昭和19年4月17日 康男から三郎への葉書 かなり乱筆…

 

今回は長男康男から三郎への葉書

母千代子からの言伝で三郎宛の荷物を手配した旨が記されているのだが、達筆な筈の康男にしては結構な乱筆であるところが気に掛かる…

 

昭和19年4月17日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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御葉書有難う。其後元気にて
精進している由、安心した。兄さんも
元気で頑張っている。そちらもそろそろ
櫻の見頃と思う。広島も満開というところ
だ。故郷は月末位に妍を競う事
だろう。所望の品々、母上より通知があ
ったので、家の方へ送っておいたから、何れ
入手する事と思う。無暗に手に入らぬ故、
心して使用する事。では体に気をつけて
頑張れ。
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5行目の「妍を競う」は、葉書には「女ヘンに研」と書かれているが、どうもこれに該当する漢字が見当たらないので恐らく「妍(うつくしい)」の間違いだと思われる。

内容としては大したことを書いている訳ではく心配する部分などないのだが、どうも「乱筆」が気に掛かる。

この昭和19年4月当時は、南方や大陸各戦線で防戦一方となった戦地への兵站が急務となっており、康男たちの部隊の出兵も間近になったことは間違いないであろうし、当然その状況も部隊内部では周知されていた筈と思われる。

また、上官や先輩将校の戦死の報せなどの噂も耳にしたかも知れず、”何時出兵命令が出されるのか”と云う緊張を強いられる中で日々厳しい訓練があり、体力的にも精神的にもかなり極限に近い状況にあったに違いない。
そんな諸々が「乱筆」となって表れてしまったのではないかと思う。

因みに、この当時康男は広島市千田町という所に下宿していたのだが、近くには京橋川に架かる御幸橋がある。
この「御幸橋」は原爆直後の惨状を撮影した数少ない写真の現場となった場所であり、原爆資料館に展示されたり教科書に掲載されたりしているその写真は知っている方も多いと思う。

被爆直後の御幸橋

康男が広島を離れてから一年後に原爆は投下された。

 

昭和二十年十月二十二日 「罹災戻」…芳一が廣島商業校長に宛てた康男戦死の手紙は原爆惨禍の為届かず…

 

終戦から二ヶ月ほど過ぎ多少落着いたのであろう、芳一は康男の母校である廣島商業学校の校長宛に康男が戦死した旨の報告と生前のご厚情への御礼を巻手紙に認めている。
が、しかしながら当時の広島市は未だ原爆による惨劇の真っただ中であり、「書留・速達」で出された封書は非情にも「罹災戻」の赤い印と共に差し戻されてしまった。

昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻 封筒表
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻 封筒裏

 

昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻①
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻②
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻③
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻④

当ブログ開始当初より芳一の手紙・葉書は(小生にとって?)非常に読み辛いのであるが、今回の巻手紙は最強である。
故に未解読部分が数箇所あるが、内容に影響がある程では無いのでご容赦願う。

解読結果は以下の通り。
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拝啓 時下高天肥馬の候益々
御精達〇〇〇〇〇〇〇賀候
附は御校第三十七回卒業生たる
(昭和十四年三月卒業)
愚息 三原康男義 松山高等
商業学校卒業後 日本興行銀
行に就職中 昭和十七年二月一日
応召 広島西部第二部隊に入隊
同年五月 北支保定の豫備士官
学校に甲種幹部候補生として
入校 同年十一月卒業帰還致し
見習士官として丸亀第三十二部隊へ
転属 昭和十八年十二月一日 少尉に
任ぜられ 船舶要員として 暁第
二九四〇部隊に転属 船舶練
習部学生の課程を了へ マニラ
第三船舶輸送司令部附特殊
水上勤務要員として 昨十九年
十一月内地出発 輸送船江戸川丸
に乗船 マニラに向け航行中
同年十一月十七日午後十時七分
黄海南方海上に於て 敵の
魚雷攻撃を受け 同乗者二千
餘名中 百九十六名の被救助者
を除く外 船と運命を共に致し
愚息康男も武運拙く戦死者
の中に入り候旨 此程公報に接
し也候
御校在校五年 不一方御恩顧を
被り乍ら碌々御恩返しも為し
不得 二十四年を一期として散華
致し事は誠に残念に存じ益
素より本人は皇国の隆昌と必勝
の信念と後に続くものあるを確信
し 戦死致し儀に御座候得共
事志を違い 敗戦後の今日
戦死の報に接し候事は遺憾
此上もなく 私の心中御愍案
被下度く
諸先生に対しても校長様より
宜敷御傳へ被下度 先つ不取敢
戦死公報 先○○○度 時下〇
〇御自愛被下○○○
      敬具
昭和二十年十月二十二日
故陸軍少尉 三原康男
(進級上申中)
 父 三原芳一

廣島県立
廣島商業学校長殿

追て戦死公報写並に戦死当時の状況
経緯等写同封致置く○御高覧被下度
尚公葬の儀は十月二十九日執行の事に
相成益て御高会○○○○○○
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前々回の投稿で掲載した陸軍船舶司令部矢野部隊長からの「生死不明とナリタル迄ノ経歴」の内容を踏まえ康男が広島商業卒業してから戦死するまでの経歴を述べた後に生前のご恩への感謝と康男本人そして父である芳一の無念を認めている。

芳一(祖父)、三郎(伯父)、芳子(母)は康男(大伯父)のことは殆ど小生には話さなかった。
芳一の納骨の際だったと記憶しているが、芳子が墓下から大きめの薬瓶を取り出して
「この中に康男伯父さんの爪と髪の毛が入っとるんよ…」
と教えてくれたことが唯一であったと思う。

やはり家族にとっては辛い記憶であり想い出したくなかったのであろう。

この後芳一が再度広島商業校長に手紙を出したか否か定かではないが、この手紙が「罹災戻」として差し戻されていなければ小生が目にすることも無く、康男に対する芳一はじめ家族の気持ちを明確に(文字として)知ることは無かった訳であり結果的には良かったのかも知れない…

昭和18年6月 康男