昭和19年11月23日 「新嘗祭」⇒「勤労感謝の日」なのに…午後四時から徹夜の教練…

 

今回の投稿は「新嘗祭」の祭日に書かれた手紙。

祭日ではあるのだが「午後四時から明朝迄徹夜の教練」とある。
戦況は悪化の一途を辿り国家の危機であることを考えれば当然なのだが、現代の「平和ボケ世代」からすればつくづく大変な時代であったと実感する小生である…

昭和19年11月23日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年11月23日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。

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拝啓 其の後お変りは有りませんか。私は至極元氣に毎日々々を
送って居りますから御安心下さい。本日は新嘗祭で中隊にて休養して居
りますから近況をお報せ致します。所で今日は午後四時から明朝迄徹夜
の教練があります。仲々行軍距離も長く激しい方です。試みに課目をお知ら
せ致しますと「夜間神速ナル機動ヲ以テ所望ノ地点ニ進出シ敵ヲ急襲スル
要領」と言うのです。だが浅間山の教練を思えば何でもありません。まだまだ
東京は暖かですから。何といっても浅間は(あの時は十月の半ばでした)氷がはる、霜柱
が一寸五分位もちあげる程です。そうして雨がよく降り又浅間が一大轟音と共に煙を
吹き上げそれが雨と一しょにびしょびしょと降って冷たいのに加えて気持の悪かった事は
筆紙に云いつくせません。ある晩などは浅間が眞赤な溶岩をふいて山の頂上を
ながれてゐるのを見ました。 仲々雄大です。そう云う経験がありますから大丈夫です。
ここで一大悲報をお傳えせねばならぬ私の心をお察し下さい。それは私達の
最も敬愛する前田区隊長殿が転出されました。入校以来十ケ月、私を
かくまで育てて下さった区隊長殿と別れるのは実に断腸の思(い)です。だがしかし
区隊長殿は近くの航空士に行かれるのですからせめての喜です。
昨夜はお別れの会を開いて皆泣きました。実に残念です。皆と「こんな良い区
隊長殿は他に居られない」と云って居ります。が大命です。止むを得ません。
次の区隊長殿は第十区隊の陸軍大尉岡田生駒区隊長殿が二ケ区隊を持たれる
事になり私達の新区隊長殿になられました。岡田区隊長殿は私達も同じ
中隊の区隊長殿として入校以来よく知っていますから安心です。
次に、この間行われた航空の適性検査について、この検査は航空の方の人が
来られて実に綿密に行われました。精神機能、内科、眼科、耳鼻科等々
各科に軍医殿が精密に検査されます。私は耳鼻科以外は全部甲(甲が
最上です)で喜んでゐたのですが、最後に耳鼻にて肥厚性鼻炎自覚症とい
うことになって乙になりました。中耳炎の方は全然異常なし、聞く方も人一倍
よく聞えました。私の鼻はなおさねば不可ませんか。効能百%で手数のいらぬ
薬があれば…。私の体はこれ程精密にやっていただいたのですから自信がつきま
した。又お父さんお母さんに感謝してゐます。それでまた兵種志望があるのですが、航空は何ともわか
りませんが私は船舶兵も好いと思ってゐます。志望通りに行くかどうか
あれでも航空兵になるかも知れません。
小包は異常なく当着。非常に嬉しくありました。康男兄さんの折襟の
服を着て屋上で寫ったのは何時頃ですか。仲々立ぱですね。私も早く
将校になりたいです。それから日本刀の件は身に余りますね。実(本?)当に早く見たい
ものです。それから、お隣りの森島の国民学校の四年生の陽子様より
慰問文を頂きました。お禮を云って下さい。
では益々寒くなりますからお躰を大切に。
この手紙は二十三日に大部分書いて二十五日に出します。
次の外出日は未だ不明。十二月の三日頃かとも思ってゐますが分かりま
せん。分かり次第直ちにお報せ致します。
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三郎の夏季休暇(8月10~22日頃)以降はそれまでに比べると小生の手元に残っている手紙・葉書が少なくなっている。
実際に少なかったのか或いは単に手元に残っているものが少ないのかは定かではないが、6月のサイパン陥落による絶対防空圏崩壊~本土空襲開始などによる戦況の悪化で国民生活への影響が大きくなったことも原因しているのであろう。
実際に三原家に於ても長男康男が激戦のフィリピン島へ出陣しており、父芳一以下家族の心労は大変なもので手紙どころではない部分もあったと想像される。(ただこれは三原家に限ったことではなく日本全体の多くの家族で勃発していた状況であるが…)

今回投稿の三郎が芳一に宛てた手紙も二十日ぶりのものである。
そのせいもあってか一枚の便箋の表裏に”びっしり”と書き込んだ感がある。
内容も徹夜教練の話に始まり前田区隊長転出~航空適性検査~届いた小包の事等色々と書かれている。
特に航空適性検査の件では花形である航空兵になりたい気持ちと、より危険度が髙い(と思っていたであろう)航空兵に敢てなるよりは船舶兵でも…と云った気持ちとが相半ばする心情が表れている。

現代の我々からすれば「できるだけ安全な部署へ…」と考えるのがまっとうだと思うが、当時(特に軍人)は「国家、家族、子孫そして何よりも自信の名誉を守護る」と考えるのが当然であった。
その精神発露の最たるものが「神風特別攻撃隊」いわゆる「特攻隊」であろう。
小生は「自らの命を国家、家族、子孫そして何よりも自信の名誉を守護る爲に捧げた」特攻隊員は間違いなく「英雄」と考えるが、一部からは「犬死」「無駄死」等の中傷もあるが日本人として許されない暴言である。

ただその「暴言」も「英雄」に先立たれた御母堂様だけには許されるのかなぁ…と考えてしまう小生である…

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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