昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部 三雲豊造部長からの巻き手紙 康男出陣への壮行…難読(-_-;)

 

前回の投稿で愈々康男の出陣が決定した旨をお伝えしたが、今回の投稿は康男の勤務先である日本興業銀行の人事部長から父芳一宛に届いた巻き手紙である。

 

昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部長 三雲豊造部長①
昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部長 三雲豊造部長②
昭和19年11月6日 日本興業銀行人事部長 三雲豊造部長③

全文解読すべく鋭意努力したが惨敗であった。
とりあえず全体の意は理解できる程度には解読したつもりだがかなりの箇所で???があった。(完全に解らない部分は〇で表示したが他にも怪しい部分が結構あった。)
解読できる方いらっしゃったら御教示乞う。

(とりあえずの)解読結果は以下の通り。

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拝啓 秋冷の候
愈々 御多祥賀に候
〇〇 本日は 〇〇
嬉しく〇〇 今度
御令息 康男殿には
南方第一線に御出陣
の趣 衷心より御勇戦
と武運の長久とを
祈っている次第に御座い益
戦局愈々重大化し
當地も三日にあげづ
空襲警戒の鳴渡る
状態にて 一億緊褌の
秋 今を措いて何日有る
へき哉と〇〇益
益々御自愛の上 御
活躍の程 祈り益
先は右御挨拶をと
如斯御座益
敬具
十一月六日
三雲豊造
三原尊堂
〇〇〇
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日本興業銀行が「勤務先」ではあるのだが、実際には昭和17年1月の入社直後にオリエンテーションで出社するも同年2月には陸軍二等兵として臨時召集~入隊しその後は(多分)一度も出勤していないと思われる。
日本興業銀行入社に関しては以前の投稿を参照願う

https://19441117.com/2019/04/23/

戦況の拡大・悪化に伴い多くの若者が戦争に駆り出された時代である。
殆ど出勤していない(できない)新入社員への人事部長からの「通達」が戦地への壮行・激励の手紙である。
手紙を出す側も受取る側も複雑な気持ちであったろう…いや、悔しかったであろう。

昭和19年11月6日 三雲豊造氏封筒宛名面
昭和19年11月6日 三雲豊造氏封筒差出人面

因みにこの手紙は11月6日に出されたものであるが、封筒に芳一が「康男出帆ノ日着」と赤字で記入している。

康男の出陣は昭和19年11月9日であった。

 

昭和二十年十月十九日 芳一に三次町長より「殉国勇士町葬執行ノ件」届く

 

終戦後二ヶ月ほど経過した頃、芳一の許に支那事変及び大東亜戦争に於いて戦死した町内の英霊の町葬を行うとの旨の「殉国勇士町葬執行ノ件」と云う報せが届いた。

 

20年10月19日殉国殉国勇士町葬執行ノ件

ガリ版印刷と思われるが、少々読み辛かった。
解読結果は以下の通り。

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昭和二十年十月十九日
三次町長
三原芳一殿
1殉國勇士町葬執行ノ件
志那事変及大東亜戦争ニ於テ名譽
ノ戦死ヲ遂ゲラレ候 御英霊ニ對シ来ル
十月二十八・九・三十日ノ内適当日時ヲ決定
町葬執行可致計劃ニ有之候条右御
準備置相成様致シ度及予報置候也
一、追テ日時確定セバ通知可致候
二、殉國勇士ニシテ種々ノ関係上御遺
骨其他遺留品等ナク町葬当時
對照トナルベキモノナキニ於テハ最適
当ノモノ選定御呈示相成度候
三、遺品等適当ノモノヲ御遺骨ニ代
ヘラルル場合ハ特ニ手持品ニテ木箱ヲ
造り白布ヲ覆ヒ尊厳ヲ失ハザル
如ク手配セラルル様致度候
四、町葬当日ハ町内會長又ハ隣組
長等御遺骨出迎ノタメ参堂ノ
予定ニ有之候
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まだまだ大混乱の真っただ中であった筈であるが、我が国を未曾有の国難から護らんと命を懸けて戦いながらも武運拙く名誉の戦死を遂げられた英霊を町をあげて弔うのである。
生き残った国民の多くが生きるか死ぬかの状況下にあるにも関わらず、日本全国でこの様な合同葬儀が執り行われていたのである。
なんと日本らしい光景ではなかろうか…

因みに用紙は戦時中の大蔵省のチラシの裏が使われている。

20年10月19日殉国殉国勇士町葬執行ノ件 裏