昭和19年6月26日 康男から三郎への葉書 「戦局正に重大」 康男の出陣近し…か?

 

今回は長男康男から三郎への葉書。

以前の手紙の内容などからも三郎が康男の動向を気にしていた様子が伺えていたが、ついに動きがあるようである。

 

昭和19年6月26日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 暦では入梅后幾日、文字通りの
空梅雨で毎日暑さが続く。御前達の訓練も
愈々本格的になって、毎日相当疲れる事と思う。
其後体の調子は如何。何といっても躰が第一、
気候に負けるな。今こそ一番緊張すべき時だ。
休暇でも頂ければ早く御前の立派な姿が見たいものだ。
兄さんもどうやら今月限りで広島に別れを告げる。
来月早々愛媛県宇摩郡三島町暁二九四〇部隊矢野
部隊の方に宿先変更の予定。移ったら早速
様子する。戦局正に重大、自重百変せよ。   敬具
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陸軍予科士官学校入校後数ヶ月の三郎が正確な戦況を知らされていたか甚だ疑問であるが、陸軍船舶司令部船舶練習部学生であった康男はかなり詳しく戦況を知らされていたのではないかと思われる。

康男の所属していた陸軍船舶司令部とは陸軍に於ける船舶での輸送や上陸を専門とした部隊であったが、戦局の悪化(と言うよりも「敗色濃厚」と言った方が正確か…)したこの当時には水上特別攻撃艇(通称:マルレ)に乗って爆雷とともに敵艦に突撃すると云う特攻部隊も存在しており、作戦遂行にあたっては戦局に関してもある程度正確な情報が知らされていたと思われる。
詳しくは以下サイトをご参考願いたい。
http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/heiwa/heiwa009/four%20sets%20of%20bitter%20fighting%20attacks%20boat.html

その康男が近く愛媛県宇摩郡三島町へ異動するとある。
削除線で消されてはいるが「(船舶司令部)暁二九四〇部隊矢野部隊」のある場所であり、おそらく戦地へ向けての出発が近いと云うことであろう。

戦時下に於て軍隊に入り出兵命令が出るまでの間は「ガンで余命宣告された」ような気持ちなのではないか…と以前の投稿でも書いたが、葉書の中の
「早く御前の立派な姿が見たいものだ」
「今月限りで広島に別れを告げる」
と云った言葉に、いよいよその「余命の最後」が近づいて来た事への覚悟が見て取れるようである…

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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