昭和19年5月21日 妹芳子からの手紙 「大東亜戦争の決戦下で…」

 

都合4回目の妹芳子の便りである。

これまで通り大した内容ではないのだが、「大東亜戦争の決戦下で」と云うフレーズには少々驚いた。
凡そ12歳の女の子が遣うような言葉でななく、小生の記憶の中の「母芳子」のイメージではなかったから…

昭和19年5月21日 芳子からの手紙①
昭和19年5月21日 芳子からの手紙②

解読結果は以下の通り。

*********************
兄様、長い間御無沙汰致しました。
ますますご健康でお務めの事と思
います。私も毎日元気よく
通學しております。
三次もだんだん夏らしくなり
四方の山の色緑濃く、太田川の
水も美しくなりました。
大東亜戦争の決戦下で尾関
山の下のぼたん畠も黒田製
材所の所の新道路も増産
の爲、皆畠となって
やさいが靑々とで
来ております。
それから久留島さん
が尾道の方へ転居
されて、その後へ君田の太
田校長先生が十日市の青年學
校長としてこられて家がないの
でお父さんが心配して上げてこら
れる事になりました。
尾関山のかいこんに女學校からも
国民學校からも出動して畠としました。
中學生も出動しています。
敬兄さんも元気です。熱も上がらず、顔色
も良く御飯も大分たべられますし、だ
んだん快方へ向かわれておられます。
これも皆お母さんお父さんのおかげで
す。いつも兄さんと歌を一しょに
歌った事を思い出し、今頃は一人でさび
しくうたっています。お母さんも時々
一しょに歌われます。それから、私が
毎晩兄ちゃんのきらいであった床をし
くので、お母さんが猫よりはまし
だと言って笑われます。お父さんも
お母さんも元気ですから安心し
てお務めにはげんで下さい。
家の事は心配なく。
さようなら
三郎兄様  夏休みを待つ   ヨシコ
*********************

母芳子は小生が知っている限り、どちらかと云えば大人しい性格で過激な発言などとは無縁であった。
加えて当ブログ開始以降「多分に天然」であったことも判明しつつあり、小生の性格も母親からの遺伝だったことが明確になって来た昨今である。

今回投稿の手紙にしても「何か読みづらいなぁ?」と思ったら、ご丁寧に便箋にあしらわれている花模様を避けて書いている。
この「気が利きすぎて間が抜けている」的な思考回路もしっかり引継いでしまったらしい…

そんな芳子が「大東亜戦争の決戦下」などと云う”過激な”言葉を遣っていたのには少々驚いた。
おそらく当時は新聞やラジオなどで頻繁に喧伝されていたフレーズであり、特に過激ではなく「普通の」言葉だったのであろうと思うが…

その「大東亜戦争」と云う呼称だが、小生以降の世代にはあまり馴染みのないものであり専ら「太平洋戦争」と云う呼称の方が主流であったと思う。

「大東亜戦争」とは、開戦直後の昭和16年12月12日の閣議に於て決定された呼称である。
なぜ戦後「太平洋戦争」と云う呼称が主流になったのかに関しては様々な理由や考え方があると思うが、「大東亜戦争」と云う呼称はアジアの安定を謳った「大東亜共栄圏構想」を想起させ「日本がアジア諸国の独立運動の原動力となった」と云う事実が明確になってしまうため、これを隠蔽すべく連合国側が敢て「太平洋戦争」と云う呼称を主流にさせたのではないかと小生は考えている。

芳子の歌好きは以前の投稿でも書いたが、三郎も一緒に歌っていたのは初耳である。
小生にとっては「かなり怖い伯父さん」だったのだが…

「夏休みを待つ ヨシコ」とある。
8月生まれの芳子にとって誕生日もあり兄も帰省してくる夏休みはとても待ち遠しかったのであろう。

追伸
あの世の母上へ
×建康 → 〇健康
です。
愚息より

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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