昭和19年9月2日 三郎 夏季休暇から帰校して十日余り…もうホームシック?

 

二週間の夏季休暇を頂き故郷三次での「命の洗濯」から十日余り。

「将校生徒 三郎」がホームシック?

 

昭和19年9月2日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年9月2日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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前略 其後お変り有りませんか 大分家からの通信が
遠のいた様に感じますが と云ってもお別れしてから未だ十日余り
しか経って居らぬのですからね 敬兄さんは其後如何ですか
私が別れる時大分悪化された様でしたから何時も氣にかかっ
て居ります 二人しか居られぬ兄様ですからね
お母様は私が帰三した時も早や病氣前の如き躰になられ
て居られたのを見て非常に嬉しくありました
家は変って居ませんね
本日夜は(二日)中秋の名月で二ヶ中隊(私の中隊と前の中隊)
が合同して学校正門を入ると左手にあったでしょう 池が
その周りに坐って月を仰いで詩吟を吟じました 池の周りに
「かがり火」を燃いて月は眞円く何か物思わせるものが
ありました この手紙もこの詩吟会が終った直後に心に浮
ぶまゝを書いて居ります 本日は土曜日で随意自習ですから
それからこの手紙を書こうと思ったもう一つの因は本日より
馬術が始まりました 早速今日午後乗りました 私でも馬上の
勇姿颯爽たるものです 速足といってパカパカと普通に
歩くより速く人間で云う駈足をやりました の仲々尻の方が
落着きません
予科の地はもう朝晩涼しくなりました 武蔵野の秋
は早くあります 虫は今も盛に鳴いて居ります
中谷の写真は未だ出来ませんか 出来得れば我家(家・屋)の
写真・芳子・敬兄さん・康男兄さん・お父さん・お母さんの写真
(敬兄さんが写されたので良いですから)思い出の種となる様
なのをお願い致します 模型機のも良いです(写真帳ニアリ)
私が一人で(中学で)写った分は区隊長殿に一枚呈出しますからその積り
で送って下さい
十七日に第二期第一回の外出があります 相変らず■■様方
へ行く積りです 第二期は色々と行事があります
先づ二年生の卒業 一年生の入校 私達の野営演習
其の他 お正月もありますからね 今の所冬休暇は有りま
せんから では今日はこれまで
隙があったら御通信下さい
敬具

二伸
金は区隊長殿に三十五円預入 手許に二十円ばかりもってゐますが予備の爲■■様の方へお送り下さい
倉野さんにも会い色々話をしました 菅にも葉書を出すつもりです
それから家で作って持って来た糊は決して腐りませんからあの糊
の素があったら買っておいて下さい
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9月2日の時点で「お別れしてから未だ十日余りしか経って居らぬ」とあるので、三郎の夏季休暇はおそらく8/9~8/22頃だったと思われる。

この夏季休暇をどのように過ごしたのか、家族でどんな話をしたのか、楽しかったのか、切なくなかったのか…等々知りたい事は沢山あるのだが、当然の事ながらこの間は家族間の通信はなく想像するしかない。
戦況は激化・悪化の一途を辿り、次の家族全員での再会が果たしてあるのか…すら判らない状況下での一家団欒であり将に「一期一会」であったのである。
少なくとも小生などの戦後世代の過ごした「夏休み帰省」とは一線を画すものであったことは間違いない。

「思い出の種となる様な」家族や我家の写真を送ってもらうことになっていたらしくその催促をしている。
次兄敬の病状も気掛かりであっただろうし、中秋の名月の下で感傷的になっていたことも手伝ってか、さすがの「将校生徒」もホームシックに陥ったのであろう…

まだ十代の青年である。さもあらん…

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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