戦後…混乱…遺された手紙類も無く…

前回までに投稿した手紙・葉書・各種資料等々で終戦直後までの小生の手許にある遺品は品切れである。
続きは恩給等の請願資料や昭和二十六年以降の芳子(小生の母)宛の手紙類が遺っているが、これらは機会があれば追って投稿したいと思う。

康男の戦死と云う悲しみの中で父芳一はじめ家族はどうしていたのだろうか…
陸軍予科士官学校生徒であった三郎がその後終戦までの間どの様に生きていたのか…
病弱であった母千代子と敬の容態は…
女学校に通っていた芳子の学生生活は…

家族全員が鬼籍入りした今となっては全く判らないのである…

ただ、
昭和23年6月 7日に次男敬が、
昭和25年6月17日に母千代子が
他界しており、残された芳一、三郎、芳子にとっては相当に辛い数年間であったであろうと推し量られる。

残念ながら小生は三人の誰からもその当時の状況を聞かされたことがない。
康男の戦死と同様に「思い出したくないこと」だったのであろう…

と云う状況なので暫くは遺されたその他資料を掻い摘みながら投稿してゆきたいと思う。

今回は康男が見習士官として配属されていた「西部第二部隊」当時の集合写真をご覧頂きたい。

昭和18年1月康男 西部第二部隊時 前列左から6番目が康男

少々見辛いので康男部分だけ拡大して…

康男 拡大

ググってみたところ、この「西部第二部隊」は広島市中広町(広島城の西側)にあったらしいのだが、詳細は解らなかった。

因みに当時康男の階級は「曹長・見習士官」であり、写真では軍刀を携えている。
現在、小生の手許には芳一が残した「康男遺刀」なるものがあるのだが、写真のものとは違うもののようである。
この辺りに関しても次回以降で投稿してゆこうと思う。

 

「軍装用赤牛皮編上靴」盗難証明書…二ヶ月足らずの間に一度ならずも二度までも…

 

少し遡るが、今回は康男の軍靴が盗難に遭った際に警察に提出した「證(証)明願」である。

2枚在り、小生は同一被害に於て警察署と派出所の2ヵ所へ提出したものと思っていたのだが、今回投稿するにあたり「よぉ~く」読んでみたところ、別々の被害のものだった事に気付いた。

盗難証明書 昭和19年1月
盗難証明書 昭和19年3月

片や
「昭和19年1月9日 18:00~18:30の間」
もう一方は
「昭和19年3月2日 午後6時頃」
とあるが、どちらも提出日が
「昭和19年10月11日」
なので(恐らく)軍の配給関連の部署辺りから提出を薦められたのではないかと思う。
だが、ではなぜここに遺っているのか??
(これも想像でしかないが)提出しようとして書いたものの、出征準備等に忙殺され遂に提出されず終いとなったのではないかと思う。

どちらも自宅での被害でしかも同時刻の出来事であり、案外身近な人物の犯行だったのでなないかと考える。
まぁ、今となってはどうでも良い事ではあるが…

戦争が長期化し日本全体が経済的にも苦しくなってきた頃である。窃盗などの犯罪も増えていたのかも知れない。

 

昭和18年7月 丸亀市日の出旅館の領収書 芳一と康男が宿泊 親子で何を語り合ったのかなぁ…

 

今回も少々遡ったモノである。

香川丸亀市の日の出旅館で芳一と康男が親子二人で宿泊した際の領収書である。

 

昭和18年7月25~26 日の出旅館領収書

康男は昭和18年6月10日に香川丸亀市の第64兵站警備隊に補充要員として転属しており、おそらく芳一が夏休みを利用して康男に会いに行ったのであろう。
この時期は三男の三郎が陸軍予科士官学校への進学(受験)を決めた時期であり、芳一がその辺りの相談や情報収集をかねて既に軍隊経験のある長男の康男に会いに行ったのではないかと思う。

当時と現在の貨幣価値で換算すると2名で3万円位の金額であるから左程高額でもないであろう。
ただ、「宿泊費+飲食費」で20円ほどの料金が税とサービス料で総額が1.5倍以上になっている。
やはり「旅館で一泊」は贅沢だったのだろう…
ビールも1本しか頼んでおらず「呑む」ことが目的では無かったのか、或いは節約したのか…

芳一にとっては三郎の進路が本題であったとしても康男の現況も気に掛かっていたことは間違いない。

そして、この1年余り後に康男が戦死することを考えると芳一にとっては本当にかけがえのない時間となってしまったのである…

 

広島市本川町の三郎宅での新年会…かな? 昭和45(1970)年頃か…

明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

令和三年が明け当ブログも足かけ三年目を迎えました。
本年も出来るだけ沢山の方々にご覧頂けるよう頑張る所存です。

扨て新年第一回は、昭和45年頃の正月に三郎宅に芳一・三郎・芳子の揃った(小生にとってはかなり懐かしい)写真が発見されたので、それを投稿したいと思う。

三郎宅での新年会にて 昭和45年頃

後列の3人の女性は左から、三郎次女・長女・奥さん
前列左より、三郎・常子(芳一後妻)・芳一・芳子長女・芳子
最前列右に鎮座しているのが小生(芳子長男)
である。

実はこの写真は小生の手許にあったものではなく、国際新報社から出版された「新 昭和回顧録 我が人生の記」と云う分厚く立派な書物に掲載されていたものである。

以前よりこの書物が遺品の中にあることは知っていたのだがこれまで内容については知らなかった。
「何か投稿出来るモノはないかなぁ」と漁っていたところ(笑)目に留まったので開いてみた訳である。

この「新 昭和回顧録 我が人生の記」と云う書物は先の大戦で散華された軍人・軍属の方々を称え記録に残すべく広島県遺族会の協賛によって出版されたもので長男「故 三原康男」が掲載されているのだが、編纂当時芳一は既に他界しておりどうやら常子が写真・記事を提供して掲載されたものらしい。

写真でもお判りの様に三郎は(三原家の中では)体格も良く陸軍士官学校で鍛えられた厳格さもあった。
かなり以前の投稿(2019/05/08)の最後の件でこの写真当日の出来事をお伝えしたのだが、その中で三郎は小生にとっては「怖い伯父さん」であったと言っている気持ちが多少分かって頂けるのではないだろうか…
https://19441117.com/2019/05/08/

 

船舶司令部潜水輸送教育隊矢野隊長からの「戰死認定書」発見…何故か日付は終戦前の昭和20年6月8日

 

 

戦前戦中の遺品の投稿がひと通り終り、今後投稿してゆく題材を求めて遺品漁りをしていたところ、長男康男の戦死に関し「戦死認定書」なるものが出てきた。

昭和20年6月8日 戦死認定書①
昭和20年6月8日 戦死認定書②
昭和20年6月8日 戦死認定書③
昭和20年6月8日 戦死認定書④

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戰死認定書
船舶司令部潜水輸送教育隊
陸軍少尉 三原康男

一、生死不明トナリタル日時場所
日時 昭和十九年十一月十七日二十二時0七分
場所 黄海南方東経一二四度三四・五北緯三三度三五海上
二、生死不明トナリタル前後ノ状況
昭和十九年十一月十五日特設水上勤務第自一四四至一五一中隊要員
トシテ陸軍輸送船江戸川丸(輸送指揮官河滿大尉)ニ乗
船シ篠田大佐ノ指揮スル「ミ二七」船團ニ加ハリ同日十六・00
頃大連港ヲ出帆「マニラ」ニ向ヒ航行中十一月十七日二二・
0七分(頃)江戸川丸ハ東経一二四度三四・五北緯三三度三五
海上ニ於テ敵潜水艦ノ魚雷攻撃ヲ受ケ遂ニ同船
右舷側三番船艙ニ被雷大音響ト共ニ爆發浸水
シ機関モ亦停止セリ
次テ甲板上ノ舟艇・自轉車等ニ引火シ火災ヲ生起スル
ニ至レリ 被雷直後全員警急集合所タル左舷甲板上
ニ集合シアリシモ輸送(司)指揮官ノ退船命令ニ據リ海
中ニ飛込ミ退避セルモノノ如シ 江戸川丸ハ翌十一月十八日
0一・三0分頃艏部ニ積載シアリシ爆雷ニ引火セルモノ
ノ如ク大爆音ト共ニ沈没セリ
退船者ハ船中ヨリ投出或ハ流出浮上セル筏木片浮
胴衣等ニ據リ漂流中同日0三・00分頃ヨリ一三・00分頃
ニ至ル間護衛艦タル海防艦一、掃海艇一ニ依リ乗船
者に貮千余名中約一九六名ヲ救助セリ 引續キ附近
海面ヲ捜索セルモ他ハ發見スルニ至ラズ 當時天候和風
程度ニテ良好ナリシモ闇夜ナリ
三、採リタル捜索手段
被雷當時敵潜水艦ノ攻撃は執拗ニシテ護衛艦ハ驅潜
並ニ他ノ船舶ノ護衛ニ任シタリシ為メ僚船鎮海丸専ラ
遭難者ノ救助ニ任シアリシモ之又敵潜ノ為メ撃沈
セラレタリ 十八日0三・00分頃ヨリ護衛艦ハ救助ニ着
手セルモ闇夜ノ為メ意ノ如クナラズ依テ一時之ヲ中止
天明ヲ待ッテ再ヒ救助ヲ開始セリ
然ルニ朝来風速加ハリ波浪髙クナリタルタメ捜索困
難トナリタルモ極力遭難地点ヲ中心トセル海域ノ捜索
ニ努メシ結果一九六名を救助セルモ他ハ何等ノ
手掛ナク同日一三・00分頃捜索ヲ中止シ十一月二十日
上海ニ入港セリ
四、戰死認定ノ理由
前記ノ如ク捜索スルモ得ル所ナク其ノ後半歳餘ヲ經タ
ル今日本人ニ関シ何等消息ナキハ船ノ遭難(者)時爆死又
ハ退船ノ餘祐ナク船ト運命ヲ倶ニスルカ又ハ海上ニ退船
スルモ大海中ナルタメト寒冷ノ為メ游泳力盡キ溺死
セルカ何レカニシテ茲ニ事實ヲ精査シ死体ハ發見セ
サルモ戰死シタルモノト認定ス
昭和二十年六月八日
船舶司令部潜水輸送教育隊長陸軍大佐矢野光二
***************************

昨年11月8日に投稿した「生死不明トナリタル迄ノ経歴」とほぼ同じ内容なのであるが、今回のものは毛筆書きにて丁寧に認められており「正式な書類」感が強い。
ただ今回のものは日付は終戦前の昭和20年6月8日となっており、終戦後の昭和20年9月8日付で矢野隊長から送られてきた前回投稿のものよりも前に書かれたものとなるのだが、内容的には今回のものの方が詳しく記されている。

https://19441117.com/2020/11/08/

例えば
「二、生死不明トナリタル前後ノ状況」の次の件は9月8日の新しい(後の)ものでは
「〇〇隊要員」と省略されているが、今回の旧い(前の)ものでは「特設水上勤務~中隊要員」と正確に書かれており、他にも細かい部分で記述が異なっている部分が散見される。

小生の推測であるが、元々戦死認定書は昭和20年6月8日付で作成されていたが、戦争末期~終戦直後の混乱の中遺族への通達が出来ず、親族からの要請に応えるために矢野隊長以下船舶司令部の方が書類を書き写して(占領軍に隠れて)送付したのではないかと思う。
故に前回の投稿のものに同封された矢野隊長の手紙(こちらは昨年10月31日に投稿)に
御閲覧後 焼却下され度し
と朱書きされていたのであろう。

https://19441117.com/2020/10/31/

「四、戰死認定ノ理由」は前回投稿のものには記載がなく今回初めて目にする部分であるが、
「爆死、溺死」と遺族にとっては心をえぐり取られるような言葉が並んでいる。

これが「戦争」である…

 

明治30年頃の三原家の写真 芳一は1歳 千代子は生まれる前…

 

小生から見ると芳一・千代子は祖父母にあたるのだが、遺品を漁っていると結構古い写真などが出てくるもので、今回のものはその芳一・千代子から見て父・祖父母にあたる人々の写真である。

 

三原家の写真 明治30年頃

写真と共に芳一が昭和13年に取得したと思われる戸籍抄本が保管されていたのでそれと照らし合わせてみた。
小生から見れば曽(ひい)祖父・高(ひいひい)祖父母にあたり、120年以上も昔の「ご先祖様」を拝むことが出来るとは思っていなかったので少々興奮気味である。

戸籍で確認したところ高祖父母(和七・キク夫妻)はともにそこそこ長命で、和七は大正十三年に72歳で、キクは昭和12年に77歳で没している。
しかしその息子(曽祖父)の常一は(この写真が明治30年のものだとすると)翌31年に結婚し33年に長女千代子を儲け翌34年に23歳の若さで他界している。(何故亡くなったのか詳細は不明)
千代子にすれば物心がついた時には既に父親は居なかったわけである。
いや、それどころかもう数年彼の死期が早ければ千代子は生まれておらずその末裔たる小生など将に「影も形もなかった」のである。

明治29年生まれの芳一は当時1歳くらいであった。
その後大正10年29歳の時に千代子と結婚し同時に一人息子を亡くし跡継ぎのいない和七・キク夫妻と養子縁組をしている。
ただし、その年の8月に長男康男が生まれているので「できちゃった婚」のにおいが…

因みに康男も常一と同じ23歳で戦死している…

 

大正4年3月11日撮影 芳一18歳… 慰安旅行か? 三次の某旅館にて

 

前回に続き今回も100年以上前の旧い写真を投稿。

上掛けのトレーシングペーパーには「大正四年三月十一日撮影」と記されているので、芳一18歳の時のもので、小生の手許にある芳一の写真の中では一番旧い。

 

大正四年三月十一日 芳一18歳の頃

二階外廊下の右から四人目の新聞らしきモノを読んでいるのが若かりし頃の芳一である。
建物や人の影が長く伸びていることから察するに夕刻の様で、会社の慰安旅行等で観光地を巡った後宿に到着し一風呂浴びたあとでの一コマのようである。
場所等の詳細は不明だが、写っている人力車をトレーシングペーパーには「三次某車夫」と書いているので、三次或いはその近郊であろう。

扨て、慰安旅行だとすれば当時芳一は何処に勤めていたのか小生は知らないのだが、「銀行マン」だったと云う話は芳子から聞いてはおり、また遺品の中に「広島縣農工銀行創立三十五周年記念 昭和八年九月」と記された置時計があるので、おそらくこの「広島縣農工銀行」につとめていたのではないかと思う。

広島縣農工銀行創立35周年記念置時計①
広島縣農工銀行創立35周年記念置時計①

 

広島縣農工銀行創立35周年記念置時計②
広島縣農工銀行創立35周年記念置時計②

人物自体は小さく写っているため芳一の表情がはっきり確認できないのが残念であるが、小生の手許にある唯一の「禿げていない時の芳一」の写真である…

 

明治28年 曽祖父三原常一の就職先は第六十六国立銀行…?

 

今回も少々時代を遡って小生の曽祖父(千代子の父)である三原常一に関しての話題である。

前回の投稿で芳一(小生の祖父、千代子の夫)が銀行マンで広島県農工銀行に勤めていたらしいと云う話をしたが、どうやら常一も銀行マンだった様である。

 

雇申付 三原恒(常?)一 明治28年10月2日

解読結果は以下の通り

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        三原恒一

雇申付候也
 但月給金参円給与候事

明治廿八年十月二日
      第六十六国立銀行頭取
        天野嘉四郎
      同支配人
        福原陳興
***************************

要は採用辞令の様な書類であろう。

恒一となっているが恐らく記載ミスと思われる。

この時常一は17歳で当時の学校制度では尋常中学校を卒業したばかりの年齢である。
ググってみたところ、当時六十六国立銀行は本店は尾道市、支店は広島市と福山市にあったようであるが、常一がどこに配属されたかは定かでない。

ただ、この4年後の明治32年の写真が遺っている。

明治32年地価及地租率改正の際 於三次税務署

これは明治32年の地価及び地租率改正の際の三次税務署執務人員の記念撮影で、上から二段目の右から三番目が常一である。
この写真当時常一が銀行職員だったのか税務署員であったのか不明であるが、案外入行当時から地価・地租率関連の仕事で三次税務署に派遣された様な勤務形態だったのかも知れない。

それにしても当時の国立銀行職員って国家公務員?
だとしたら”ひいじいちゃん”ちょっとすごい(笑)

 

昭和23年6月5日 投函されず手許に遺ったままの手紙…認められたのは敬が亡くなる二日前…

 

 

今回は終戦後3年程経過した昭和23年に芳一が書いた手紙なのだが、どうやら投函されなかった様である。

 

昭和23年6月5日 芳一の手紙 封筒表
昭和23年6月5日 芳一の手紙 封筒裏
昭和23年6月5日 芳一の手紙①
昭和23年6月5日 芳一の手紙②
昭和23年6月5日 芳一の手紙③
昭和23年6月5日 芳一の手紙④

解読結果は以下の通り。

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六月四日附のハガキ今朝お医者さんへ薬
を貰いに行って帰って拝見しました。茂も可愛そうに
遂にあの世に先立ちました由 姉上様の御心中
お察しするに餘りありです。五月三十日に私が
参りまして見てやったのですが最後であったと思えばせめ
て一夜泊って最後迄見てやりたかったと思います。
然し茂は果報者であったと思います。
可愛い女房に親切に介抱して貰った事は、誰
よりも果報者であります。悪るい顔一つ見せず
に介抱してやってくれた事は私も誠にうれしく
存じます。親子は一世 夫婦は二世 と申しま
す。若死にした事は可愛そうでなりませんが
是れも前世よりの運命と諦らめる外はありません。
姉上様も嘸かしお力の落ちた事と思ひますが
茂の為めになげかず 元氣を出してあれの瞑福
を祈ってやって下さい。そして残った妻子が路
頭に迷わぬ様にしてやって下さい。何れ君田の
親類も何とか善くされると存じますが姉上
様や兄弟が力になってやらなければと思います。
私も今日でも参上廻向してやり度いのですが
私方にも敬が全く絶望状態となり氣分はハッキリ
して居りますが食事も進まず重態に陥りましたの
で二三日前からは夜もロクロク休まずに見てやって
居ります様な状況で参れません。何れ此処二三日
の内と思われます。可愛そうでなりませんが
もう手の尽くし様もありません。短い寿命と
諦める外ありません。あまりにも意識が明瞭な
ので苦しい事だろうと たまらなくなります。
お互いに子供に先立たれて。情ない事であり
ます。姉上も私も何と不運な事かと存じます
が、まあ私も元氣を出してやって居ります。是れも
私等の前世の種のまき様が悪るかったので因果
の報いでありましょう。善根を施して罪をわびる
外ありません。お寺参りでもして子供の冥福を祈
ってやりましょう。
つまらぬ事を申しましたが世の中は凡て運命で
あります。天にまかす外ありません。
どうか落胆せずに元気を出して居て下さい。
同封の香典どうか茂の霊前に供えて下さい。
残った嫁に呉れぐれもお悔み申したと傳えて
下さい。元気を出して子供を育てる様にと申して
下さい。
先は不本意乍らも書中でお悔み申し上げ
ます。私方にも変った事があれば直ぐに
様子しますから どうか御心配下さらぬ様願
います。
皆様の御自愛を祈ります。
六月五日 夜十二時半
芳一より
玉井姉上様
茂の遺族様

***************************

芳一は小生の実祖父なのだが、その家族関係に関しては正直殆ど知らない。
芳子(芳一の娘、小生の実母)がその類の話を殆どしてくれなかった事が大きいのだが、「何故話してくれなかったのか?」に関しては不明である。

この手紙の宛名にある「玉井タズノ」なる女性が芳一の実姉なのか義姉なのかもハッキリしないのだが、文面から察するに義姉のようである。

手紙には甥の「茂」の訃報に触れているが、この時既に次男の敬は危篤状態であり親戚とはいえ他人の不幸を悲しんでいる余裕は無かった筈である。
事実、手紙の内容からは葬儀の際にお坊さんが説く様な諦めとも自虐ともとれる文言が並んでいる。
そのことに自ら気付いたから投函しなかったのか、或いは混乱に紛れて投函しそびれてしまったのか、これも不明である…

戦争で長男(康男)を失い、戦後の大混乱の中で病に伏した妻(千代子)と次男を必死で看病した芳一。

次男の敬が他界したのはこのわずか二日後の昭和二十三年六月七日であった…

 

閑話休題 三月一日は芳一の命日 小生高校受験のまっただ中、突然の悲報に芳子は… vol.1

 

1975(昭和50)年3月1日朝7時過ぎだった。
高校受験の真っただ中だった小生は自由登校(??だったと思う)で二階の自室でのんびり眠っていた。

突然階下から悲鳴の様な母(芳子)の声が響いた。
「三次のおじいちゃんが死んじゃったんじゃと!!」
悲しさと驚愕と混乱の中から発せられたその芳子の狂気を帯びた叫びは小生を叩き起こすのに十分であった。

母は当初はオロオロしていたものの、少ししてから落着いたのかポツリポツリと話始めた。
「もう死んでしもうたんじゃけんね…。今日は月報(国鉄バス切符売り場の売上)を出さにゃあいけんけぇ、夕方からじゃないと三次に行けんね。あんた(小生)は学校へ行きんさい。」
小生が学校へ行く準備をしている間にも
「去年まで確定申告を全部おじいちゃんにやってもらいよったんじゃけど、いつまでも面倒かけちゃぁいけん思うて今年は自分でやったんよ… それがいけんかったんかねぇ… 安心しちゃったんかねぇ…」
と、誰に話すともなく独り言の様に呟いていた。
登校した小生は授業中も休み時間もずっと「ボーッ」としていた記憶がある。

国鉄バス切符売り場

夕方、店(国鉄バス切符売り場)を閉めて高校生だった姉を加えた三人はバスで広島駅へ。
広島駅で芸備線の三次行き急行(多分「ちどり」だったと思う…)に乗り芳一の亡骸の待つ三次へ向かった。

時間的に通勤時間にあたったのか列車は満員で指定席はおろか自由席にも座れずデッキ付近に三人は座り込んで広島駅を出発した。

しゃがみ込んで俯いている母は明らかに疲れていた。
実父の突然の悲報を受け悲しみに困惑しながら仕事をこなし今その亡骸の元へ向かっているのである。

1975年頃 晩年の芳一と小生
1975年頃 晩年の芳一と小生