今回は以前にも投稿したことのある三次中学同級生MOさんからの葉書。
以前の投稿の際に「小生と同じくあまり達筆でないのでちょっと安心した」と大変失礼なことを書いてしまったが、今回の葉書では御本人自ら「小生至って字がへたで、困まる御免」と書いておられ、またまた「ちょっと安心した」次第である。
解読結果は以下の通り。
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拝啓
お手紙有難う。君も今頃は大分慣れて来たように手紙によく表
われているから、さぞかし変った事だろう。小生至って元気でおるから
安心してくれ。さて、この間からの各學校の合格者をすこし言ってみようか?
ぺス君、縣師にはいったよ。ちいとこっけい。あっははは…。
山縣、熊本薬専、三宅、桑田、土屋、縣師。広澤、岡山医専。作田、大邱髙
農らへ…。太郎君、東京無線○○へ。五年、大善、広髙工夜。土井、松江高。
立川、三高農。おう、八木が広髙工、高船の両方へ通ってタカブネに行った。
又、五年生は大竹の海兵団へ五日→九日、二十名。十三日→十六日、三十名。この分
へ小生行くことになった。行ってきたものの話では、ものすごいげなあと
へほうたよ。まあ、このくらいだ。小生至って字がへたで、困まる御免。
これは手の先が筆のようになっておれば非常に上手なそうな話だが君
も知っておるようにだ。へへへ…。 さようなら
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「高船(タカブネ)」が何なのか今一つ解らなかったのでググってみた。
正式には「高等商船学校」のことで「船舶運用等海事分野を専攻とする官立(国立)の実業高等教育機関」とあった。
全国で東京、神戸、清水の3校があり、学費が無償であったこと、募集人員が少なかったこと、卒業後は花形職業に就けることなどから元々難関校であったが、戦時下にあっては、徴兵が猶予され卒業後は予備士官に任官されるなどの制度から、超難関校として知られていたらしい。
しかし、これらの優遇がある反面、入校即日海軍予備生徒として兵籍に入り、有事の際は召集され軍務に服する義務があった。
つまり、当時の状況であれば三郎たちと同じく、軍関連の学校に入ったと云うことである。
ただ修学期間は5年6カ月と長く「高船」は戦後も存続していることから、この時に入学された同級生”八木さん”は在学中に終戦を迎えられた筈であり、一旦は死をも覚悟して決めた進路を覆すような状況の中で、その学生生活は波乱に満ちたものだったのではないかと想像する。
「終戦」という事実は戦争遂行を覚悟して軍関係の学校へ進学した若者達にとって、それまでの血と汗の努力を「無」に帰してしまっただけでなく、その将来設計をも大きく変えてしまうとてつもない衝撃であり、それを克服するための労苦は大変なものであったと思う。
戦争を知らない我々は、当時、終戦によって虚無感や敗北感を味わい挫折や自暴自棄に陥りながらも戦後復興の中心となって頑張って下さった人々に心より感謝しなければならない。