昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙 四方山話、難読文字満載…(;´д`)

 

今回は以前(2020/1/19)に投稿した三郎から母千代子への手紙に対する父芳一からの返信。

三郎が家を離れて約4ヶ月が過ぎ、逢えないもどかしさを詰め込んだような「四方山話」と前回の手紙での三郎からの要望事項への回答が満載された内容となっている。

昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙①
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙②
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙③
昭和19年6月20日 芳一から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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昭和十九年六月二十日
先日の母への手紙慥かに到着。其後無事勉強して居るそうで
父母共安心。何と云っても健康第一なり。自己の衛生に留意して病気せぬ
事何より大切なり。健康なれば勉強も出来る。「健全なる精神は健全
なる体に宿る」 どうか体を大切にせよ。敬兄さんの様になっては一大挫
折する。 康男は矢張り宇品に居る。広島市千田町二丁目 栃木
吾一様方 として通信せよ。然しもう長くは居ないかも知れん。
六月一杯位で四国地に転ずるらしいがはっきりしない。
年内は内地に居るかも知れんと云うので、嫁さんを貰ってやり度
いと思って三原一之先生に心配して貰って居る。上下町へお父さん
と三原先生と十八日に見に行ったが好ましくないので断るつもり。
甲山町によいのがあるので今調査中だがそれも調べて見
なければわからん。まあ縁があれば話するかも知れんがまだどうな
るやらわからん。その内に出て行ったらお仕舞いだから。
敬さんも二ヶ月の闘病生活で餘程肥えて体にも肉がついた。
朝夕メタボリンの注射をお父さんがしてやって居る。卵も毎日
三個以上、牛乳二合、魷や魚も多少づつ手に入れて食べさせ
て居る。何としても一年位では全快させ度いと努力して居る。
気分もよいし食慾も進むし、まあ気長に療養すれば大丈夫
よくなると思う。
康男も元気で船舶の勉強をして居るらしい。階級は学生だそ
うな。海軍機関学校を出た者と同様に取扱われる様になるの
かも知れんよ。
お母さんも病気全快。朝早くからバタバタと働いている。敬の
裏に続く
世話から芳子の世話、それに康男も時々帰って来るし、お母
さんも多忙だよ。それでも元気になったので喜んで居る。
沖の上隣りの久留島さんが六月尾道へ引越したので其後へ君
田の校長だった太田章さんが十日市の青年学校長になったので
転宅して来た。太田先生は親類になるので力強くなった。
沖にも弟子は官用に出し此常は仕事も休みだ。三宅にも
変りない。福原の静雄君、モーターで大辺詐欺を働らいて居るらし
いので一ヶ月位前から警察に拘留されている。どうでも刑務所
行きらしい。悪るい事をすれば必ずわかるものだ。気の毒でも
仕方がない。章君が先般一寸休暇で帰って泣いたそうな。
人間は悪るい事をするのが一番の不忠不孝だ。
二上にも寿治(カズハル)さんが三月やらに病死し近頃は商売も少なく
寂しい事だ。森保君や佐々木・大膳などにも別に変
りはない。国民学校には庭や家の前の道路辺りにカボチャを
植えられ随分大きくなって居る。校長先生 今朝も縄を引張
りつつ、千個位はならすつもりだ。そして先生と生徒と一人一個
位は食べたいと思って居ると話して居られた。
中学校にも此常殆んど毎日作業で麦刈り・田植の手伝に
行って居られる。十六日(空襲のあった朝)東城に出張すべく汽車
で行っていたら、福原先生やら眼鏡をかけた若い先生と老人
の先生と三人生徒と共に乗り込み塩町駅の次まで話して行った。
お前の写真(市中で写した物)をお目に掛けたら大辺喜んで居られ
た。時々は通信せよ。
芳子も作業に行っている。麦刈り・田植の手伝だ。お前の植えた
夏豆はもう殆ど実った。夏休みには煎って食べさせて
やるとお母さんが云って居るよ。一斗位あると思う。ジャガイモ
もよく出来た。もう少し食べた。来月初めに掘り取るよ。
キウリ・ナスなど植えている。よく出来るよ。
尾関山の広場も大潟海岸のシバ原は全部畑になって居る。
食料増産でみんな大量だ。
今月初め位、服部隊長殿より謄写刷りの長い通信をいただ
いた。それは家庭と学校との連絡とか、本人への激励とか
夏休みのある事(状勢の悪化せぬ限りとある)、学校では
何一つ不自由のない事など、コマゴマと書いてあった。
そして成績の悪るい者、即ち注意を要する事項は別紙で
指導してあるとあったが、お前の事は何も別紙が入って
居ないのみか、前田連隊長がその手紙の終りの方へ
「本人純真でよく勉強して居る。将来相当伸びると思うが
大いに激励してやってくれと」あった。そして手紙の礼も云って
あった。で早速、服部隊長へも前田大尉へも手紙を出して
置いた。その手紙に私物は送らんでもよい。書籍なども学校
にあるし、食べ物は勿論文具類なども送る必要はない様
に書いてあったが、雑記帳、西洋紙、朱肉、糊、手帳、スタンプ
インキ台など送ってもよいのか。もし禁じられて居るのに送っ
てお前の成績に関係する様な事があってはならぬ。前田
連隊長に伺って見て許されたら送った方がよくはないか。
秘くして使用する事は気もトガめるし、校規をミダす
事になるから、よく考えてもう一度様子せよ。書籍は送
ってやる。
裏に続く
板木の長山・池田・玉井にも皆元気で増産に励んで居られた。
此間一寸行った。目下田植最中と思う。
四月初めに福山に行き鞆へも一泊した。お前も休みには行って見よ。
昔が偲ばれるよ。
■■さんの所へ良く行くか。先日ウドンを六把送って置いた。
魷でも送ろうと思って居る。
行ったら、お父さん・お母さんから宜敷云って来ましたと申し伝えて
くれ。軍刀一振お前のものを■■さんの知り合いの河田と
云う人に頼んである。それは日本刀鍛錬会作品の新品で
軍隊に納める品だそうな。陸士出は優先的に買えるそうなのだが
仲々早く手に入らんとの事で頼んである。尤も前田大尉
殿から心配して貰えば案外便利かも知れんが。河内老人の
娘聟の山田英と云う刀剣研師が遊衹館の刀の手入れも
し、又日本刀鍛錬会に関係しているので伝手で一本心配して
やるとの事。但し値段は軍隊に納めると二百円位だが、四百円位
は出さなければ早く手に入らんとの事だ。どちらかと云えば将
校に頼んで軍隊の方から買った方が便利だが、家にあるのは
刀身はよいが少し短いのでお前には不足と思うので、二尺一寸
位の無庇のものを一振手に入れて置き度いと思って居る。
まあ焦る訳でもないが。
忙しくても時々通信せよ。ハガキでよい。先生や知人、朋友へも通信
を怠るなよ。そして真面目に上官の命をよく遵奉して
勉強せよ。お国の役に立つ人間となれよ。
では今日はこれで筆止め。無事を祈る。
六月二十日午後六時十分書き終る。
銀行にて
父より
三郎どのへ
************************

何度も云っているが、芳一の文字は非常に読み辛い。
ただ今回は葉書でなく手紙だったので文字が大きかった事がせめてもの救いであった。

慥かに(たしかに)、魷(イカ)などの現代では殆ど見なくなった漢字だけでなく
文字自体が読めず前後の脈絡などから想像して解読した部分が多数あったので多少正確性に欠けている事をご了承頂きたい。

まずは家族の近況の報告に始まり、ご近所の状況を世間話的にたっぷりと記している。
モーターの詐欺で刑務所に行ったご近所さんの話は小生も初めて知った。

「康男も元気で船舶の勉強をして居るらしい。階級は学生だそうな。海軍機関学校を出た者と同様に取扱われる様になるのかも知れんよ。」の件があるが、当時康男は「陸軍船舶司令部船舶練習部学生」であったらしい。
陸軍の”船舶司令部”とは何か変な感じであるが当時南洋方面等での激戦地域への兵站輸送を任務とし、その任務遂行に必要とされる将校の教育も行われておりその学生であった。
以前投稿した集合写真が当時のものである。

19年2月暁二九四〇部隊 前列一番左が康男

「陸軍機動輸送」の詳細については以下サイトをご覧頂きたい。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu39.htm

 

以前このブログで「夏豆」の事を「枝豆」と書いてしまったが、どうやら「そら豆」が正解だったらしい。
まあ、小生にしてみればどちらも大好物なのでどうでも良いが…

三郎の通信簿が陸軍予科士官学校から届いたようで、その内容が上々であったことで芳一の喜んでいる様がわかる。
ただ、私物の送付に関する件は多少「親バカ」じみていて恥ずかしい気もするが…

日本刀の話の部分も多少「親バカ」なのかも知れないが、当時軍刀は大日本帝国陸海軍の制服の一部であったものの階級に合った刀を自前調達する必要があったため、出来るだけ良い刀を手に入れようとあちこちの伝手を頼っていた様である。
因みに当時の軍刀は基本的に「日本刀」であったが、現代で云う美術・骨董的価値のある「日本刀」の他に軍に納めるために工業的に作刀された「工業刀」があった。
手紙の中に出てくる「日本刀鍛錬会」も「靖国刀」と呼ばれる日本刀を靖国神社の境内で作刀していたとのこと。
詳しくは以下参照下さりたい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%88%80

「銀行にて」???
私用の手紙を職場で書いちゃダメですよ~
おじいちゃんへ
愚孫より

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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