度も行われており甚大な被害が発生していた。
但しこの時期はまだ焼夷弾が使用されていなかったことと軍需工場中心の空襲であったことで(後の大空襲と呼ばれるものと比べると)比較的被害が小さく、また当然大本営の隠蔽等もあり広く一般人には知られていなかったと思われる。

長男康男とは未だ音信不通のままの様である…

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書 待望の兵科発表 ん?消印が「大和」? 振武臺は埼玉県のはず…

 

今回の投稿は三郎が父芳一に宛てた葉書。

入校後約一年が経過し「待望」の兵科が発表された事を知らせている。

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書①
昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書②

解読結果は以下の通り。
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冠省 其の後お変りは御座居ませんか お蔭様で私
は風邪も引かず元氣にやって居りますから御安心下さい
さて待望の兵科が発表されました 私は予期の如く地
上兵科です(地上兵科中の細部は未だ先のことです)
ですから又當分予科に残る事となりました すぐ航空士官
學校の方へ行くものもあります 惜別の情に堪えないもの
があります 次の外出日は二月十一日 紀元節 其の間三週間
待遠しい事オビタダシイです 小包(十三日提出された)未到着
(廿日現在)です まだ日数がかかるとおもいます 試験も本日(廿日)
をもって終り成績は良好です 試験の終った喜はどこでも同じですよ
では早速お報せまで 草々
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冠省(かんしょう):「手紙の時候の挨拶などの前文を省略する」という意味で手紙の冒頭に使われる頭語。
結語として「草々」「怱々」「草々」「不一」が使われる。

これまで気付かなかったのだが、葉書の消印が「大和」となっている。
振武台(陸軍予科士官学校)は埼玉県北足立郡朝霞町である。ひょっとすると振武台からの通信物(手紙・葉書等)は一旦(神奈川県大和市に隣接している)相武台(陸軍士官学校)に移送され再度検閲されて発送されていたのではと思いググってみたが真偽の程は解らなかった。

また、一年程前の入校当時の郵便物は大体3~4日で配達されていたのだが、この時期になると一週間~10日程要しており、空襲等による戦況悪化が交通機関へも大きな影響を与えていたと思われる。

扨て、陸軍予科士官学校入校からほぼ一年が経過し、三郎「待望」の兵科が発表された。
予想通り?の「地上兵科」となったが細かい兵科区分は未定との由。

飛行機好きの三郎は本心では「航空兵科」に進みたかったのではないかと思うが、以前「船舶兵となって(故郷三次に近い)宇品へ行きたい」と云っており思惑通りだったのであろう。学年試験の首尾が良かったこととと合わせて安堵している様子が伺える。

この後三郎たち生徒は約半年間程各兵科に分れて専門教育を受けてから、本科(相武台)へ入学するのだが、実際にはこの後半年間は終戦までの混沌期間であり実際に予定通りに入学したかどうかは不明である…

 

昭和20年1月30日 三郎から母千代子への葉書 届いた小包は「お母さんの香が致しました…」

 

今回は待ちに待った小包がやっと届いた嬉しさを込めて三郎が母千代子へ宛てた葉書。

「これはお母さんの香が致しました」
本当に待遠しかったのであろう。
嬉しさが溢れている。

 

昭和20年1月30日 三郎から千代子への手紙①
昭和20年1月30日 三郎から千代子への手紙②

解読結果は以下の通り。

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御葉書並に封緘ハガキ正に受取りました 家には皆変り
ないとの事安心致しました 私も至極元氣と云いたい所です
が少々風邪ギミです が大した事はありません 兵科が定
りそれにつれて當然編成換があり私達は第七区隊
となりました 区隊長殿は増澤一平大尉殿ですから
その様御承知下さい 小包は仲々到かず小包がついたら
一緒に手紙を出そうと思っていてこんなに御無沙汰致し

※赤字は区隊長のコメント
三郎君 元気ニテ修養セラレ居リ益 御安心ヒ下度候 増

ました譯です 遂に本丗日到着致しました ほんとに有難うございました これは
お母さんの香が致しました
別段忙くのではないのですがついでの時 チリ紙 白モメン(カタン)
糸 筆(小筆ニ属スルモノ休暇ノ際ノ如キ)をお送り下さい
しもやけはなおりましたがなお注イしてゐます では又
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実家から送られてきた小包を開いた瞬間「我が家の香」が鼻腔を刺激し言い様の無い懐かしさを感じる事を小生も経験した事はあるが、「お母さんの香が致しました」とは本当に待ち焦がれ嬉しくそして懐かしかったのであろう。

チリ紙、糸、筆等の日常品を仕送りして貰わねばならない程物資不足が深刻であった当時、母親の愛情が詰まった小包ほど有難く嬉しいモノは無かったかも知れない…

因みに「白モメン(カタン)糸」とは「綿のミシン糸」のことで「カタン」とは「コットン」からきた言葉らしい。

「小筆」も所望しているが、確かに今回投稿の葉書は少々文字が読み辛く筆先が揃っていない様に思われる。
まぁ、それでも小生の文字よりは全然上手であるが…

 

昭和20年1月31日 三郎から父芳一への葉書 「安の目薬」とは?

 

今回は三郎から芳一に宛てた葉書。

年末年始だからかも知れないが、このところ三郎と実家とのやり取りが多少増えている様子である。

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書①
昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書②

解読結果は以下の通り。

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前畧 廿八日出しの御葉書
本丗一日受取りました 色々と御心
配有難う御在居ます 私も
お蔭で風邪も快くなり元氣に
教練に學課に邁進致して居り
ますから御安心下さい 「安の目薬」
の効力偉大か 今の所昨年の凍傷
は全快 以後かからぬ様に注意して
居ります 手の甲はカサカサになって
ヒビの方がきれそうで この方に注意
して居ります 当地は早や二ヶ月以上
晴天が續き空氣乾燥し切って
居ますのです。猛烈に風邪を引き
易く咽喉の方が侵され易い状況
ですから學校等にも注意され稀
に「マスク」をつけさせられたり「ウガイ」ノ励行を叫ばれてゐます 殊にこの學校付近
は猛烈な「ホコリ」が立って一米先が見えなくなり舎内に五粍位「ホコリ」がつ
もることは稀ではありません これから風でも吹きつのると余計です 待ちにまった
小包は丗日(昨日)受取り開いてみて非常に嬉しく感じ家で包みをつくられた状況が
目の前にありありとうかんで来ました 腹巻の方は早速使用してゐます これを
してゐるとお母さんと一緒です 何事も安心して腹に力を入れて出来ます
時々腹の方をなでて見てゐます 内容品其他外部も全然異常ありま
せんでした 念の為にもう一度申し上げますが区隊が変り地上部隊は
第七区隊となりました 心氣一転して大いに張切ってやります 地上兵科
となった以上は大分私の本望兵科に近づく予算が大となりましたから
喜んで居ります こちらはまだ雪が降りません 乾燥一点張りです
明日から二月となりますが昨年の今頃は家で何をしてゐましたやら 私も
この振武臺に来てから早や一年も過ぎんとしてゐます 一刻も早く
将校となって第一線に出て米英をやっつけねばと思えばまだ月日のたつの
がおそい位です 康男兄さんから通信があったら知らせて下さい では又

※赤字は区隊長のコメント
三郎君 一生県命元氣でやってゐます 区隊長
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『「安の目薬」の効力偉大か 今の所昨年の凍傷は全快』とある。
「安の目薬」?
目薬で凍傷全快?
早速ググってみた。

どうやら広島安佐地区の上安と云う所で製造されていた「目薬」なのだが、目薬ではあるが軟膏で下瞼につけ体温で自然に溶けて眼に入ると云う薬で、塗り薬として他の効用もあったようである。
おそらく「凍傷にも効く」と実家から送られてきたものを患部に塗り込んだのであろう。

http://masuda901.web.fc2.com/page5etx28.html

今年はコロナウイルスの影響で「マスク」が生活必需品に定着してしまったが、75年前の陸軍予科士官学校でも「マスク」と「うがい」が必須だったようである。

上州名物と呼ばれる「からっ風」であるが、埼玉朝霞辺りでも猛威を振るっていたのかもしれない。
『気温の低い時期に乾燥し「からっ風」でホコリが舞う』
と云うインフルエンザが流行る典型的な状況だったと思われる。
将校生徒のみならず教官たちも沢山ダウンされたのではないだろうか…

以前の投稿で「戦況悪化の影響で郵便への影響が出ている」旨の事を書いたが、今回の葉書は消印が「2/3」で芳一の手許に届いたのが「2/7」(宛名下部に記載されている)となっており、また葉書の中にも
「廿八日出しの御葉書 本丗一日受取りました」
とある。
広島埼玉間は3~4日で届いており、未だ郵便配達状況の悪化が常態化していたのではなかったのかも知れない。

「康男兄さんから通信があったら知らせて下さい」
長男康男の消息は未だ不明の様である…