昭和19年7月2日 三次中学同級生FUさんからの葉書 鹿児島海軍航空隊 いわゆる予科練…

 

今回の投稿は三次中学の同級生で「甲種飛行予科練習生」いわゆる「予科練」として鹿児島の海軍航空隊に入隊されていたFUさんからの葉書である。

先日一時帰郷した際の故郷三次や同級生達の様子を伝えている。

昭和19年7月2日 三次中学同級生FUさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 長らく御無沙汰したが貴様元気か。勿論元気
だろう。俺も元気か?元気だ。二十一日より帰省がかなって
本日帰隊した所だ。帰省中の感想をのべたい所だが紙が
ないので止めておく。兎に角三次は変っては居ない。まあ尾関
山や土手が畠になっている位のものだ。しかし君や桑原が居
ないので物足ない感じがした。つまり淋しかった。君の家には皆元気
だから御休神下され度候。二十六日は四年五年が挺身隊として
呉へ行った。非常な張切り方元気で出発した。俺達はそれを
見送りに帰ったような形になった。あいつらとは十分會い又遊
びもしながら心おきなく行ったと思う。二十七日は一寸学校へ行って
一席辨じたけれど元よりあまり口が達者でないので赤くなったり
青くなったり七面鳥が顔負しそうだ。然し皆感銘したようだった。
長い事便りをしなかったので気分を悪くしただろうが切角君から
もらった葉書を置き忘れていたのだ。許して呉れ。君の写真は君の
家へ行った時君のお母さんから一葉もらった。ではお体を大切に。
お互いに頑張ろう。
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当時の若者達の憧れでもあった「予科練」である。
戦況の悪化に伴う増員もあったとは言え頭脳だけでなく身体も優秀な人物しか入隊できない狭き門である。
当然FUさんも非常に優秀であり葉書の内容だけでなく達筆からもそのことが推し量られる。

葉書には赤鉛筆で米軍機らしき「空ノ毒蛇エアーコブラ(P-39か?)」とそれを撃墜せんとするゼロ戦とおぼしき「新鋭セントーキ」の戦闘シーンが描かれている。

「新鋭セントーキ」と「空ノ毒蛇エアーコブラ」

優秀であっても17~8才の青年である。
まだまだ子供の一面を持っているのだ。

「予科練」に関しては多くのサイトで当時の様子などの詳細が語られており、拙ブログでの解説は無用であるが、当時戦況の悪化は著しく、「予科練」は空だけでなく海でも特攻隊員の養成所の様相を呈していたようである。
以下サイトを参考頂きたい。

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2260

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2277

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2303

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2321

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2363

https://www.yokaren-heiwa.jp/blog/?p=2394

「特攻隊」に関しては現代に於いても賛否両論あるが、特攻に於て殉死された方々を「英霊」として崇めることは決して戦争を美化しているのではなく我国の国難に際して勇敢に戦って下さった方々への感謝と弔いの表現であると小生は思う。

FUさんが「特攻隊員」になられたか否かは定かではないが…

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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