昭和19年7月18日 鹿児島海軍航空隊FUさんからの葉書 これが最後の通信かも知れない…

 

今回はつい一ヶ月程前にも投稿した三次中学同級生で甲種飛行予科練習生として鹿児島海軍航空隊に所属していたFUさんからの葉書。

 

 

昭和19年7月18日 鹿児島海軍航空隊FUさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

************************
拝啓 御手紙拝見。貴様も元氣との事、安心した。
俺も元氣だ。貴様等も通信をやっとる相ぢゃが通信上達法
の密(秘?)ケツを伝授しよう。先づ符号を誰ヨリも先に確実に覚えること。
そして常に人より先を行くことだ。不断の努力無くして勝利は望め
ないからの。俺は通信に於ては決して人には負けて居らんぞ。貴様も
大いに頑張れ。戦いは将に激烈だからの。前線の将兵は我等を
待って居るのだ。此の国難を開拓するのは我々だからの。
帰省の時、桑原が居なかったので全く面白くなかった。彼は山梨
の航空機関学校へ今年四月から行っとる。(住所は後記ノ通り)
エンヂン機は見なかった。あの日の飛行が最初にして最後だった
らしい(?)又級友諸君もそれぞれ所を得た所へ行って居る。山縣君は薬専
へ、三宅は師範へ、秋本は?、廣澤は忘れた(“ーー”)。帰って学校で一・二・三年生を
集めて一席話したがどうもはなはだ心ゾーが破裂せんばかりに高鳴った。
幸便に任せて五年生諸君が働いて居る所もお知らせしよう。
山梨縣中巨摩郡玉幡村玉川 込山良作方 桑原義憲
廣島縣呉市阿賀寄宿舎第三寮三十七室 五年生一同
なお、これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら
************************

「通信」とは暗号も含めた無線通信の事であるが、戦争の拡大により通信要員の需要が増大し陸海軍共に軍部内での要員育成を行っていた様である。

「エンヂン機は見なかった。あの日の飛行が最初にして最後だったらしい(?)」の件は前回投稿した葉書への三郎からの返信に対してのやり取りらしく内容が不明である。
「エンヂン機」とは戦争末期に帝国海軍が開発していた「ジェットエンジン機」のことではないか?と思ったのだが、ググってみたところ国産初のジェット機の飛行は翌1945年8月7日の事でこの件にはあたらない様である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%8A%B1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

「なお、これが最後の通信かも知れないから返信無用。さようなら」
最後のこの一文が気になったのであろう。三郎が付けたと思われる赤い線が引かれている。
FUさんが故郷三次へ一時帰郷し三郎宅(三郎は不在であったが)を訪問した際の様子を見て父芳一が
「お前等と逢う事はもうあるまい。」
と三郎への手紙に記している。
これは芳一が「FU君は特攻隊に志願したのかも知れん」と思って書いたものだと思っていたが、豈図らんや本人自身が同様の事を書いている。
葉書の内容からはさほど悲壮感や惜別感は感じられないのであるが、やはり特攻隊員に志願されたのであろうか…

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA