昭和20年2月13日 三郎から母千代子への葉書 「お母さんの手紙を讀んで居ると家の中が眼前に浮かんで来ますよ」

 

今回は三郎が母千代子へ宛てた葉書。

前回投稿した父芳一への手紙と一緒に認めたのであろう、翌日付にて投函されている。

 

昭和20年2月13日 三郎から千代子への葉書①
昭和20年2月13日 三郎から千代子への葉書②

解読結果は以下の通り。
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前畧 二月七日夜出された封書
本十三日受取りました 待ち兼ねて
居たので非常に嬉しくありました
三次に雪が降ってゐる様ですが皆元氣
との事安心致しました 此方も時々雪
が降りますが大した事はありません
雪の朝でも張切って上半身裸体となり
予科自慢の裸体操をやります
第二次の一年生が又入校して来て中
隊は満ち満ちて居ります 一年生も
大いに張切って居ります 三中からは
来なかった様ですね
お母さんの手紙を讀んで居ると家の
中が眼前に浮かんで来ますよ
外は雪がしんしんと降り人の足音がキシキシと聞える等 実に実感
が出て居ます 敬兄さんは寒さに負けては居られませんか 氣持ちは充分
丈夫に持って そうして用心して下さい 芳子ちゃんも日曜迄學校に行って
居るとの事 御苦労ですね だが何處も同じです 兄さんも日曜日
に作業等やってゐますよ 日髙君は神経痛で熱海の方へ療
養に行って居り阿野君も「カリエス」か何かで入院して居る様です
二人の兵科は不明ですが多分地上と思います お父様にも葉書は
出しましたが十一日に外出したら完全にとってあって非常に嬉しくありました
厚くお礼を申し上げて下さい 次は三月十一日と思いますが其れまで
外出を楽しみに大いに張切ってやります それから今日三原の修
君から葉書を頂きました 修君も広で働いて居るのですね
私もそれを思い感謝して居ります私達の様に満足に勉強で
きる所は他にありませんからね では風邪にかからない様にお願い申します
さようなら
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「第二次の一年生が又入校して来て中隊は満ち満ちて居ります」とあるが、
三郎たちは陸軍予科士官学校第60期生で昭和19年2月入校であるが、次の61期は戦況悪化における将校の消耗を補うべく多数の生徒を採用したため、昭和19年11月に1648名、昭和20年2月2700名、4月に幼年学校から900名が入校している。
3回に分かれての入校となったのは、三郎たち60期が航空士官学校や座間の陸軍士官学校(相武台)へ進学して部屋が空くのを待ったためである。
上記の状況からすると三郎は昭和20年4月に本科(陸軍士官学校)に入校したと思われる。

「日髙君は神経痛で熱海の方へ療養に行って居り阿野君も「カリエス」か何かで入院して居る様です」
おそらく日髙君、阿野君ともに三次中学の先輩か同級生と思われる。
「カリエス」とは結核菌などの感染による脊髄の病気で、結核が「国民病」と恐れられていた当時は大変心配な状態だったのではないかと思われる。

次兄の敬もそうであったように「病気である上に(お国の為に戦えないと云う)世間的に肩身の狭い思い」をしながら生きることは、本人はもとより家族や親戚も辛い思いを強いられる時代であった。

 

明治30年頃の三原家の写真 芳一は1歳 千代子は生まれる前…

 

小生から見ると芳一・千代子は祖父母にあたるのだが、遺品を漁っていると結構古い写真などが出てくるもので、今回のものはその芳一・千代子から見て父・祖父母にあたる人々の写真である。

 

三原家の写真 明治30年頃

写真と共に芳一が昭和13年に取得したと思われる戸籍抄本が保管されていたのでそれと照らし合わせてみた。
小生から見れば曽(ひい)祖父・高(ひいひい)祖父母にあたり、120年以上も昔の「ご先祖様」を拝むことが出来るとは思っていなかったので少々興奮気味である。

戸籍で確認したところ高祖父母(和七・キク夫妻)はともにそこそこ長命で、和七は大正十三年に72歳で、キクは昭和12年に77歳で没している。
しかしその息子(曽祖父)の常一は(この写真が明治30年のものだとすると)翌31年に結婚し33年に長女千代子を儲け翌34年に23歳の若さで他界している。(何故亡くなったのか詳細は不明)
千代子にすれば物心がついた時には既に父親は居なかったわけである。
いや、それどころかもう数年彼の死期が早ければ千代子は生まれておらずその末裔たる小生など将に「影も形もなかった」のである。

明治29年生まれの芳一は当時1歳くらいであった。
その後大正10年29歳の時に千代子と結婚し同時に一人息子を亡くし跡継ぎのいない和七・キク夫妻と養子縁組をしている。
ただし、その年の8月に長男康男が生まれているので「できちゃった婚」のにおいが…

因みに康男も常一と同じ23歳で戦死している…

 

明治28年 曽祖父三原常一の就職先は第六十六国立銀行…?

 

今回も少々時代を遡って小生の曽祖父(千代子の父)である三原常一に関しての話題である。

前回の投稿で芳一(小生の祖父、千代子の夫)が銀行マンで広島県農工銀行に勤めていたらしいと云う話をしたが、どうやら常一も銀行マンだった様である。

 

雇申付 三原恒(常?)一 明治28年10月2日

解読結果は以下の通り

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        三原恒一

雇申付候也
 但月給金参円給与候事

明治廿八年十月二日
      第六十六国立銀行頭取
        天野嘉四郎
      同支配人
        福原陳興
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要は採用辞令の様な書類であろう。

恒一となっているが恐らく記載ミスと思われる。

この時常一は17歳で当時の学校制度では尋常中学校を卒業したばかりの年齢である。
ググってみたところ、当時六十六国立銀行は本店は尾道市、支店は広島市と福山市にあったようであるが、常一がどこに配属されたかは定かでない。

ただ、この4年後の明治32年の写真が遺っている。

明治32年地価及地租率改正の際 於三次税務署

これは明治32年の地価及び地租率改正の際の三次税務署執務人員の記念撮影で、上から二段目の右から三番目が常一である。
この写真当時常一が銀行職員だったのか税務署員であったのか不明であるが、案外入行当時から地価・地租率関連の仕事で三次税務署に派遣された様な勤務形態だったのかも知れない。

それにしても当時の国立銀行職員って国家公務員?
だとしたら”ひいじいちゃん”ちょっとすごい(笑)