昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙 物のない時代…

 

今回は病気で静養中の次兄敬から三郎に宛てた手紙。

以前の手紙では過激な言葉で三郎へ檄を飛ばしていたが、(病気で)家族に迷惑を掛けてしまったと云う負い目からか多少の自虐も含めた大人しい内容になっている。

昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙①
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙②
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙③
昭和19年7月4日 敬から三郎への手紙④

解読結果は以下の通り。

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どうだ、其の後手紙を見ると元気の様
だが、まあせいぜい張切って御奉公して
くれ。充分体に気を付けて兄さん見
たいに張切ったのは良かったが… 此んな
事になって終い仕事は出来ず皆には
心配掛けるし何も得はない。一番損だ。
呉々も気を付けてくれ。
今は大分良くなりどうにか起きて
居る。未だ外には出ないが家の中でごそごそ
している。安心してくれ。殆ど大丈夫と思う。
ぼつぼつ相當ごちゃごちゃしていた本箱
や色々の本の整理をしている。芳子も良
く手傳ってくれるのではかどる。
芳子のは敵は本能寺でノートの古いの
を出しては使ってない所を切っている。
今頃の子供は変ったよ。仕方はないと言
うものの新しいのを余り使わない。
そんなのを持っていると気が引けるのかも
知れぬ。今になって自分等のノートの
残りが役に立った様な訳。
きゅうりが沢山なるので毎日きゅうり計り。
小学校の壁際(家の前の道路の)にづうー
と南瓜を植たのがもう沢山実がなって
いる。早く家に手を付ければよかったのに
小学校に先手をとられて終った。
毎日大きくなるのを見ているだけ。
畠の南瓜も大きくなり道行く人が
皆立止まって見ている。御父さんが大き
な棚を作られたので。
“なす”も元気良く大きくなりつつある。
ぢゃがいもが十貫計りとれた。三貫計り
献納して七貫程ある。
豆も沢山とは言えぬ迄も畠に位べて良
く出来た。
今日板木の御祖母さんが来られた。
税務署に要件があるとかで
今晩は泊まられる。
今日は此の辺りで
元気で勉強せよ
 四日
        敬
三郎殿
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「敵は本能寺」…
物資が不足しノートや便箋も新品を持つことが憚られた時代。
我が母芳子は敬の本箱整理の手伝いをしながら、兄達が使ったノートの未使用ページや未だ使えそうな余白部分を切り取って「再」利用していた様である。

以前にも述べたと思うが、息子である小生から見て芳子は決して「ケチ」ではなかった。それどころか身の回りのモノ(食器類や衣類、電化製品等)に関してはこだわりがあれば結構値の張るモノでも購入していた。

しかしながら「あの時代」を経験した世代だからであろう…何時使うかわからない様な包装紙や紙袋、古着など「捨てられない」ひとでもあった。

鉛筆を小刀(肥後守と云う折畳み式のもの)で削るのがとても上手だった。
紙縒り(コヨリ)も細くてピシッとしたものを縒ることが出来た。

「お母ちゃんはねぇ、クラスで一番上手じゃったんよ」と自慢たらしく幼い小生に鉛筆を削ったり紙縒りを縒って見せてくれたものである。

日本中にモノが溢れ何でも手に入る便利な世の中にはなったが、小刀で鉛筆を削りピシッと紙縒りを縒れる人はどれくらいいるだろうか…

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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