前回の父(芳一)からの手紙と同日に書かれた母(千代子)からの手紙である。
三郎が振武台へ行ってから一ヶ月程経過しており、文面からも多少落着いた感じが読み取れる。
解読結果は以下の通り。
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其後変りなく勉強して居ると思います。
家の方には皆変りありませんよ。先日来より度々便り
を出すが何の返事もないが受取りましたか。
日頃心配して居た芳子の女学校入学受験に運
良く合格いたしました。女子組が二十七名受けて
二十名合格したのよ。深原先生も大手柄だ
中学校はあまりよろしくなかったらしいよ。。
女学校へは全部で四十何名受けたらしいよ。
まあ、子供も一人前の学校へ入学出来る様に
なって父様も私もこれよりうれしい事はありません。
皆よろこんでやってくれよ。芳子も安心したらしい。
幸田君ね。あれが廣島師範へ合格したそうね。
山縣君も熊本薬専へ合格したとの事。
昨日、中学校から成績表が来ました。別に変りた
處はなかったが、工作が秀になって居たよ。
見たかったら送ってあげます。
日曜日に河野君のお父様と逢って話されたそうな。
内の父様がね。三中の者に出逢いますか。
倉野様にもあったですか。
写真にうつりましたか。もし出来たら送りなさい。
都合が悪かったら無理してまではうつらなくって
よろしいよ。四月の五日が女学校の入学式だ。
中学校は四日らしいよ。何でも一年間位は仕業
するらしいよ。今日はこれで筆を止めます。
三次は今日も風がひどく雨やら雪やらわからん
ものが降って寒いです。充分躰に気をつけてね。
上官の命をよく守り、友人の力になる様にせよ。
三郎殿へ
母より
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父からの手紙同様、最優先事項は妹(芳子)の女学校合格の話題である。
やはり肩の荷が下りたのであろう、4人の子供全員が国民学校を卒業し一人前になった事を
「父様も私もこれよりうれしい事はありません」
と喜んでいる。
女学校の受験者数の部分で
「女子組が二十七名受けて」と「全部で四十何名受けた」とあり、女子組・男子組以外に何かあったのか?とググってみたところ、
当時、国家の方針としては国民学校三年生からは男女別組が原則であったが、一クラス辺りの生徒数や教室数の関係で地域によっては「男子組」「女子組」の他に「(男女)共組」という共学のクラスがあったらしい。
芳子の通った国民学校もこの「共組」があったようであるが、思春期に掛かる年齢でもあり、特に男子生徒にとっては「不公平感」満載の制度だった様に思える。(笑)
当時、女学校や中学校に進学しても授業はそこそこで勤労奉仕ばかりの毎日であったが、それでも進学できる喜びは格別だったようである。
しかし、いったん戦時中という現実に引き戻された時、軍隊勤務の康男や予科士官学校生徒の三郎の行く末を考えると本当に不安であったろう。
それどころか、軍隊と関係のない他の家族でさえ何時どうなるか判らない程に戦況は悪化していたのである。
因みにこの3日後の3月31日に米機動部隊がパラオ諸島を大空襲している。
徐々に制空権を奪われ、本土空襲へとつながってゆくのである…。