昭和19年4月2日 三次中学の同級生 Tさんからの手紙

前回に続き、同級生から三郎への手紙。

今回はTさんの手紙から。

字はお世辞にも達筆とは言えないが、文体は何となく古めかしくて重厚な感じである。
ただ中身は友人を”あだ名”で呼んだりと親近感もある。

昭和19年4月1日 Tさんからの手紙①
昭和19年4月1日 Tさんからの手紙②
昭和19年4月1日 Tさんからの手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■■■はTさん。

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櫻も春を告げ人々の体も生々しく江川の水も温んで
参りました。先日は寸暇も無き死闘の續きにも不枸業以
不肖の爲、書を下されるは不肖と致し衷心より感謝に耐え
ず四年間剣道部で練磨する事が出来た事を非常な
光栄と思って居る次第である。
小生承知の事く岡山医専と縣師を受けたのであるが、
勿論医専は十三人に一人高率にて不肖の実力として
は滑る可きであって名誉の敗惨者と成った。実に
残念だ。縣師は八人に一人の率で此れは一次は合格、二次で
肺の影有る由にて醫者より落の命を受けり。
縣師が駄目故、他は押して知る可しだ。
来年は屹度目的を達する心算だ。即ち目指すは岡山医専である。
陸士に貴殿に誓って居たが、医者が不適と言うので詮方
無く思い切るより仕方無し。許して呉れ給え。
もう速くに知って居らるる事と思うが、念の為第四学年の
高等専門入学者の盛況を左に示さん。
広島高工機械科(八木君) 濱松高工(田原一俵)
岡山医大付属医専(広澤孝一郎)
山梨高工(山田豊)
熊本薬専(山縣正道)
宇部商工(上川)
徳島高工(秋本)
平壌師範(宗川)
広島師範(桑田、三宅、森原)
京城師範(森原)
水原高農農科(作田ちゃぷ)
大阪歯科医専(斉木の康)
以上で勿論明せるもの已(ノミ)にて未だ全部は解せざ
る故、後一ヶ月後はまだまだ益す見込みである。
五年は官立には土井が松江高校に入った已であって
実に悲惨なる状況であって可愛そうである。
学校の状態は問題点は余り無いが、中川先生が兵隊と成ら
れ、新任が後日来られる筈だ。今年の志願者は二百九十名
合格者百八十名也。
今日はしとしとと静かに雨が降って居る。昨日
非常に良い快晴天であったので、非常に鬱とうしい感じが
する。尾関山も煙って見える。陸士海兵志願は全校
総決起と言っても過言で無い。山崎暗才まで受けるから
呆れる許りだ。小生も今日から死物狂いで頑張るぞ。
貴殿は良く其の責務の重大なる事を考え、特に身を大切
にして猛進されん事を望む。今日は手が振って乱筆です。
許して呉れ。では又度々通信する。
三原君           三巴の水辺にて
■■■■より
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先日のSさんの手紙同様に、自身と同級生達の進学状況報告がメインとなっている。
残念ながらTさんは5年生への進級となってしまった様で、文面からも落胆の様子が覗える。

進学先の学校名を見ると
・平壌師範
・京城師範
・水原高農農科
等、現在の韓国や北朝鮮の地名が出てくる。
長男の康男も入隊後半年間くらい中国大陸の部隊で訓練をしており、当時は日本の統治・占領下にあった訳だから当たり前のことなのだが、昨今は様々な確執の影響で「お隣だけど遠い国」のイメージがあり、「同じ国」であったことに違和感を覚えてしまう。

三郎の同級生も何人かは半島へ進学したようであるが、翌年の終戦後は(内地とは違った意味で)さぞかしご苦労をされたのではないかと思う。

文末に「三巴の水辺にて」とあるが、
三次は「江の川」の本流に「西城川」「馬洗川」が合流する地点で、その有様を「三巴の水辺」と表現している。

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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