閑話休題 祖父 三原芳一

小生が小学生の頃、祖父芳一は毎週の様に我が家へやって来た。

一人娘の芳子が可哀想だったのだと思う。

小生が4歳の昭和38年、父が他界した。
母の芳子は再婚の話を断り、まだ幼かった姉と小生を一人で育てることを選んだ。
当時、女性一人で二人の子供を育てるのは並大抵の事ではなかったはずなのに…。

国鉄に勤めていた父の同僚の協力もあり、高度成長期が始まり工場や団地が密集し始めた広島市の郊外に「国鉄バス切符売り場」を開業した。

最初は三畳間位の掘っ建て小屋が仕事場だった。
朝のラッシュ前に出勤し、夕方のラッシュが終ったら帰宅と云う形であった。
まだ保育園へ通っていなかった小生も”お伴”していた。母一人での切符売りである。

数ヶ月後、交差点の斜向かいに国鉄から借りた土地に我が家が建った。
費用は芳一が出したらしい。
詳細を聞いたわけではないが、小学生の頃芳一の後妻(小生にとっては「おばあちゃん」であった)が我が家に来ていた時に、冗談半分で「ウチはおんぼろじゃけんのぉ~」と母に言ったところ、横で聞いていた彼女が「おじいさん(芳一)が建てて下さった家をそんな風に言う子は出て行きなさい!」とこっぴどく叱られたことがある。

昭和39年初夏頃か…国鉄バス駅舎兼住居の我が家横にて 噴水式のジュース自販機が懐かしい

小さな家であったが家族三人には十分な広さであった。
国鉄バスの切符だけでなく、パン、菓子、ジュース、アイス、新聞なども売る様になった。

芳一は週末になるとやってきて、お店の手伝いや庭に作った小さな畑の手入れなどに精を出していた。

母にとっては有難かったと思うが、姉と小生にとっては困ることがあった。

芳一は夜7時からのNHKニュースを必ず見るのである。つまり7時20分にならないとチャンネル権は得られないのだ。しかも土日。
何度か芳子に「改善」をお願いしたがだめだった。
深刻な状況であった。

昭和50年頃芳一と常子(後妻さん)

 

令和元年8月15日 74回目の終戦の日 

74回目の終戦の日

小生は「ヒロシマ」と云う環境で生まれ育ったこともあり、「戦争」には多少敏感であったのかも知れない。
と云うのは、幼いころから身近に戦争(多くは被爆)体験者がいらっしゃったことで、特に構えることもなく”体験談”を耳にすることができ、間違った歴史(自虐史観など)に惑わされることが少なかったと思うからである。

小学校1~2年生の時の担任は被爆された女性で、当時「まだ身体中にガラスの破片が残っている」と仰っていて、機会あるごとに原爆の惨状を幼かった小生たちに話して下さった。

遠足や社会科見学などで何度か「平和公園」に行ったが、「原爆資料館」を見学する度にクラス皆が神妙な面持ちになった記憶がある。

昭和42年 平和公園遠足 小学校2年生の時

先日当ブログにも投稿したが、中学~高校生の頃通っていた私塾の先生は、旧制一高~東大という超エリートコースを通った本当の「愛国者」であり、時には過激な表現をされることもあったが、今考えれば正しい史実を教えて下さったおかげで誤った歴史史観を待つことを免れることが出来たと大変感謝している。

「原爆の日」と「終戦の日」も夏休みの真っ只中ではあったが、どちらも「その時」にはテレビの前で正座して黙祷をする特別な日であった。

そして何より当ブログの主人公でもある母(芳子)、祖父(芳一)、伯父(三郎)の存在が大きかったであろう。
彼らは特に戦争や原爆について細かく話してくれた訳ではなかった(むしろその辺りは敢て話さないようにしていた感もある)が、終戦以前の「日本人の精神」を知らず知らずのうちに小生に植え付けてくれていた。

あれから40年以上が経過し昭和~平成を経て令和となった今年、還暦を迎えたのを機に祖父・母からの遺品を繙きながらこのブログを制作する中で、永らく忘れていた「日本人の精神」が蘇るとともに更に新しい気持も生まれてきた。

先の戦争に関しては賛否様々な意見があるが、どの様な意見であれ日本人ならば「戦争反対」は共通していると思う。あくまで「日本人ならば」…

ただ、一部で主張されている「日本人は好戦・侵略的で残虐」と云う意見は承服できない。
確かに日本人が戦時下に於いて残虐な行為を全くしなかったとは言い切れないが、そのような行為は他国と比べて少なかった可能性はあっても酷かったとは到底考えられないからである。
理論的な検証は他の多くの優れたサイトで説明されているのでここでは割愛するが、それらの検証とは別に「当時の一般人の生活」を手紙・葉書・他資料を読み解くことで「日本人は好戦・侵略的で残虐では無い」と云う事実を感じ取って頂く為に始めたのが当ブログである。

始めて間もないブログであり、まだまだ先は長いが
「沢山の方々に”日本人の精神”を感じ取って頂けるよう精進せよ!」
と云う母の家族たちの”檄”が聞えてくる今年のお盆である…

後列左から 長男(康男)、三男(三郎)、次男(敬)
前列左から 長女(芳子)、父(芳一)、母(千代子)

 

閑話休題 なんの因果か…

拙いブログを綴り始めて凡そ一年になる。

母とその家族の残した手紙や葉書を読み解きながら第二次世界大戦末期の我国と庶民の様子を少しでも追体験していただけたら…と考えて始めたのだが、なんの因果か現在世界はまさかの”新型コロナ世界大戦”の真っただ中にある。

昨年8月30日の投稿で「75年前の愛でられなかった桜」の話をしたのだが、

https://19441117.com/2019/08/30/

悲しい事に令和に改元されて最初の満開となる今年の桜たちも「愛でられなかった桜」となってしまっている。
まぁ、実際の所は当時も現在も”花見の宴会”が自粛されただけで、個人的に「愛でて」いる方々は結構いらっしゃる筈ではあるが、しかし、やはり、刹那に咲き誇る「桜」の下での宴は日本の心情でありそれを封印せざるを得ないのは本当に残念である。

オリンピックに関しても昭和19年(1944年)はロンドンオリンピックが中止されており、その4年前の昭和15年(1940年)の東京オリンピックも中止になっているのである。

https://19441117.com/%e4%b8%89%e7%94%b7%ef%bc%88%e4%b8%89%e9%83%8e%ef%bc%89/%e4%b8%89%e9%83%8e%e3%80%80%e6%8c%af%e6%ad%a6%e5%8f%b0%e6%97%a5%e8%a8%98%e3%80%80vol-4/

今回の「東京オリンピック」は中止ではなく延期であるが、それにしても異常事態である。

東京近郊ではそろそろ葉桜になり始めた「桜」であるが、この時期各地の「桜」の下で再会されているであろう英霊の方々も少々寂しい思いをされているのではないだろうか…

 

75回目の8月15日… そういえば康男伯父さんの誕生日は8月14日だったっけ…

 

75回目の8月15日である。
拙ブログの内容からしても特別な意味を持たざるを得ない「祈念日」なのであるが、既にSNS等では多くの方々が靖国をはじめとする8月15日を取り上げていらっしゃる。
ヘソマガリとしては「何か他の話題は無いかなぁ」と思案していたところ、長男の康男(小生にとっては伯父)の誕生日が大正10年8月14日とニアピンであることに”無理矢理”気付いた。

祖父芳一~母芳子~小生と引継いだ遺品の中に「三原康男出産祝物覚帖」なるものがある。
因みに康男以下敬、三郎、芳子と子供達の出産時のものは全てあるのだが、実際に内容を見るのは今回が初めてである。

 

康男出産祝物覚帖 表紙
康男出産祝物覚帖 内訳1
康男出産祝物覚帖 内訳2
康男出産祝物覚帖 内訳3
康男出産祝物覚帖 内訳4
康男出産祝物覚帖 内訳5
康男出産祝物覚帖 内訳6
康男出産祝物覚帖 内訳7
康男出産祝物覚帖 内訳8
康男出産祝物覚帖 内訳9
康男出産祝物覚帖 内訳10
康男出産祝物覚帖 内訳11
康男出産祝物覚帖 内訳12
康男出産祝物覚帖 内訳13
康男出産祝物覚帖 内訳14

どうやら生地・反物系の祝物が多い様であるが、よく知らない物ばかりであったのでググってみた。
・モスリン:木綿や羊毛などの梳毛糸を平織りにした薄地の織物の総称。
軽く暖かいので子供の着物によく使われていたらしい。
・友仙:友禅(仙)染のこと。
・縮:ちぢみ(縮)織物のこと。
・ネール:ネル(フランネル)のこと。

絣・紬などの他に、うどん・素麺・羊羹・饅十(頭)などの食べ物もあるが、その中で砂糖が多いのに驚いた。
当時はまだまだ貴重品だったようである。
下駄・雪駄・靴などもあり現代とはかなり様相が異なっていた事が判る。

芳一・千代子夫妻が待ちに待った長男の誕生を多くの人達が祝福してくれたのである。

子供の誕生は親、家族、親戚にとって大きな喜びであることは当時も今も変わらない。
親は子供の成長を望みその過程に一喜一憂するのであるが、「戦争」はあまりに大きな「一憂」であった…

大正10(1921)年8月14日 99年前のことである。

と云うことは? 康男伯父さんは白寿(99歳)か…

 

閑話休題 三月一日は芳一の命日 小生高校受験のまっただ中、突然の悲報に芳子は… vol.1

 

1975(昭和50)年3月1日朝7時過ぎだった。
高校受験の真っただ中だった小生は自由登校(??だったと思う)で二階の自室でのんびり眠っていた。

突然階下から悲鳴の様な母(芳子)の声が響いた。
「三次のおじいちゃんが死んじゃったんじゃと!!」
悲しさと驚愕と混乱の中から発せられたその芳子の狂気を帯びた叫びは小生を叩き起こすのに十分であった。

母は当初はオロオロしていたものの、少ししてから落着いたのかポツリポツリと話始めた。
「もう死んでしもうたんじゃけんね…。今日は月報(国鉄バス切符売り場の売上)を出さにゃあいけんけぇ、夕方からじゃないと三次に行けんね。あんた(小生)は学校へ行きんさい。」
小生が学校へ行く準備をしている間にも
「去年まで確定申告を全部おじいちゃんにやってもらいよったんじゃけど、いつまでも面倒かけちゃぁいけん思うて今年は自分でやったんよ… それがいけんかったんかねぇ… 安心しちゃったんかねぇ…」
と、誰に話すともなく独り言の様に呟いていた。
登校した小生は授業中も休み時間もずっと「ボーッ」としていた記憶がある。

国鉄バス切符売り場

夕方、店(国鉄バス切符売り場)を閉めて高校生だった姉を加えた三人はバスで広島駅へ。
広島駅で芸備線の三次行き急行(多分「ちどり」だったと思う…)に乗り芳一の亡骸の待つ三次へ向かった。

時間的に通勤時間にあたったのか列車は満員で指定席はおろか自由席にも座れずデッキ付近に三人は座り込んで広島駅を出発した。

しゃがみ込んで俯いている母は明らかに疲れていた。
実父の突然の悲報を受け悲しみに困惑しながら仕事をこなし今その亡骸の元へ向かっているのである。

1975年頃 晩年の芳一と小生
1975年頃 晩年の芳一と小生