昭和20年9月8日 陸軍船舶司令部 矢野部隊長から… 康男の「生死不明トナリタル迄ノ経歴」

 

今回は前回投稿の陸軍船舶司令部矢野部隊長から芳一宛の手紙に同封されていた「生死不明トナリタル迄ノ経歴」である。

 

昭和二十年九月八日 生死不明トナリタル迄ノ経歴①
昭和二十年九月八日 生死不明トナリタル迄ノ経歴②

解読結果は以下の通り。

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生死不明トナリタル迄ノ経歴
一、 生死不明トナリタル日時場所
昭和十九年十一月十七日二十二時0七分 黄海南方 東経一二四・三四・五 北緯三三・三五 海上
二、 生死不明トナリタル前後ノ状況
昭和十九年十一月十五日 〇〇隊要員トシテ陸軍輸送船 江戸川丸(輸送指揮官 河滿
大尉)ニ乗船シ 同日十六・00頃 大連港ヲ出帆シ「マニラ」ニ向ヒ航行中 十一月十七日二二・
0七分江戸川丸ハ前記海上ニ於テ敵潜水艦ノ魚雷攻撃ヲ受ケ遂ニ同船
右舷側三番艙ニ被雷大音響ト共ニ爆發浸水シ機関モ亦停止セリ
次テ甲板上ノ舟艇・自動車等ニ引火シ火災ヲ生起スルニ至レリ被雷直後全員
警急集合所タル左舷甲板上ニ集合シアリシモ輸送指揮官ノ退船命令ニ據リ
海中ニ飛込ミ退避セルモノノ如シ 江戸川丸ハ翌十一月十八日 0一・三0頃 艏部ニ積
載シアリシ爆雷ニ引火セルモノノ如ク大爆音ト共ニ沈没セリ
退船者ハ船中ヨリ投出或ハ流出浮上セル筏木片 浮胴衣等ニ據リ漂流中
同日0三・00頃ヨリ一三・00頃ニ至ル間護衛艦タル海防艦一、掃海艇一ニ依リ乗
船者二千余名中一九六名ヲ救助セリ引續キ附近海面ヲ捜索セルモ他ハ發見スルニ
至ラズ 當時天候和風程度ニテ良好ナリシモ闇夜ナリ
三、 採リタル捜索手段
被雷當時敵潜水艦ノ攻撃は執拗ニシテ護衛艦ハ驅潜並ニ他ノ船舶ノ護衛ニ任シ
タリシ為僚船鎮海丸専ラ遭難者ノ救助ニ任シアリシモ之亦敵潜ノ為撃沈セラレタリ
十八日0三・00頃ヨリ護衛艦ハ救助ニ着手セルモ闇夜ノ為意ノ如クナラズ依テ一時
之ヲ中止 天明ヲ待チ再ビ救助ヲ開始セリ
然ルニ朝来風速加ハリ波浪髙ク捜索困難トナリタルモ極力遭難地点ヲ中心
トセル海域ノ捜索ニ努メシ結果一九六名を救助セルモ他ハ何等ノ手掛ナク同日
一三・00頃捜索ヲ中止シ十一月二十日上海ニ入港セリ
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因みに康男が乗船していた「江戸川丸」は「ミ二十七輸送船団」であり、船団の状況等以下サイトをご覧頂きたい。

http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/pdf/mi27.pdf

戦時下であり敗戦の状況は徹底的に隠蔽されたのであろう。恐らく司令部はこの状況を発生直後には把握していた筈であるが、芳一は十か月程経過した終戦後に報らされている。
その間の家族とりわけ母千代子の心労は大変なものであったであろう。
そして最終的には「戦死」の報せ…
家族の悲しみは計り知れないほどに大きかったに違いない。

当時この様な状況が日本各地の家庭で起こっていたのである…

 

康男が乗船していた輸送船「江戸川丸」は商船であった…

康男が乗船していたミ二十七船団の「江戸川丸」は、昭和十九年十一月十七日二十二時七分 敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、翌十八日一時三十分頃に沈没したと「生死不明トナリタル迄ノ経歴」(前回投稿)に記されている。

沈没迄の三時間半…康男は必死で生きようとしたであろう…
いや、沈没後もひたすら味方の救援を待ちながら冷たく暗い黄海でもがいたに違いない…
寒かったであろう…
怖かったであろう…
悔しかったであろう…

大東亜戦争に於いては、ガダルカナル島や硫黄島などの激戦地や神風特攻隊などで勇ましく果敢に散華された方も多くいらっしゃるが、康男の様に戦闘の遑もなく無念のうちに散って逝った方も決して少なくはない。
特に米軍に制海制空権を握られた戦争末期の輸送船団は悲惨であった。

今回の投稿にあたり下記サイトで勉強させて頂いた。

http://www.jsu.or.jp/siryo/

こちらのサイトによると、康男のような輸送船で戦地に向う途中等で攻撃を受け沈没や座礁により戦死された方は6万柱を超えている。

http://www.jsu.or.jp/siryo/honseki/

康男が遭難した黄海に於ても23隻が撃沈され9000柱近い英霊が今も尚海底深く眠られているのである…

http://www.jsu.or.jp/siryo/map/korea/china/yellowsea/yellowsea.html

もちろん康男も…

康男 昭和19年頃 撮影日不明

 

昭和二十年十月十九日 芳一に三次町長より「殉国勇士町葬執行ノ件」届く

 

終戦後二ヶ月ほど経過した頃、芳一の許に支那事変及び大東亜戦争に於いて戦死した町内の英霊の町葬を行うとの旨の「殉国勇士町葬執行ノ件」と云う報せが届いた。

 

20年10月19日殉国殉国勇士町葬執行ノ件

ガリ版印刷と思われるが、少々読み辛かった。
解読結果は以下の通り。

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昭和二十年十月十九日
三次町長
三原芳一殿
1殉國勇士町葬執行ノ件
志那事変及大東亜戦争ニ於テ名譽
ノ戦死ヲ遂ゲラレ候 御英霊ニ對シ来ル
十月二十八・九・三十日ノ内適当日時ヲ決定
町葬執行可致計劃ニ有之候条右御
準備置相成様致シ度及予報置候也
一、追テ日時確定セバ通知可致候
二、殉國勇士ニシテ種々ノ関係上御遺
骨其他遺留品等ナク町葬当時
對照トナルベキモノナキニ於テハ最適
当ノモノ選定御呈示相成度候
三、遺品等適当ノモノヲ御遺骨ニ代
ヘラルル場合ハ特ニ手持品ニテ木箱ヲ
造り白布ヲ覆ヒ尊厳ヲ失ハザル
如ク手配セラルル様致度候
四、町葬当日ハ町内會長又ハ隣組
長等御遺骨出迎ノタメ参堂ノ
予定ニ有之候
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まだまだ大混乱の真っただ中であった筈であるが、我が国を未曾有の国難から護らんと命を懸けて戦いながらも武運拙く名誉の戦死を遂げられた英霊を町をあげて弔うのである。
生き残った国民の多くが生きるか死ぬかの状況下にあるにも関わらず、日本全国でこの様な合同葬儀が執り行われていたのである。
なんと日本らしい光景ではなかろうか…

因みに用紙は戦時中の大蔵省のチラシの裏が使われている。

20年10月19日殉国殉国勇士町葬執行ノ件 裏

 

昭和二十年十月二十二日 「罹災戻」…芳一が廣島商業校長に宛てた康男戦死の手紙は原爆惨禍の為届かず…

 

終戦から二ヶ月ほど過ぎ多少落着いたのであろう、芳一は康男の母校である廣島商業学校の校長宛に康男が戦死した旨の報告と生前のご厚情への御礼を巻手紙に認めている。
が、しかしながら当時の広島市は未だ原爆による惨劇の真っただ中であり、「書留・速達」で出された封書は非情にも「罹災戻」の赤い印と共に差し戻されてしまった。

昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻 封筒表
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻 封筒裏

 

昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻①
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻②
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻③
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻④

当ブログ開始当初より芳一の手紙・葉書は(小生にとって?)非常に読み辛いのであるが、今回の巻手紙は最強である。
故に未解読部分が数箇所あるが、内容に影響がある程では無いのでご容赦願う。

解読結果は以下の通り。
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拝啓 時下高天肥馬の候益々
御精達〇〇〇〇〇〇〇賀候
附は御校第三十七回卒業生たる
(昭和十四年三月卒業)
愚息 三原康男義 松山高等
商業学校卒業後 日本興行銀
行に就職中 昭和十七年二月一日
応召 広島西部第二部隊に入隊
同年五月 北支保定の豫備士官
学校に甲種幹部候補生として
入校 同年十一月卒業帰還致し
見習士官として丸亀第三十二部隊へ
転属 昭和十八年十二月一日 少尉に
任ぜられ 船舶要員として 暁第
二九四〇部隊に転属 船舶練
習部学生の課程を了へ マニラ
第三船舶輸送司令部附特殊
水上勤務要員として 昨十九年
十一月内地出発 輸送船江戸川丸
に乗船 マニラに向け航行中
同年十一月十七日午後十時七分
黄海南方海上に於て 敵の
魚雷攻撃を受け 同乗者二千
餘名中 百九十六名の被救助者
を除く外 船と運命を共に致し
愚息康男も武運拙く戦死者
の中に入り候旨 此程公報に接
し也候
御校在校五年 不一方御恩顧を
被り乍ら碌々御恩返しも為し
不得 二十四年を一期として散華
致し事は誠に残念に存じ益
素より本人は皇国の隆昌と必勝
の信念と後に続くものあるを確信
し 戦死致し儀に御座候得共
事志を違い 敗戦後の今日
戦死の報に接し候事は遺憾
此上もなく 私の心中御愍案
被下度く
諸先生に対しても校長様より
宜敷御傳へ被下度 先つ不取敢
戦死公報 先○○○度 時下〇
〇御自愛被下○○○
      敬具
昭和二十年十月二十二日
故陸軍少尉 三原康男
(進級上申中)
 父 三原芳一

廣島県立
廣島商業学校長殿

追て戦死公報写並に戦死当時の状況
経緯等写同封致置く○御高覧被下度
尚公葬の儀は十月二十九日執行の事に
相成益て御高会○○○○○○
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前々回の投稿で掲載した陸軍船舶司令部矢野部隊長からの「生死不明とナリタル迄ノ経歴」の内容を踏まえ康男が広島商業卒業してから戦死するまでの経歴を述べた後に生前のご恩への感謝と康男本人そして父である芳一の無念を認めている。

芳一(祖父)、三郎(伯父)、芳子(母)は康男(大伯父)のことは殆ど小生には話さなかった。
芳一の納骨の際だったと記憶しているが、芳子が墓下から大きめの薬瓶を取り出して
「この中に康男伯父さんの爪と髪の毛が入っとるんよ…」
と教えてくれたことが唯一であったと思う。

やはり家族にとっては辛い記憶であり想い出したくなかったのであろう。

この後芳一が再度広島商業校長に手紙を出したか否か定かではないが、この手紙が「罹災戻」として差し戻されていなければ小生が目にすることも無く、康男に対する芳一はじめ家族の気持ちを明確に(文字として)知ることは無かった訳であり結果的には良かったのかも知れない…

昭和18年6月 康男