昭和19年10月11日 三郎から父芳一への手紙 畏まった候文の巻き手紙…理由は?

 

今回は三郎が芳一に宛てた手紙であるが、畏まった候文で認められた毛筆の巻き手紙である。

また、前回投稿の手紙から一ヶ月以上経過しているが、内容からするとその間に芳一或いは千代子からの通信はあった様子なのだが小生の手元には存在していない。

 

昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙③
昭和19年10月11日 三郎から芳一への手紙④

解読結果は以下の通り。

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御尊書難有く拝誦仕り候
其の後御壮健に御暮しとの事大いに安心仕り候
又種々御懇篤なる御教訓我が肝に
銘じて夢中にても忘却仕り申さず候
扨て當方は二年生の卒業を寸前
にひかえ又私達の浅間山麓に於ける
野営演習も近付き稍多忙の感有之
教授部学科等もさきて環境整理
を実施し居り候 氣候も去る四日間
連続の大雨により一転致しめっきり秋の
深きを思わせる如く相成り申し候
来る十五日外出致す予定に候へども
母上様の御丹精の物未到着の事
と思い候も野営終了後廿九日に
再び外出致す所存に候へば其時
にても良く候
本日頃康男兄様の所属決定致
すとの事 色々と期待仕り候
板木の伯父様の一週(周)忌有りたとの事 私は
遥かこの振武の地にて禮拝致し置き候内
悪しからず御承被下度候
三井田村先生よりの御報せにては合格者
は数名有れど海兵と両校突破致したもの
殆どにて本校に来ると思はるゝは一名のみ
にて稍落膽仕り候 尚柳原君は
海兵も駄目らしく候
三次の祭も近付きた事に候 去年の秋
はと思い候もこの予科の如き幸福なる
所は他になきものと今更乍ら考え候
区隊長殿へも手紙を出されるも可く候
河村曹長殿は全快され候も今は私の
区隊付にては無之候ど御通信せられるも
悪しからず候
末筆乍ら母上様 敬兄様 芳子殿
によろしく御鶴声の程御願申し上候
時節柄御身御大切の程御祈り
申し上候
頓首
三郎
父上様
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内容の前に2~3難しい語彙があったのでググってみた。

・稍 :「やや」と読むらしい。
・鶴声:鶴が鳴くとその迫力で一瞬であたりが静まり返る事に因み権威ある人の言葉に例えた。
・頓首:頭を地面にすりつけるようにお辞儀すること。ぬかずくこと。中国の礼式に因む。

扨て、何故畏まった候文なのか?
はっきりした理由が判らないので想像してみた。

「種々御懇篤なる御教訓我が肝に銘じて夢中にても忘却仕り申さず候」とある。
おそらく父芳一からの手紙に「種々御懇篤なる御教訓」が書かれていたのであろう。
その有難い教えを戴いたことに対して感謝と敬意を示すための「畏まった候文」しかも「毛筆書きの巻き手紙」であったと思われる。

更には「本日頃康男兄様の所属決定致すとの事」ともあり、尊敬する兄康男の戦地へ出兵が決定する事への「祝意」と「武運長久祈念」を示したものでもあったかもしれない。

芳一が三郎に対して教訓を与えたのは、多分に康男の戦地出兵が決定する事が影響していたであろう。
いや、むしろ康男への教訓をそのまま三郎へも教えたのかも知れない。

小生など戦争を体験した事のない世代は「戦地へ赴く」を言う事実を軽く考えてしまいがちであるが、実際には本人は言うまでもなく家族・恋人・友人等の身近な人々にとっては「二度と逢えないかも知れない」という恐怖に押しつぶされんばかりの心境であった筈である。
芳一だけでなく「戦地へ赴く」身近な人を持った人々は「何とか生きて還って来て欲しい…」と教訓や祈りを必死で送ったのである。

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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