昭和19年6月28日 母千代子から三郎への手紙 心配事、言伝、愚痴等々…取り止めもつかぬ事を永〃と

 

今回は母千代子から三郎へ宛てた手紙。

前回千代子が三郎に宛てたのは6月4日でひと月経っていないのだが「永らく御無沙汰して居ります」と書き出している。
当たり前であったとはいえ携帯やメールは存在せず電話さえ使えない環境での手紙のやり取りである。我が子想う母親にとっては将に「一日千秋」の想いであったであろう…

昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙④

昭和19年6月28日 千代子から三郎への手紙⑥

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。
************************
永らく御無沙汰して居ります。其後も相変
りなく元氣で勉強しています事と思います。
先日はお便り有難くその返事は父様
が何とか様子された事と思いますが
家の方には別に(変り?)ありません。兄様も二十五日の
日曜日に一寸帰省と電話していましたが
矢張り都合で帰る事が出来ませんで
した。七月になったら三島へ転隊すると
か。広島も今しばらくお別れだと申して
居ります。夏休みまで広島に居れば
よろしいが二三ヶ月が半年も居られたので
此の上充分は申されませんよ。
敬兄さんは快方に向って一寸他人が
見たところでは病人とは見えませんよ。
まだまだ養生をさせるつもりです。
芳子も二週間も続けて田植にでました。
少しつかれが出たらしいですが別に
休む事もなくやって居ります。
父様も元氣です。二十五日から二十八日まで
高田郡方面へ久しぶりに出張された。
三次の中所の方は雨が降らぬので水
がなくて田植になりませんのよ。
それから甲種予科練習生が伍長に
なって三次から出た子供が休みをもらって
久しぶりに二十四日に帰って二十八日には三次
を立って帰隊。七月中旬に卒業式
があって七月末にはそれぞれ外地に向う
とかお別れの気持ちの休みかとも思うが
藤川君も私の方へ来てくれた。お前の
後に送った写真を一枚渡したよ。
此度はお前とは何時逢えますやらと
申して居たよ。三年生から出た米やの
前岡君の父様も親子久しぶり
に逢ってよろこぶ間もなく父様に召集が
来て七月一日入隊とか親子ともども目出
度い事だ。
母様も六月で婦人会の班長の任期
満了致し(成可現班長の留任を)との
ことだが二年も續けてつとめさせていただ
いたのだから家庭の都合もあるし退せて
いただく事にした。母さんも兄様が病気
だし家の事が多忙で充分勤められん
から兄様にお嫁さんでもとりたら又
世話させてもらいます。
兄様のお嫁さんを次々進めてもらいます。
今一つ話しが進みつつあります。
中学校四年五年は二十六日に来年
三月まで呉へ行きましたよ。
夏休みに帰っても同級生には逢えん
かも知れませんよ。今日■■様よりハガキが
来ました。三郎君もあれ以来外出がない
らしい。よってくれないと申してよこされた。
二十八日には父様も出張先から帰られるから
御返事されると思います。
父様が苦心して作られたがジャガイモが多
くとれましたよ。種イモをもらったから一〆に対し
て三貫匁の供出にして私の方には一〆匁
もらったから三貫匁出してあと七貫匁
位は残ります。供出をほしまれる家も
あるけれど出して又お米へつけてもらうのだ
からね。気持ち良く出さねばいけませんよ。
沖の方には矢張り出さない方らしい。多く
作りながら。今夜はこれでよします。
取り止めもつかぬ事を永〃書きましたね。
暑くなるから充分気をつけて此の上ともに
勉強してくれよ。上官の命を良く守り
友達とは仲よくしてね。三郎さんはよくよく
心得えて居ますからね。たのみますよ。
************************

「取り止めもつかぬ事」が「永〃」と綴られている。

長男の康男は近く広島から愛媛の三島へ転隊するらしい。
これが戦地への出兵を意味するかもしれないことを千代子は知っていたのだろうか…
次男の敬は快方に向かっているとは言うものの未だ病床にあり「まだまだ養生をさせる」必要がある。
長女の芳子は女学校に入学したばかりなのに「二週間も続けて田植にで」て疲れている様子である。
父芳一は「元気です」

自分自身(母千代子)含め家族全員皆「大変」である。
いや、当時は日本国中が同じような状況であった。

「甲種予科練習生が伍長になって」一時帰郷したとある。
当時軍隊に於いても最精鋭で若者の憧れであった「飛行機乗り」である。
外地へ向かう前の一時帰郷だったらしく単なる帰省ではなく「今生の別れ」となる可能性も高かったであろう。
千代子からすれば康男や三郎ともそう遠くない将来に同様の再会がある筈であり心穏やかならぬものがあったのではないか…

三郎の同級生や下級生であった三次中学の五・四年生は通年動員で呉海軍工廠の軍需工場へ動員されていった。

「小中高の春休みまで休校」や「外出自粛」等で今般大騒ぎの「コロナ新型伝染病」も大変な事態であるが、(軽重を比べる訳ではないが)こと「国民に強いた大変さ」と云う意味においては当時と比べるまでもないであろう。

国家の存亡を賭けた大変な時代であった。