飛行機少年 三郎 ~模型航空教育~

前回の三月三日の日記の中にあった模型飛行機に関する記述について。

小生も知らなかったのだが、当時小学校~旧制中学校では”模型航空教育”という教科があり、模型飛行機制作やグライダーでの滑空訓練等の教育が行われていた。勿論、航空機(戦闘機)の自国開発製造を行う上での国策であった。
特に昭和16~19年頃までは空前の模型飛行機ブームでこの間に1000万人の児童・生徒がこの教育を受けたらしい。
したがって当時の青少年は非常に航空機への関心が高く、それに関する知識も豊富であった。
三郎も御多分に漏れず飛行機が好きだったようで、以前の投稿にも上げたように落書きで戦闘機(ゼロ戦?)を書いたりしている。(冒頭に再掲載)
また、中学三年の時には模型飛行機の滞空時間を競う大会で三等に入賞して表彰されている。(賞状添付)

模型飛行機競翔大会賞状

蛇足だが、第三学年、三原三郎、三等、第三回、十一月三日、三次中学校と”三”が7個もある賞状も珍しいのでは…。

今後の投稿の中にも出てくるが、約一年間の教育期間を終えると航空兵科と地上兵科とに分かれて進学するのだが、やはり航空兵科が人気であった様子である。但し、学力以外にも高い身体能力が必要とされたため、地上兵科に比べ難易度は高かったらしい。

「たまにはこんな天気のいい日に模型飛行機翔ばしたいなぁ~」無邪気な少年の一面が顔をのぞかせている。

昭和19年3月22・28日 三次中学同級生から三郎への葉書

今回は少し間が空いて届いた同級生からの葉書2通を紹介する。

前年の内に陸軍予科士官学校への入学が決まっていた三郎は特別で、通常はこの時期が入学進学で大変な時期であり、なかなか返事が書けなかったのであろう。

まずは、Kさんの葉書から。

昭和19年3月22日 同級生Kさんから三郎への葉書

特に難読部分は無かった。
解読結果は以下の通り。

********************
拝啓 君も入校後元気の事と思う。
僕も近頃一心不乱だ。陸士の五月、海
兵の七月、と受験の期も近づくし、とても
忙しいよ。どうか君の手紙の返事を長らく
出さなかった事もゆるしてくれ。
今年の四年の高校パス生はないらしい。
而し、軍隊方面の受験者ハ精鋭ばかりだよ。
君達の後をつくぞ。どうか我々四年生
に期待して君達も大いに努力して呉れ。
********************

続いてTさんの葉書から。

昭和19年3月28日 同級生Tさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

********************
三原君、無事御入隊を御祝
福申上げます。益々無事
精励の事と存じます。皇国の
ためしっかりやって下さい。
こちら益々無事勤労にも
挺身しています。
四年生も一同五年となり、専門学校
へも少々ね。斉木等の数名が合格し
ました。明日は湯浅、立石両君が
甲飛に出発します。
貴君らに続いて振武台へも是非
お送りしたく努力します。
御大事に
********************

最初のKさんは、この後も軍関連学校への受験があり相当忙しい様子である。
以前投稿した別の同級生の情報では陸・海とも5月下旬以降の学科試験とあったが、ここのは(4月)5日、7日とあり、多分身体検査なのではないかと思う。

Tさんのは絵はがきで、片面の下半分に小さな字で書かれており、クセ字であることも手伝って非常に読み辛かったが、他の同級生の情報など確認しながら何とか読み切れた。

「甲飛」とは「海軍飛行予科練習生」いわゆる「予科練」の生徒種別で、中学4年程度の学力のある者が受験したものを云う。因みに、高等小学校卒業程度の学力のある者のなかから特に優秀と認められた者を選抜したものは乙種,下士官のなかから選抜したものを丙種と云い、甲・乙・丙の三種あった。

同級生の2名が予科練へ出発とあるが、この頃から予科練では航空機搭乗員を大量に育成するのだが、終戦近くには「特攻隊員」の養成も行っている。
三郎の同級生が終戦まで生き延びられたか否かは不明である。

 

昭和19年4月23日 三次中学同級生MOさんからの手紙 大竹海兵団

 

今回は三次中学同級生のMOさんからの手紙。

MOさんは三郎の幼馴染で、前回投稿のYさん同様仲の良い友人である。

 

昭和19年4月23日 幼馴染のMOさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

*************************
拝啓
梅花去り櫻花咲き乱れている今日、貴様
は猛勉強をしている事だろう。僕等も此の間
の十二日より十六日までの五日間、大竹海兵團でき
たえられたよ。その様子は早く言えばむちゃくち
ゃだよ。日に体操六回。これには小生も困ったよ。
又カッターは山中(ヤマチウ・サンチウ)どうもにがてだ。無理もないよ。
次に學校の事はそう変って居ないよ。昨日便所の
掃除をしたら、校長先生が非常にほめたよ。之
は五年生が大竹で習って来て自らやろうという事に
なったので、五年の鼻は非常に高いよ。又、北部大会が
五月九日頃ある事になっているが、今度は僕も
俵と二千米に出ようと思っているが、勝負は時
の運だし又、日も無し。課外が火水木金土とあり
日曜も學校だし非常にのびるよ。
まあこのくらいだ。
それから写真が出来たよ。まちどおしかったろうが
こらえてくれ。
          さようなら
              之を後にやぶれよ。
                はづかしいから。
*************************

まずは「大竹海兵団」をググってみた。

海兵団は、海軍兵として志願・徴兵された新兵・海軍特修兵たるべき下士官などが数か月間にわたり基礎教育・訓練を受けるため、鎮守府、警備府に設置されていた機関で、大東亜戦争開始以降人員受け入れ拡充のため各機関で分団等が増設された。
大竹海兵団も昭和15年に呉鎮守府の呉海兵団大竹分団として設置され翌16年に大竹海兵団として独立した。

今回のMOさんたちの場合は5日間の体験入団の様なものだったと思われるが、
「その様子は早く言えばむちゃくちゃだよ」
とある通り、現実的には陸海軍関係学校が進学先として大きな比率を占めていた当時、指導する側も体験する側もお互い真剣そのものだったであろう。

因みにこの大竹海兵団は終戦後海外からの引揚船の入港地となり、氷川丸はじめ多くの引揚船から40万人以上の在外の軍人や民間人が祖国日本への帰還を果たしたとのこと。

MOさんはスポーツマンだったようで、近く行われる予定の競技大会で二千メートル走に出場したい旨書かれているが、そういえば以前に投稿したMOさんの手紙の中に三郎から靴を貰った件が記されていたが、ひょっとすると陸上競技用の靴だったのかも知れない。

「又カッターは山中(ヤマチウ・サンチウ)どうもにがてだ」の”山中”の意味が不明である。三次中学の先生の名前だろうか…

先日の千代子の手紙にあった通り、MOさんの写真を同封したようだが残念ながらその写真は残っていない。
現代ではメディアの発達により写真に対する”有難み”が薄れてきているが、当時の様子を見ていると写真(特にポートレート)と云う媒体が、人々の心にいかに多くの安らぎや喜びをもたらしていたのかがよく判る…

 

昭和19年4月24日 三次中学同級生Mさんから葉書 陸士受験迫る

 

今回も三次中学同級生からの葉書である。

前学年(四年生)の時に受験した同級生の合格結果が新たに報されるなか、数週間後には今年度の陸士受験が始まると云った異常事態である。
受験生の心中や察して余りある…

昭和19年4月24日 三次中学同級生Mさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 【砂田(九州帝大付属工専)、斎藤(同じ)、広畠(東京電機校)
へ合格す。乱筆御免。祈大奮斗。】
三原君、永らく失礼した。俺も大元気で来るべ
き決戦(入試)に萬全を期している。先づ朗報
を知らせよう。吾々新五年生は、四月中旬大竹
海兵団に短期入団して帰校した。そして海兵団の
長所を採って自発的に三中改革を断行した。
即ち、先づ汚つた便所を徹底的に美化し、その美
化掃除、郷士報国隊による二列登校等
を始め、先日、校長閣下より賞詞を戴いた。
三次中学から陸士へ九十一名、海兵五十三名受験する。躰
に気を
**************************

最後が突然途切れた形になっているのは、この葉書が往復葉書で続き部分が復信部分に記されていたが、三郎が切り離して使用したためである。

受験に失敗して落ち込んでいる暇など一ミリも無い。
学校の授業時間ですら勤労作業に変更され、勉強する時間さえ奪われている中での受験である。
冒頭にも触れた様に、当時は学徒動員のため大学、大学予科、高等学校高等科、専門学校若しくは実業専門学校に於て六ヶ月の修業短縮が実施されており、軍関係学校に関しては十八~二十年度まで受験~入学時期が繰上げられている。
三郎たちの世代はこの影響をもろに受け、修業短縮だけでなくそれまでは年間四ケ月であった勤労動員が将にこの昭和十九年の三月から通年動員に変更されたことに伴い、三郎の同級生たちも呉の海軍工廠などへ長期間動員されている。

※詳細は以下文部科学省のHPにて参照頂きたい。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317693.htm

大竹海兵団の威力恐るべしである。
先日投稿したMOさんの手紙にもあったが、相当絞られ影響を受けたのであろう。
海兵団に比べ我が母校のたるんでいる部分が目について我慢できなかったようである。
まぁ、確かに便所は綺麗でなければいけないと思う…

 

昭和19年5月2日 三次中学同級生Yさんからの葉書 新計画とは…

 

今回は三次中学同級生のYさんからの葉書。

Yさんは3月までの進学受験の結果が芳しくなく、落胆の中で三郎との葉書のやり取りを行いながら、5月末に迫った陸軍予科士官学校受験に向けて頑張っている。

昭和19年5月2日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
三原君、其の後元気に
て日夜将校生徒とし
ての任務に邁進している
ことと思う。降って小生も恙なく、来るべき二十八日に向い
準備を進めている。安心して
呉れ。學校も新計晝の基に
着々とその歩を進められ、今では
清潔・整頓・規律ある日課が行
われている。今日はこれにて失礼。
体を大切に。
***********************

前(昭和18)年度に三郎が陸軍予科士官学校を受験したのが9月20日であったから、4ヶ月近く受験が早まっている。
受験する側にとっては日程が早まっただけでも大変なのに、その受験に必要な時間が戦争激化による学徒動員などに奪われてしまい満足に勉強すらできない。
受験生の焦りと不安は募りに募ったであろう…

葉書の中に「學校も新計晝の基に着々とその歩を進められ」とあるが、その「新計晝」とは当時の政府がいよいよ不利となった戦局挽回の為に非常措置として定めた「決戦非常措置要綱」の事と思われる。
具体的には
十九年二月
中等学校程度以上の学徒は「今後一年、常時之ヲ勤労其ノ他非常勤務ニ出動セシメ得ル組織体制ニ置キ必要ニ応ジ」動員することに決定した。
 同 三月
「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定し、動員の基準を明らかにした。この中において、
1)学徒の通年動員
2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置
3)教職員の率先指導と教職員による勤労管理
などが強調された。
文部省はこの決定に基づいて詳細な学校別動員基準を決定し、三月末指令した。
※文科省HP 「トップ > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行」より

軍関係学校受験生に対しては動員先で勉強や授業等の時間が配慮された等の情報が他の同級生からの便りにあるが、軍需工場での重労働の合間の勉強では体力的にも精神的にも非常に辛いものであったに違いない。

戦後世代が経験した「受験戦争」とは比較にもならない苛烈さであったが、その「受験戦争」すらドロップアウトした小生など情けない限りである。

 

昭和19年6月14日 三次中学同級生Yさんからの葉書 熊本薬専での勉学の楽しいことよ…

 

今回は熊本薬専に進学された三次中学同級生Yさんからの葉書。

戦況が悪化し同世代の多くが軍関係の学校を目指して進学する中、自信の進みたい道を選択したことで一時期は後ろめたさの様な感情に苛まれていたYさんであったが…

昭和19年6月14日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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御返事有難う。大変遅れて済まぬ。郷里から
の報に依れば、大部分の者が一次試験にパスしたそ
うだ。それから、四、五年生の者全部通年動員で
自 六月廿五日 至来年三月三十一日間、呉工廠に行くとの事だ。
お国の爲ならば何ともし難いが、海兵受験者腐って
いると。學校が近頃大変面白くてたまらない。
殊に数学(微分・積分)、ドイツ語、有機、無機等
もうなんでもバリバリだ。
僕らにはまだ勉強をして呉れとの事か。動員は未
ない。が、秀刊(?)には一週間(十八日)より行く。試験も伸びだ。
では何呉れと、身体に気を付けてやって呉れ。
************************

最後から二行目の「秀刊(?)」がよく解らない。多分間違っていると思うが適当な語彙が見つからなかった。

前回(2019.11.10)投稿したYさんの葉書では、陸軍予科士官学校に入学した三郎に対し「俺も陸士に憧れていた」と一緒にお国のために戦いたかった気持ちを吐露し、ある種の後ろめたさを感じていた様子であった。
しかし今回の葉書ではそれらの気持ちが吹っ切れた様子で「學校が近頃大変面白くてたまらない」と勉強できる喜びを記している。

三次中学在校中の同級生や下級生たちが呉海軍工廠へ通年動員されたことからも自身へもいつ動員命令が下るか判らない状況であるも、「やっぱり勉強は楽しい!!」と学生生活を謳歌している。

本来学生の本分は勉強である。
三郎も羨ましく思ったに違いないであろう…

 

昭和19年7月4日 父芳一から三郎への手紙 康男マルユ学生卒業 マルユ?…

 

今回は父芳一から三郎へ宛てた手紙。
相変らず芳一の文字は難読が多い。二三か所怪しい部分があったが大勢に影響はないのでご勘弁願う。

七月に入り時候も梅雨から夏へと変わり、時の流れは玉葱、夏豆、ジャガイモ、ナス、キュウリなどの作物だけでなく「戦局悪化」も実らせていた。

長男康男は四国の暁部隊へ転隊し新たな隊務に着いた。

昭和19年7月4日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年7月4日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年7月4日 芳一から三郎への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際お世話になった。

************************
雨のない梅雨と農家は雨を待って居たが最近雨も降り田植
も大体済み嬉しい事だ。何と云っても稲の植付けは一億国民
の生命線だから。其後元氣で実務勉励中との事
安心した。家にも変りない。敬さんも近頃よく肥って
毎日家の中でコソコソして居る。寝ても居られないらしい。
しかし今暫らくは静養して絶対安全迄は勤務させぬ
つもりだ。康男兄さんも六月三十日夕方帰宅。七月一日
正午頃お父さんと一緒に出三次。千田町の下宿を引拂って
四国地へ移った。六月三十日マルユ学生卒業。三島の部隊では
実習か部下教育か 兎に角一応学生と云う事を済めた
訳だ。住所はまだ連絡しないが
愛媛県宇摩郡三島町暁部隊陸軍少尉――――様
で多分届く筈だ。康男から書面が行くだろうから
それから通信してもよい。
敬に宛てたハガキ七月三日に着した。兄さんから返事する
だろう。四五日前に書留小包で注文の文房具用紙類
を送ったが届いたやら。届いたら「無事故到着」の旨ハガキ
で返事せよ。
先日■■君からハガキ来た。お前も四月以来外出なきか
来ぬ との事。時局緊迫のため外出がないのだろう とあった。
魷の焼いたのでも送りたいと思って居るがまだ準備が出来
ぬ。
待望の夏休みも一ヶ月の後になった。無事で帰省する
様に 待って居る。トランクが入用なら早く知らせよ。買って
■■君宅へ届けて置かぬと間に合わぬ様になるから。
藤川君 宍戸君等予科練の連中六月下旬に休暇
で帰省。上着白黒ズボンに帽子に白覆した凛々しい姿で
挨拶に来た。お前等と逢う事はもうあるまい。
八月から飛行機に乗るんだそうな。
康男兄さんにお嫁さんを貰ってやり度いと 三原校長や其他
の人が心配して居て下さる。上下町と甲山町と二人お父さんが見
に行った。上下の方はお断り 甲山の方 昨日見に行ったがそれも
ドウでもよい位だ。急ぐ事もないが なるべく内地に居る間
にと思って居る。年内は内地に居るらしいので。
お前が手伝って植えた玉葱は十貫程出来た。夏豆も四五瓩
出来た。休暇にたべさすよ。ジャガタラ薯も七八貫とれた。
目下キューリが毎朝四五本はトレルよ。ナスも大分大きく
なった。お母さんも元氣になり家の世話をして居る。芳子も毎日
通学して居る。時候に注意し寝冷えせぬ様にせよ。では又。
七月四日朝八時十分書き終る。
父より
三郎様
************************

康男が「マルユ学生卒業」とあるが、「マルユ」とは何か?
小生もこの手紙を読むまでは知らなかったのでググってみた。

康男が所属していた「暁部隊」とは大日本帝国陸軍に於ける船舶運用部隊で、兵員や物資の輸送を任務としており輸送艦の「ゆ」から「マルユ」と呼ばれていた様なのだが、当時米潜水艦による陸軍輸送船団の消耗が著しく潜航による輸送を画策していたことから正確には「潜航輸送艇」を「マルユ」と呼んでいたらしい。

詳細は以下サイト参照願う。
http://www.gearpress.jp/blog/?p=5986

予科練へ行った同級生達が一時帰省し挨拶に来た旨の件に
「お前等と逢う事はもうあるまい。」
とあるが、ひょっとすると芳一は彼らが「特攻隊員」として今生の別れに来たと感じていたのかも知れない…
ならば、康男が同様の境遇に居るかも知れない事も気付いていたのかも…

「嫁さがし」も複雑な心境だったであろう…

 

昭和19年7月22日 千代子から三郎へ 待ち焦がれる「夏休み」…今生の別れとならん事を…

 

今回は千代子が三郎に宛てた手紙。

目前に迫った三郎の夏休み帰省を心待ちにした内容である。

 

昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年7月22日 千代子から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。
************************
お葉書ありがとう。折角如何して
居るやらと案じて居りましたが
幸に変りなく毎日元気でやってゐま
す由大変うれしく思います。
家の方には別に変りはありません。
今年は大掃除が七月にありまし
て、十五日が検査日でありました。
十三日はお父様が休んで手伝って
下さいました。十四日は私が一人でやり
ましたが、何かと体を用心しますので
またしてもお父様の手をかります。
づっと母さんも元気になって大掃除
をしてもあまりつかれも出ません。
元の躰になったのでしょう。安心して下さい。
ほんとに月日の立つのは早いものですよ。
まだまだと思っていましたが、七月も二十二日
となりました。一ヶ月もせんうちに
帰省できますかね。
それから康男兄さんは又(十九日)広島
へ帰りました。二十日朝広島で集合
という命で十九日朝帰り終列車
で又広島へ帰りましたよ。
十月頃まで広島へ居るらしいよ。
くわしい事は私もよく存じませんがね。
夏休みに帰ったら面会できましょう。
又下宿の心配せんと前のは外の将校
がかりたそうな。二人居るとか、二十日もせん
のに又帰るとはどうも一寸先も知れ
ません。サイパン島のことを思えば
自分勝手など口に出来ませんね。
三郎様も一日(も)早く一人前になれる
日を楽しみに待っていますよ。
雨が降らんので畠の作物も弱って
居ります。国民学校の校庭は
ナス、サツマイモ、トマト、ナンキン、とても
たいした作物ですよ。
三郎さんも見たらびっくりしますよ。
同級生が居らんから一寸淋しいね。
今朝、管さんに会いました。倉野
さんのおばあさんですが、あの倉野
さんはお休みはないのでしょうね。
もしおあいしたら三次へことづけ
をいたしましょうかと申してみなさい。
敬兄さんの友 野面さんも十五日から
三日ほどあそんで帰られました。
芳子も元気で通学してゐます。
授業するのは一年生と二年生です。
三年生は十日市の飛行機会社
の部分品を作るのだそうです。
お互に負けない様に自分自分の
仕事に精出しましょうね。
三郎さんも暑さに負けん様に
気をつけて勉強、教練をやって
下さいね。板木のおばあさんも
楽しみに待って居られるよ。
三郎が帰ってくればくればとあれもこれも
と約束の用意はしてあります。
みんな待ってゐますからね。
ではこれから夕食の支度を致します。
四時になりますからね。呉ゝも用心してね。
元気を出して勉強するのですよ。
サヨウナラ
母より
************************

三郎の夏季帰省まで一ヶ月足らずとなり息子の帰宅を待ちわびる内容となっている。

大掃除の事、自身の体調の事、芳子や板木のおばあちゃんの事など色々と書いているが、やはり気掛かりは軍人となった康男と三郎の事であろう。
特に康男は出征が近づいており母千代子の心中は察して余りある。

その康男に関する件に
「サイパン島のことを思えば自分勝手など口に出来ませんね」
と記しているが、この一文でここ何度かの投稿に「今生の別れ」的な表現や印象が多く感じられたことに得心した。
サイパン島では直前の6月15日から日米の激しい戦闘があり7月9日の日本軍玉砕によって米軍の占領下となった。
サイパンからは日本本土全域への空襲爆撃が可能となることからこの敗戦は単なる敗戦にとどまらず、日本側から見れば「絶対国防圏」を破られた形となり、結果的に大東亜戦争での敗戦を決定づけた非常に重い敗戦であったと言える。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

千代子を含め一般庶民がどこまで「サイパンの戦い」について知っていたか疑問ではあるが(おそらく「わが軍大苦戦も米軍を撃破し…」的な大本営発表を聞かされていたのではないかと思う…)軍人である康男や予科練のFUさん(3/12,4/8投稿)は戦局の悪化状況を実感していたと思われる。
康男が「二十日もせんのに又帰るとはどうも一寸先も知れません」と云う状況になったのも、前回の投稿でFUさんが「これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら」と記したのも、この「サイパンの戦い」と無関係ではないだろう…

 

昭和19年7月14日 三次中学親友Mさんからの葉書 海軍工廠の通年動員中に受験勉強

 

今回は三次中学同級生で呉海軍工廠へ通年動員で勤労中のMさんからの葉書。

葉書の消印(19.7.14と思われる)からするともう少し前に投稿すべきであったのだが、小生のミス(-_-;)で前後してしまった。

 

昭和19年7月14日 三次中学同級生Mさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

************************
拝啓 三原君
元氣旺盛にて軍務に精励してゐる
事と思う。自分も元氣でやっとるか
ら安心し給え。早く所を知らせ度
かったんだが今日迄延びてしまった。
許して呉れ。我々受験者は(海軍兵学校)
五日頃から当局の取りはからいで勉強
させて貰ってゐる。全員張切って猛勉
中だ。君は遊泳演習に行ったか。では又。
***********************

呉海軍工廠での通年動員勤労中のMさんであるが、以前(昨年12/29)の投稿でも言って居た通り直近に迫った海軍兵学校の受験に向け当局(海軍?)の計らいで受験勉強に精を出している。
これが海軍工廠でなく当時仲の悪かった陸軍関係の工場だったら受験勉強の時間を与えて貰えたかどうかチョット疑わしい…

差出しの住所は
「呉市阿賀町小倉寄宿舎第四寮三十五号室」
とある。
現在の阿賀公園の辺りであろうか。

明治時代に呉鎮守府が設置されて以来、呉は海軍と共に発展した場所である。
大きな艦船の造船に適した地形である事が大きな理由であったが、その逆に平坦地が少なく街の発展に伴い人口が増えるとその急峻な斜面に住宅が建てられるようになった。
その代表が「両城の階段住宅」であり小生も幼少の頃に住んだ場所である。

両城の階段住宅
https://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/e/5808a705647746a87d2b21919019089b

当時の写真もあったので序でに…

両城の階段にて 左端が小生 昭和36年頃か?

 

昭和19年7月30日 康男から三郎への葉書 「そろそろ御腰を 上げる時が近付いた模様だ」出征命令下る???

 

今回は長男康男が帰省間近の三郎に宛てた手紙。

自身の出征を匂わせる部分もあり、康男の身辺も急を告げてきた様である。

 

昭和19年7月30日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 酷暑の砌、相変らず精励の
事と思う。家の方も其後共々変り無し。
敬も別に心配する点も無し。芳子は
真黒になって作業に水泳に頑張っている。
兄さんも相変わらずだ。今月三十日は許可されて
帰宅。英気を養っている。
戦況急迫でどうなるか分らんが、来月十三日
頃帰宅出来ればと思っている。久方振り
に一家内揃いて話し度い。俺もそろそろ御腰(ミコシ)を
上げる時が近付いた模様だ。では元気で
待て。               早々
***********************

「許可されて帰宅」して認めているのだが、この戦局重大時に帰宅を許可されるのは恐らく出征が決定したのではないかと考えられる。
前回三郎に宛てた葉書から五日しか経っておらず「早く三郎と逢って話がしたい」と云う気持ちが伝わってくる。

当時(昭和19年5月頃)の写真があるので投稿しておく。

昭和19年5月19日 康男 四国金毘羅社にて①  右端が康男
昭和19年5月19日 康男 四国金毘羅社にて②

因みに①の裏書には

「昭和十九年五月十九日
㋴学生
暁南丸実習 多度津上陸の折
琴刀比羅宮参拝」
とあり康男が当時陸軍の秘密部隊であった輸送船団の将校であったことが判る。

昭和19年5月19日 康男 四国金毘羅社にて 裏書

恐らくこの輸送船団の作戦行動での出征が決まったのであろう。
軍人として鍛えられていたとは云え20代の青年である。
何度も言うが現代の我々には想像し難い精神状態であった筈である…