1944に遭遇してしまった母の家族

小生、昭和34年生まれの59歳。今年還暦を迎える。
”昭和・平成”をそれぞれ30年づつ生きて来た節目の年に”令和”に改元とか何か不思議な巡り合わせを感じる。因みに今度即位される皇太子殿下は同学年(無論面識などないが)であり、子供の頃から入学・卒業が同時期だったので一方的に親近感を持っており一層お目出度い気分だ。

そういった”お年頃”なのでそろそろ終活でも始めるべきと考え、先ずは手始めに長年ホッタラカシになっていた祖父から母を経由して引継いできた遺品の整理を開始したのだが、その中に戦前~終戦後の母の家族(父、母、長男、次男、三男、長女の6人)を取巻く手紙・葉書・写真や書類諸々が積年のホコリとともに出て来た。

チョコッと眺めてみたが昔の人は達筆?なので全く内容が理解できなかったのだが、このまま捨ててしまうのも御先祖様(6人の家族全員既に他界している)に申し訳ないので、ここは一念発起し”解読してやろうじゃねーか‼(腕まくりまくり)”となったのだが…。

実際に”解読作業”を始めてみるとこれが想像以上に難敵であった。大半が戦前のモノなので文語体や旧仮名遣いに旧字体のオンパレード。これが人によっては素晴らしく達筆?なのだからたまらない。最初は1枚の葉書を”解読”するのに一晩かかった。だが不思議と嫌気はささず幾つかの手紙や葉書を読み解いてゆくうちになんかハマってしまった。少しだけ”シャンポリオンの苦心”体験が出来たかも(藁)

象形文字の様な筆跡をネットを駆使して調べることで旧字体や旧仮名遣いなどのちょっとしたトリビアを知る事も愉しく飽きない理由の一つではあるが、当時の一般人(母の家族やその知人)がどの様な事を考えどの様な気持ちで生きていたのか、その生の言葉を感じられる事がとても嬉しい。当時母の家族6人全員が今の小生より若かった訳であり、特に国民学校から女学校へ進学する時期の母の手紙を読んでいると異空間に迷込んだ様な不思議な感覚になる。

小生含め戦後(特に昭和30年代以降)生まれの人々は先の大戦の歴史を結果ありきで考えがちだが、学校などで学んだ歴史だけでなく(勿論これも重要だが)当時の一般人の生の状況を感じそれを追体験することが大切だと感じる。振り返って現在(特に周辺諸国との間に)歴史を発端とする様々な問題が勃発しているが、これらに我が国として正しく対応していくために嘘の歴史に惑わされることなく確固たる歴史認識を持つ上でもこの”追体験”が非常に重要だと思う。

と云った気持ちから今回このブログを開設した。特に若い人にいろんな事を感じ取ってもらいたいが、小生と同年代の方や実際に先の大戦時代を生き抜いて来られた大先輩の方々からもご意見頂ければ幸いである。また、小生は特に右寄りな考えを持っている訳ではないが、先の大戦で命を懸けて戦って下さった先人を蔑ろにする風潮には正直腹が立つ。そもそも大半の一般人は戦争など望んでいなかったと思っている。そう云った意味でも右だろうが左だろうが、或いは日本人であろうが(日本語が読めるなら)外国人であろうが、読んで頂きたい。

次回以降少しづつではあるが、手紙・葉書を読んだ結果等を投稿してゆくので乞うご期待。

昭和19年2月28日 三男(三郎)陸豫士官学校入学 父(芳一)からの葉書

昭和十九年四月九日 三郎十八歳 陸軍予科士官学校にて

今回は陸軍予科士官学校(振武台)に合格し入校した三男(三郎)に父(芳一)が送った葉書。

長男(康男)の手紙・葉書で大分続き文字に慣れたつもりの小生であったがこの芳一(小生にとってはじいちゃんなのだが)の文字はしんどい。とりあえず”解読結果”は以下の通り。
注)■■様は東京在住の芳一の知己。長男(康男)に続き三郎もお世話になっている。

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多分大丈夫とは思い乍らも不安の裡に二十七日学校
に行き、即日帰郷。或は区隊変更等の事あるを聞き、生徒
隊長殿の御挨拶を承って一先安心した。そして正服姿のお前
を見て嬉しく思った。此上は諸先生殿の御命令を尊奉して
一意勉学に精進し、三中代表者として恥ぢざる将校生徒
たるに専念せよ。それには食事と運動に留意して身体
の健康増進が第一である事を常に念頭に置けよ。お父さんは
二十七日午後九時三十分発急行にて福塩線経由二十八日午後六時に無事
帰宅したから安心せよ。■■様へ礼状を差出して置けよ。
挨拶状は書いて送ってやるから、そちらから発送せよ。詳細は又
手紙で通達する。同僚と仲良くし皆の世話をする事を忘る
なよ。先輩加藤美明君に従えよ。父母はお前の健生を祈る。
では帰郷通達まで。当方は一同無事。母も元気になった。恙し
****************************

難読文字のオンパレード。何なんだこれ?って感じである。受取った側は本当に読めていたのだろうか…。
即日帰郷、生徒隊長殿、聞き、午後九時三十分発急行、福塩線、等々判読できたのが不思議なくらいの象形具合である。加えて文字が小さいのが難易度を増している。最後の”恙し”も暫く解らなかった。
内容は、多分この一週間くらい前に三郎に付添って入校手続きに上京(埼玉であるが…)したはずなのだが、何かの心配事(学校側から何か問題があって区隊変更するかもしれない旨の連絡があった?)があり、三郎には黙って再度学校へ行っている。何が問題だったのかは不明だが、生徒隊長と話をして一安心したと書いている。当時、広島それも結構山奥の三次からの上京は時間も費用も相当かかったと思う。さらに戦況の悪化に伴い列車の便も少なくなっていた様だから余計であっただろう。短期間に二度の上京しかも2度目は”とんぼ返り”と来れば疲れない理由がない。
小生が思うに、芳一の心配もさることながら恐らく母親(千代子)が”行ってきなさい!”と芳一の尻を叩いたのではなかろうかと…。母は強しなのである。

昭和19年3月3日 池田久代伯母さんから三郎への葉書

今回は三男(三郎)の父方の伯母さんからの手紙。
小生もあまり詳しくは知らないのだが、父親の芳一は婿養子で旧姓は”池田”だったようで、この池田久代さんは芳一の姉(妹かもしれない)である。
鉛筆で書かれているので少々読み辛いがそれ程難しい文言はなかった。
解読結果は以下の通り。

***********************
大変暖かくなり春を思わせるようになりましたね。
先日はお便りありがとうね。
お便りによれば三郎さんも元気で御勉学
の事大変喜んで居ます。
私達も父亡き後は元気で大増産に精出して
居ります。安心して下さいませ。
今まで眠っていた草木も今や元気で伸び
行かんとする時、よき時候です。この時にをい
て三郎さんもしっかと勉強して立派な皇国
男子となって下さい。私達も増産に励みま
す。では暮々も大身大切に御勉学のほどをお祈
り致しお別れ致します。
                   かしこ
***********************

女性であり当時としては当たり前だったであろう”かしこ”で結ばれている。現代ではあまり見られなくなった言葉である。
当時、女性は女性の、男性は男性の良さや役目がはっきりしていた様に思う。時代も移り変わり良くも悪くもそう云った状況は薄くなってきた。
男女平等が叫ばれて久しいが近年は”セクハラ”なるものまで喧伝される世の中。小生のような”昭和中世期生まれ”にとっては世知辛い。男尊女卑を肯定するつもりはサラサラないし、むしろ女性は敬うべきものと思っているが、ただ、世の中”生まれながらにしての平等”はそうあるべきと思うが、本人の努力具合や環境まで含めて”平等”にしてしまうとそれはもう”平等”ではない。
”差別・区別”の違いや”運・不運”を受け入れる(諦める)考え方もある程度は必要である。なんでもかんでも”差別”や”ハラスメント”にしてしまう考え方は恥ずかしい。況やそれらを他人を貶めたり自分だけ得をするための道具に利用するなど言語道断である。家庭であれ学校であれ”分別と恥を知り正直である人”を育てる教育が必要だ。それが道徳であり躾だと思う。
とは言うものの誰しも、こと家族、特に我が子の事となると冷静になれず、身勝手な立場に陥ることもしばしば。先の大戦下での生活はその最たる状況であったと思う。
しかし、そんな状況でも”あっ、これは恥ずかしいことなんだ。”を感じられる人になりたいものである。

昭和19年3月4日 母(千代子)から三郎への手紙

今回は初登場の母(千代子)から三郎への手紙である。
千代子は当然ながら小生の祖母にあたるのだが、小生が生まれる前に他界しており病弱であったことと癌で亡くなったこと位しか知らなかった。小生の母(芳子)も生前殆ど千代子に関する話はしなかった。父(芳一)が後妻(内縁)を貰ったこともあり、娘としては割切れない思いもあってあまり話したくなかったのかもしれない。因みに小生は幼少の頃その後妻さんを本当の祖母だと思っていた。当時子供心に”若いおばあちゃんだなぁ”と思っていたのも事実である。(笑)
しかし、今回手紙や葉書を読み解くことで千代子の生前の姿が少しづつ明瞭になって来た。

昭和19年3月4日 母からの手紙①
昭和19年3月4日 母からの手紙②
昭和19年3月4日 母からの手紙③
昭和19年3月4日 母からの手紙④

まずは”解読結果”を以下に記す。

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其後変りなく毎日元気で勉強して
居ることと喜んで居ります。
三郎殿が三次を立ってから早いもので
もう幾何日と過ぎました。
阿れからはお天気もよろしく毎日日中
は春ですが、矢張り朝夕は冷たい
です。父様から様々とあったでしょうが、
家には別に変りありません。
父様御帰宅になって学校の事や
お前のことを、くわしく聞て安心しました。
来る六日は目出度く入校式だそうですね。
早や、だいぶんなれて、日々が楽しくなった
でしょう。母さんも、お前が望み通り
になったのだから、つとめて忘れて、ただただ
よろこんで居ります。一時はお前の持
物やあれこれ見たりして淋しい気もした。
いつまでもめめしい思いはしない、病気
上りにさわりてはと思ってね。
お祖(母?)さんも三月一日に帰られてとうとう
三人になったよ。兄さんらも、様子せず
康男兄さんが四・五月まで広島に居るらしい
から、せめてもたすかりだ。芳子も元気で
夕食後はハーモニカを出してやって居るが、一人で
せいがないらしい。女学校へ入学出来る様に
此度は芳子の番だ。父様も元気で
朝夕手伝ってもらって居ます。私もぼつぼつ
食事などの支度をして居りますから、
近々内祝をして外出もせねばと元気を
出して居りますよ。どうか家の事は心配はいらぬ。
躰に気をつけて、良く軍人の心得を守り、
友人とは仲良くして、勉強せねばいけ
ませんよ。前日、父様のタヨリに 加藤様に
つづけ と書いてあったでしょうが、あれは横山様の
事なのですよ。中学校へも退学の手
続をされたから安心しなさい。
お前も多忙だから餞別先へ礼状はよこ
さなくてよろしい。父様がなさるからね。
板木の祖父母様へは時々便りせよ。
森保君も姿を見せんよ。まあ母さんが
外へ出んからね。見んのかも知らんがね。
まだ手がふるえて思うほど書れんから、
今夜はこれでさようならしましょう。
三郎よくねむれよ。早く目をさませ。
明ければ同じ太陽の下で。        母より
    三郎どのへ
************************

文字が大きいので、父(芳一)に比べれば読み易いが、それでも独特のクセもあり苦戦した部分もあった。
1枚目4行目の”幾何日”も良く解らなかった。正解かどうか多少不安ではある…。
1枚目5行目の”阿れから”は初めて見た。今は多分見ない使い方だと思う。
2枚目2行目の”楽しくなった”の”楽”はちょっと略し過ぎの様な気もする。

この当時既に癌が発症していたのかどうか分からないが、入院せず本人も”治る”と思っていた様であるから癌と認識はしていなかったのだろう。ただ、思う様に動けぬ自分に対する歯がゆさと、悪化する戦局の中で長男に続き三男も軍隊に取られてしまった母親の不安な気持と自責の念が感じ取れる。
”お前が望み通りになったのだから、つとめて忘れて、ただただよろこんで居ります。”のくだりは軍人になることを本当は喜んでいないと云うことであろう。
ただ、ちょっと気弱な感じだった前半に比べ、後半は方言も出て息子に要らぬ心配をさせたくないと云う”強き母親”の表情が表れている。
”三郎よくねむれよ。早く目をさませ。
明ければ同じ太陽の下で。”
最後の2行には母親の深い愛情が感じられる。
しかし戦争と云う狂気がその愛情を強くしているのは皮肉と言えば皮肉かも知れない…。 

昭和19年3月6日 三郎へ 三次中学校長からの手紙

三次中学校(昭和十三年十二月描写)

今回は三郎が在学していた三次中学校の校長先生からの激励の葉書である。
陸軍予科士官学校に入校し既に三次中学への退学届も提出されており、三郎からのお礼の手紙への返信と思われる。

昭和19年3月6日 三次中学校長からの葉書

現代では見慣れない文言があったり、文末の文字がちょっと不明瞭であったりで数ヶ所不明な部分があった。
解読結果は以下の通り。

*******************
拝復 御葉書有難く拝誦仕り
無事御入学聞に御目出度く有り
皇国の存亡振古未だ曽て今日の如く危急
なるはなき大難局に於て名誉ある皇国
軍人としての御修学飽くまで御自重
御奮励願上げ
三中必ず尊き歴史に背かざる向上期し
居り行つる後輩の爲めにも御精励願いて
御身体特に御大切の程祈り益
*******************

あまり聞きなれない文言は
・拝誦:謹んで読むこと。謙譲語?
・振古:大昔のこと
よく解らなかった文言は最後から2行目の”居り行つる”が自信がない。
この校長先生、どうも文末の文字が読み辛く”り、る、て”の判別が難しい。あと最後の”益”は当て字だと思う。サインの色紙ぐらいでしか眼にしないと思うが…。

教え子である生徒に対して”拝誦”とへりくだった言い方をしている。これが当時当たり前のこと(軍人>文民)だったのか、それとも”検閲”等に配慮しての事なのかは解らないが、不自然な感じがする部分である。

また、軍人でないのに”皇国の存亡振古未だ曽て今日の如く危急なるはなき大難局”と戦局が芳しくない表現をしており、一般庶民の間にもかなり危うい状況が広く認知されていた証拠であろう。この2年程前のミッドウェー海戦での敗北から形勢は逆転し、当時は”決戦準備”が検討されている状況であった。

当時、教え子が陸軍予科士官学校に入学することは(表向きは)教師としての栄誉だったのであろうが、”御自重”、”御身体特に御大切の程祈り”等、教え子たちを戦地に送らなければならない教育者の苦悩も感じられる文章である。

昭和19年3月9日 母(千代子)から三郎への葉書

昭和19年3月9日 千代子の手紙

5日程前に三郎に手紙を出している千代子だが、その直後に入れ替わりで三郎からの手紙が届いた様でそれに対しての返信らしい。
先日の手紙で大方の事は綴ってしまっているので、今回は目新しい部分は見当たらない。

解読結果は以下の通り。

**********************
第一信昨日受取りました。毎日元気で
勉強して居ます由、何より安心致しました。
家の方には別に変りはありません。父様もね
三月からは日曜日はありません。子供に負けぬ
様にと相変らず朝早くから手伝って下さいますよ。
芳子も良く勉強して居ります。二人の兄様も
次々と休みに帰って来ました。当分兄様らも
帰られんと申していました。三次はまだ雪が
降りますよ。命令を良く守りて、体に充分気を
つけて勉強して下さい。
  板木のお祖父母上様へ時々お便りをなさい。
  家の方は心配ありません。又様子(します。)
**********************

今回は文言・文字として読み辛い部分はなかった。

陸軍予科士官学校は通常の中学校や専門学校・高等学校に比べれば当然(規律や訓練が)厳しいであろうから、息子からの”元気な便り”は何よりも安心したことであろう。
”家の方には別に変りはありません。”と書いておきながら”父様もね 三月からは日曜日はありません。”とある。”とーちゃん働け!”ってことか(笑)
冗談はさておき、昭和19年は国民にとってかなり無理を強いられ始めた時期である。学校の夏休みが短縮され、しかも”休み”ではなく”勤労”の期間になっている。更には”通年動員”も始まり教育現場から労働現場に変っている。当然、一般企業でも休日返上で”大増産”を実施しており次男の敬も企業(広島にあった三菱工作機械と云う会社)で汗を流していた。この後敬は体調を崩し実家に戻って療養することになるのだが、元来病弱であった彼にはこの”休日返上の大増産”が祟ったらしい。

本ブログで感じて頂きたい大きな要素は、こう云った状況を”国家の横暴”とか”軍国主義(ファシズム)”と云う負の側面からだけでなく”なぜ大半の国民が義務として耐えていたのか?”を感じ取って欲しい部分である。
あれだけ戦争で辛い思いをしていながら、祖父(芳一)と母(芳子)から国家や政府を糾弾するような発言は聞いたことがない。おそらく内心色々な思いがあったのは間違いないが”分別と恥”を知っており何より”日本人のプライド”があったのだと小生は思う。

皆さんはどう思われるだろうか…。

昭和19年3月10日 父(芳一)から三郎への葉書

昭和19年3月10日 芳一から三郎への葉書

再び父(芳一)から三郎への葉書である。
またしても難読象形文字である。が、前回苦労した分多少楽だった。
解読結果は以下の通り。

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其後元気で勉励して居る事と思う。今日は陸軍記念日
だ。学校にも何か行事のあった事と思う。三十九年前の今日は奉天
陥落大勝記念日だ。今日今頃は大東亜圏は将に大決戦を決行せらるる
一寸前だ。皆張り切って此記念日を迎えた。六日の入学式の模様も
想像して居るが、壮大なものであったろう。校長閣下が変られて
一入皆緊張してるだろう。家にも皆元気だ。お母さんも元気に
なって朝早くから働いて居られる。お父さんも毎日忙しい事だ。日曜
も何もない。中学校も先日卒業式であったそうな。優等生も新聞に
出ていた。三中よりの陸士志望者は皆入校したか。広島実業の白根と云う
のが天龍隊に居るそうな。お前を知ってるとの事。念〇君にも逢った事と
思う。お父さんが逢わずに帰ったのは済まぬ事をした。
康男兄さん四日晩に帰宅六日朝早く帰隊した。五日に写真に写った(一人で)
出来たら送ってやる。敬さんも六日晩に帰宅七日晩に帰った。芳子も試験が
近づいたので頑張って居る。近所様、親類、友人、先生等へ時々ハガキ
で通信せよ。身体に気をつけて大いに伸びよ。横山先輩に負けるな。頑張れ。
************************

難読文字は
・奉天”陥落”
・念〇君:友人の名前。読めず。
他にも幾つかあったが文脈から判断出来た。

メールも無く電話も掛けられず手紙・葉書だけが唯一の通信手段であったのであるから当然と言えば当然のなのだが、10日程の間に父母併せて4通の手紙・葉書を出している。しかも芳一は半月前に広島から埼玉朝霞の学校まで2回往復した後にである。それ程心配で気に掛かっていたと云う事であろう。更にもう少し注意深くこの4通を読み解いてゆくと、母(千代子)が相当心配しており芳一の尻を叩いている様子が覗える。

例えば、最初の葉書で芳一が”加藤先輩”と書いていたが、その後の千代子の手紙で”あれは横山先輩”の事だと訂正しており、今回の葉書で芳一は”横山先輩に負けるな”と訂正再記載している。
もう一つ、半月前の2回目の学校訪問をした際芳一は三郎には会わずにとんぼ返りした事を、今回手紙の中で”済まぬ事をした”と謝罪しているが、これも千代子から”なぜ息子に会わずに帰って来たのか”と叱責されたためのものと思う。
小生の個人的な意見であるが、父母が息子・娘に対して注ぐ愛情の中では”母から息子へのもの”が一番濃いと思う。他のパターンに愛情がないというのではなく、ちょっと偏愛的といった方がいいのかもしれない。

冒頭3月10日が”陸軍記念日”である事を言っている。これより39年前(1905年)の3月10日、日露戦争に於ける奉天会戦に勝利した事に因むが、当時は殆どの国民が知っていた記念日だが、現代の我々はこの1年後に起こった”東京大空襲の日”として知っている。

因みに、小生が幼少の頃の三次の実家には東城鉦太郎画伯が日本海海戦直前の旗艦「三笠」艦橋の様子を描いた絵(真ん中に東郷平八郎の雄姿が描かれたやつです。当然レプリカですが…。)が誇らしげに飾ってあり、芳一から”じいちゃんは日露戦争に看護兵として従軍した”と聞かされていたのだが、今回気になって調べてみた所、芳一は明治29(1896)年生まれなので日露戦争当時は9歳となり従軍はあり得ないことが判明してしまった。(騙されたのである。)

他、ちょっと驚いた内容としては、”優等生も新聞に出ていた”の部分である。ローカル面であると思うが新聞に優等生が掲載されるとなると家族は鼻が高かったであろう。今ではちょっと出来ないだろうが…。

昭和19年3月11日 三次中学の同級生から三郎への手紙 vol.1

三郎が陸軍予科士官学校に入校して半月ほど経つ頃、入校直後に郷里の友人に送った手紙への返信が続々と到着している。

数が多いのと友人達の進学状況の報告等、内容的に重複する部分もあるので2~3通纏め数回に分けて投稿する。

今回は三次中学校時代の同級生、SさんとFさんからの手紙(2通)。

最初はSさんからのもの。

昭和19年3月11日 三次中学の同級生からの手紙(Sさん)

細かいが丁寧な文字なので読み易かったが、それでも数ヶ所迷った部分があった。
解読結果は以下の通り。

**************************
拝復 元気の由 何より嬉れしく思いました。
僕も相変らず元気で居る。少しは生活に馴れたか。
君達と別れてから早や二旬にもなるか。月日の経つのは早いもの。
其間ずい分変わった事もあった。
先づ三月六日の卒業式。午前十時始め。優等生は五人
                                                                            (中村、地川、藤井、
                                                                                             徳永、重信)
皆勤者十五名(?)善行者二名(尾茂、柏原)…最大の名誉なり。
兪々最上級生となった。天井が急に広くなった様な気がする。
而し一面何となく淋しい。三月十日陸軍記念日。六里の強行軍。
各学級競走だ。殆んど走り通しだった。僕は一年の三学級の
小隊長の補佐。全学年中第三位を獲た。一寸嬉れしかった。呵々。
十四日から暗渠排水に行く。三次は大変な風と霙、あられ、雪だ。
風紀生は目下十一学級の全生。なかなかやって居る。
悲しいかな四年生は高校全敗か。至極残念。だが来る十七、八日の専門
学校に必勝を期している。
君の母校の爲の御奮闘と御健康の程を御祈り致して乱筆
ながら筆を置く。後日又ゆっくりと。              不一
**************************

まず、”暗渠排水”である。字は読めたのだが意味を知らなかった。要は田畑の水捌けを良くする方法のことで、農業に従事されている方ならどなたでもご存知らしい。小生の無学が恥ずかしい。
この時期、戦局の悪化に伴い食料増産のために農地の開墾整備が全国各地で行われ、これに学生達が動員されていた。山間の盆地である三次近辺もあちこちで暗渠排水が施工されていた様子が覗える。
もう一つ”霙(みぞれ)”が読めなかった。三次は広島県の中でも雪の多い地域で小生が子供の頃も30~40センチ位の雪はちょくちょく積もっていたので、3月中旬ならまだまだ雪や霙は降っていただろう。
”不一”と云う結語も珍しいかも知れない。あれやこれやと色々書きたいことがあって全部は書ききれないという事であろう。
あと、”呵々:大声で笑うさま”も現代ではほぼ使うことはないと思う。

卒業式の事に触れているが”優等生”と”皆勤者”は解かるとして”善行者”とは?基準が知りたくちょっとググってみたが不明。御存知の方がいらっしゃったら御教示乞う。

陸軍記念日の六里(24キロ)の強行軍は大変であろう。小生の頃もマラソン大会等で10キロ程度の長距離走はあったが、その2.5倍はきつい。普段から訓練していて初めて歩ける(走れる)距離である。まあ、現代に比べれば普段の運動量も数倍だったと思うが…。

続いてFさんからのもの

昭和19年3月11日 三次中学の同級生からの手紙(Fさん)

こちらも丁寧な字で読み易く不明な部分はなかった。
解読結果は以下の通り。

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先づ貴方の入校を祝す。
其の后元気の由、何よりだ。小生も普通並にやっ
ている。今は五年も三月六日を以て業を卒へ四年の
天下となった。然し前者の轍を見て五年の如き無
暴悪辣なる態度はとらない積りだ。新五年生に
倣いて我が三中は必ず栄達の途を逆るであろう。殊
に貴方等の陸士合格は指揮を鼓舞する上に大
なる影響を及ぼすものと信ずる。小生高校突破
の野望を抱きしも、之前途を暗澹たらしむる一つにして
今後直ちに国家の要望する所に向って再起勉励する
覚悟だ。下らぬ事を述べたが今後も度々便りする。元気で。
**************************

旧教育制度では飛び級制度があり、旧制中学校では4年修了で旧制高校や専門学校へ進学するのが優秀とされ5年生に進級するのはあまり名誉なことではなかったらしい。
それと絡んでか、或いは単に学年間の仲が悪かっただけなのか、5年生のことをかなり悪く罵っている。しかし自身は高校入試に失敗したようで続いて実施される陸軍予科士官学校や海軍兵学校の入試へ励む旨書いている。よほど5年生にはなりたくないらしい。

中学4年生とは現在の15歳で(他の同級生達の)手紙の内容などからも高い教育を受けている事が判るのだが、意外と競争・成績の順位や受験の合否に関して無邪気に一喜一憂する感がある。これは旧制中学自体が既にエリートであるという自負に加え、戦争という重圧が”生存競争本能”を鋭くしていたのではないかと思う。
今回投稿の葉書の中でも”高校全敗”とか”専門は必ず”等の話題が出ており、この後投稿予定の他の同級生の葉書でもこの”生存競争本能”が噴出する。

小生の頃の”落ちこぼれても何とかなるさ”は存在せず、多少誇張して言えば”落ちこぼれ=死”を意味していたのかもしれない。

昭和19年3月11~15日 三次中学校の同級生から三郎への葉書・手紙 vol.2

 

三次中学校の同級生シリーズ第2弾。

3通とも各自及び学校の現況報告に終始している。
やはりこの時期は進学に関する話題が多く、関心が高い事が覗える。

最初は、Yさんからのもの。

昭和19年3月11日 Yさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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いよう。二ツM生は張切っているらしいな。
元気な言葉を眼の前にして安心致した。
君の、貴様。俺の言もお待ち兼ねのも
のだったぞ。僕は松江をアッサリ振られた。
然しセンチメンタルにはならないぞ。僕の最善を
盡した結果だから。
今度は必ず君に吉報を致すものと誓
う。返事が送(遅?)れて済まなかった。では、
***************************

”二ツM生”の意味が陸豫士生徒の別称なのか三郎のあだ名だったのかハッキリしないが、その後の内容からするとお互いを”貴様・二ツM”と呼び合っていたような感じであり、だとすればあだ名だったかも知れない。二人が仲良しだった証拠であろう。
他の同級生の葉書にもあった様に高校受験者は全滅だったらしく、彼も松江高校がダメだったと書いている。あっけらかんと書いているが内心穏やかではなかっただろう。後に続く試験に合格することを誓いながら短い内容で結んでいる事が悔しさを物語っている。

続いて、Mさんからのもの。

昭和19年3月13日 Mさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***************************
三原君、第一報有難く拝見した。俺も背水の陣
を布いて大いに頑張っている。級友諸君も同様頑
張っている。今年は軍部諸学校の入学試験が早くな
ったのだ。陸士は学科が先にあり、五月二十八日より始まる。
俺は両方受験する。そして必ず入る。軍部諸学校受験
者が実に多数いるぞ。十一学級だけでも十名いる。三年
は実に多い。海兵に五十名は充分いる。それに彼の山崎
暗才が海兵だ。喜べ斯かる状況だ。陸幼に二年の
数田が一名合格した。四年では全員髙校に対して玉
砕した。然し、髙工、師範等は大分合格するだろう。
本月十三日より一週間暗渠排水作業始る。三月より七月
までの四ケ月間軍需工場で連続作業。困ったよ。では又。
***************************

この方の文字も読み易く問題部分はなかった。

先ず、”軍部諸学校の入学試験が早くなった”とある。前年三郎が受験したのが9月20~22日だったから4ヶ月程早くなっている。それ程兵士(将校)が不足しており補充が急務であった。
また、受験希望者数も例年に比べ増えている様子。これは”お国の爲”と云う気持ちも当然あったと思うが、正直なところ”どうせ徴兵されるなら”の方が強かったと思う。事実昭和19年当時は召集数も増大して”根こそぎ動員”が始まっており、当然のことであろう。

”山崎暗才”が何者かは解からない。内容からすると秀才或いはクラスの人気者だったのかもしれない。

2ヶ月半後に陸豫士の受験をひかえているにも関わらず、毎日暗渠排水や軍需工場の作業に動員され勉強の時間が限られ、大変なプレッシャーであったと思う。

最後は、MOさんからのもの。

昭和19年3月15日 MOさんから三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

***************************
拝復
御手紙有難う。
今日岐阜より帰って見るとあったのでちいと嬉
しかったよ。
此の間、岐阜髙工に受けたが五十人に一人だ。後へほう
たよ。まあ想像してくれ。僕も五年組だ。
今頃は学校も大分よくなった。朝会の時は号令の
練習をしておる。又暗渠拝水に出掛けている者
もあれば武道章の上級を受けるために練習等
をしておる。
次に写真だが、中谷は「本日公休日」荷物は隣へ。
これだからしかたがないなんと言っても萬年公休日だよ。
新ニュースとして君が心配するかもしれないが、新見
と橋本に広島行だ
靴は確かにもらった。安心してくれ。
まあニュースがあったら知らせる。
乱筆御免
                   さようなら
  三月十五日
三原君へ
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MOさんは母(千代子)の手紙の中にも出てくる友人で、近所の幼馴染らしい。
三郎も含め同級生が皆綺麗な字なので字の汚い小生は少々凹んでいたのだが、(大変失礼な言い方だが)この手紙でちょっと安心した。

彼もまた難関受験(50倍はすごい!)に失敗した様で、”僕も5年組だ”と自嘲気味に書いている。

”後へほうたよ”は、多分”(びっくりして)のけぞった”の意味だと思う。小生も広島出身であるが広島市と呉市の間にある海田市と云う瀬戸内海側の町で育ったので、山間の三次とは結構方言が違うので間違っているかも知れない。

軍関係の試験も受けない様で、残りは学校の様子などを書いている。
”武道章”とは武道章検定のことで、前年(昭和18年)に制定された武道を戦争技術化するための政策で”銃剣道、射撃道、剣道、柔道、弓道、相撲”が対象であったらしい。

写真の件は良く解らない。”中谷”が写真好きの友人なのか、或いは写真館なのか不明。

”新見と橋本に広島行きだ”は、多分担任教師の異動を言っているものと思う。

友達同士の会話は必要部分が欠落していて解かりづらいが、靴をあげる程の仲である。親友に間違いないだろう。

昭和19年3月14日 三郎から父(芳一)への状況報告

今回は陸軍予科士官学校に入校して間もない三郎が父(芳一)に送った近況報告。

A5サイズの両面書きとなっている。
A4サイズのものを半分に切ったものかと思ったが”規格A5判”とあるので最初からこのサイズの様である。便箋と云うよりはノートの様なものかも知れない。
しかし、他の手紙等にも通常の便箋で両面書きして節約しているものが目立つ事から、物資不足が相当深刻な事が判る。

毛筆で書いているが案外達筆で難読部分はなかった。

昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙③
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■様は芳一の知己で当時三郎がお世話になっていた方

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拝復 陸軍記念日出しの葉書確かに受取りました。
私も元気一杯張切って豫科の深奥に向い猪突猛
進中であります。家の方も皆元気でお母さんが働き出
され芳子も頑張って居るとの事大いに安心致しました。
少し過ぎ去った行事を羅列してみましょう。先づ三月六
日、入校式東校庭に整列、校長閣下、代理幹事閣下
の命令を以て正式に予科生徒となり大いに感激致しま
した。三月九日、六十期生の一部我等は早朝学校を出
発。宮城、靖国神社、明治神宮に参拝し入校の報告
をなし決意を新にしました。翌十日、陸軍記念日(三十九
回目)には早朝春雨けぶる中に払暁遭遇戦を行い血を
湧き肉躍るを感じました。次に来るべき事について一言。
三月十七日に航空士官学校に行かれる航空関係の方の
卒業式があります。優等生は六人で御賜品を戴か
れます。三月二十日より私達の学科が始まります。
数学、物理が断然多く、法制、化学、国漢、国史、心理、
修身等。私は語学は支那語であります。又
三月二十一日、春季皇霊祭には第一回の外出が許可
されました。私は■■様の方へ行く積りです。非常に
皆喜びました。東京を大手を振って闊歩出来ます。
未だ倉野さんに逢えていませんが、元福山に居た時
一級上であった(南校)髙畠尚志さんが伊吹隊の第二区
隊居られ逢いました。二年生です。地上部隊ですか
ら残られます。倉野さんも地上です。三中出身者に
も未だ誰にも逢いません。早く逢いたいのですが、
中隊が離れていて一寸行けませんが、最少し経ったら
各縣出身者の集会があるそうですから、その時には
明瞭に分かります。分かったら又お知らせ致します。
我が富士隊の広島縣出身者の二年生の芸備
線の駅向原町出身の今岡さんと云われる方が私
の区隊に逢いに来て下さいました。非常に嬉しかったです。
同縣というと非常に親しみを増します。私の区隊の戦友
に呉一中出身者が一名(本籍府中出身)、廣幼出身者一名 合計廣島縣出身者は我が
区隊には三名、山口縣一名、岡山縣一名、島根縣一名という
様なことですが、一年生の区隊には指導生徒殿と
云われる方が居られて勿論二年生の方の優秀な方で
すが、私の区隊の指導生徒殿は市井忠夫様と云われる方
です。私達が色々実際何から何まで教えて戴くのです。
その方が廣島幼年学校出身者で私の言葉を聞かれ
て直に「貴様は廣島だな」と云われました。本籍地
は新潟だそうです。お知らせして置きます。
あ、忘れましたが入校式の時の写真が十種類出来、私は全部
購入しましたから受領したらお送り致しますから、それにて
お察し願上ます。又外出したら私の写真を撮る
積りです。では未だ寒気厳しき折柄御身体を大切
に無理をなさらぬ様呉々もお願い申し上げます。
乱筆御免下さい。              敬具
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まず、”宮城(キュウジョウ:ミヤギではない)だが、当時は”皇居”ではなくこちらが通称だったらしい。靖国神社、明治神宮と参拝し皇国軍人の一員となったことを実感したであろう。文面からもナショナリズム的な意気込みが感じられる。

ところで、ナショナリズムは何故我々の血をたぎらせるのだろうか。
小生の若い頃の暴走族などは”ヤンキー”と云いながら”特攻ハチマキ”や”日の丸ステッカー”で日米ナショナリズムの融合体(?)であったが、深く歴史など勉強をしていない若者達(一部ではあるが)を惹きつけてしまう魅力(魔力?)があるのは間違いない。
妄信的なナショナリズムは害悪でしかないが、オリンピックやワールドカップを観るにつけ適度なナショナリズムは人間としての正常な感性だと思う。
しかし、悲しいかな戦時中の我が国におけるナショナリズムは妄信的なものになっていた誹りは免れない。

”払暁遭遇戦”とは歩兵隊が前進する際に敵部隊と遭遇した事を想定した戦闘訓練でこれが明け方(払暁)に実施されたと云う事である。

春季皇霊祭は現在の春分の日だが、初めての外出が許可されたことを甚く喜んでいる。三郎だけでなく”皆”が喜んでいたようであるから強がってはいても学校生活は厳しかったのであろう。

後半は同郷や近県の出身者の話になっている。やはり故郷は恋しいのであろう。郷愁…。これは今も昔も変わらない。

昭和44か45年の正月(小生が小学4か5年生の頃)だったと思うが、広島市にあった三郎の自宅で三郎一家と小生一家に父芳一も集まって新年会を開いていた際、芳一が”これは三郎が小学校の時に書いたんじゃぞ。上手じゃろう。”と自慢げに半紙に書かれた書を皆に見せたのだが、三郎はちょっと恥ずかしかったのか芳一からそれを奪い取り”余計な事せんでもええ。”と怒ってチリジリに破いてしまった。こんな事もあったせいで小生にとっては”軍隊経験のある怖い伯父さん”なのであった。今回の毛筆書きで思い出した話である。

最後の辺りで三郎が言っている入校式の写真については次回の投稿にてご紹介させて頂く。