昭和23年6月5日 投函されず手許に遺ったままの手紙…認められたのは敬が亡くなる二日前…

 

 

今回は終戦後3年程経過した昭和23年に芳一が書いた手紙なのだが、どうやら投函されなかった様である。

 

昭和23年6月5日 芳一の手紙 封筒表
昭和23年6月5日 芳一の手紙 封筒裏
昭和23年6月5日 芳一の手紙①
昭和23年6月5日 芳一の手紙②
昭和23年6月5日 芳一の手紙③
昭和23年6月5日 芳一の手紙④

解読結果は以下の通り。

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六月四日附のハガキ今朝お医者さんへ薬
を貰いに行って帰って拝見しました。茂も可愛そうに
遂にあの世に先立ちました由 姉上様の御心中
お察しするに餘りありです。五月三十日に私が
参りまして見てやったのですが最後であったと思えばせめ
て一夜泊って最後迄見てやりたかったと思います。
然し茂は果報者であったと思います。
可愛い女房に親切に介抱して貰った事は、誰
よりも果報者であります。悪るい顔一つ見せず
に介抱してやってくれた事は私も誠にうれしく
存じます。親子は一世 夫婦は二世 と申しま
す。若死にした事は可愛そうでなりませんが
是れも前世よりの運命と諦らめる外はありません。
姉上様も嘸かしお力の落ちた事と思ひますが
茂の為めになげかず 元氣を出してあれの瞑福
を祈ってやって下さい。そして残った妻子が路
頭に迷わぬ様にしてやって下さい。何れ君田の
親類も何とか善くされると存じますが姉上
様や兄弟が力になってやらなければと思います。
私も今日でも参上廻向してやり度いのですが
私方にも敬が全く絶望状態となり氣分はハッキリ
して居りますが食事も進まず重態に陥りましたの
で二三日前からは夜もロクロク休まずに見てやって
居ります様な状況で参れません。何れ此処二三日
の内と思われます。可愛そうでなりませんが
もう手の尽くし様もありません。短い寿命と
諦める外ありません。あまりにも意識が明瞭な
ので苦しい事だろうと たまらなくなります。
お互いに子供に先立たれて。情ない事であり
ます。姉上も私も何と不運な事かと存じます
が、まあ私も元氣を出してやって居ります。是れも
私等の前世の種のまき様が悪るかったので因果
の報いでありましょう。善根を施して罪をわびる
外ありません。お寺参りでもして子供の冥福を祈
ってやりましょう。
つまらぬ事を申しましたが世の中は凡て運命で
あります。天にまかす外ありません。
どうか落胆せずに元気を出して居て下さい。
同封の香典どうか茂の霊前に供えて下さい。
残った嫁に呉れぐれもお悔み申したと傳えて
下さい。元気を出して子供を育てる様にと申して
下さい。
先は不本意乍らも書中でお悔み申し上げ
ます。私方にも変った事があれば直ぐに
様子しますから どうか御心配下さらぬ様願
います。
皆様の御自愛を祈ります。
六月五日 夜十二時半
芳一より
玉井姉上様
茂の遺族様

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芳一は小生の実祖父なのだが、その家族関係に関しては正直殆ど知らない。
芳子(芳一の娘、小生の実母)がその類の話を殆どしてくれなかった事が大きいのだが、「何故話してくれなかったのか?」に関しては不明である。

この手紙の宛名にある「玉井タズノ」なる女性が芳一の実姉なのか義姉なのかもハッキリしないのだが、文面から察するに義姉のようである。

手紙には甥の「茂」の訃報に触れているが、この時既に次男の敬は危篤状態であり親戚とはいえ他人の不幸を悲しんでいる余裕は無かった筈である。
事実、手紙の内容からは葬儀の際にお坊さんが説く様な諦めとも自虐ともとれる文言が並んでいる。
そのことに自ら気付いたから投函しなかったのか、或いは混乱に紛れて投函しそびれてしまったのか、これも不明である…

戦争で長男(康男)を失い、戦後の大混乱の中で病に伏した妻(千代子)と次男を必死で看病した芳一。

次男の敬が他界したのはこのわずか二日後の昭和二十三年六月七日であった…

 

閑話休題 三月一日は芳一の命日 小生高校受験のまっただ中、突然の悲報に芳子は… vol.1

 

1975(昭和50)年3月1日朝7時過ぎだった。
高校受験の真っただ中だった小生は自由登校(??だったと思う)で二階の自室でのんびり眠っていた。

突然階下から悲鳴の様な母(芳子)の声が響いた。
「三次のおじいちゃんが死んじゃったんじゃと!!」
悲しさと驚愕と混乱の中から発せられたその芳子の狂気を帯びた叫びは小生を叩き起こすのに十分であった。

母は当初はオロオロしていたものの、少ししてから落着いたのかポツリポツリと話始めた。
「もう死んでしもうたんじゃけんね…。今日は月報(国鉄バス切符売り場の売上)を出さにゃあいけんけぇ、夕方からじゃないと三次に行けんね。あんた(小生)は学校へ行きんさい。」
小生が学校へ行く準備をしている間にも
「去年まで確定申告を全部おじいちゃんにやってもらいよったんじゃけど、いつまでも面倒かけちゃぁいけん思うて今年は自分でやったんよ… それがいけんかったんかねぇ… 安心しちゃったんかねぇ…」
と、誰に話すともなく独り言の様に呟いていた。
登校した小生は授業中も休み時間もずっと「ボーッ」としていた記憶がある。

国鉄バス切符売り場

夕方、店(国鉄バス切符売り場)を閉めて高校生だった姉を加えた三人はバスで広島駅へ。
広島駅で芸備線の三次行き急行(多分「ちどり」だったと思う…)に乗り芳一の亡骸の待つ三次へ向かった。

時間的に通勤時間にあたったのか列車は満員で指定席はおろか自由席にも座れずデッキ付近に三人は座り込んで広島駅を出発した。

しゃがみ込んで俯いている母は明らかに疲れていた。
実父の突然の悲報を受け悲しみに困惑しながら仕事をこなし今その亡骸の元へ向かっているのである。

1975年頃 晩年の芳一と小生
1975年頃 晩年の芳一と小生

閑話休題 三月一日は芳一の命日 小生高校受験のまっただ中、突然の悲報に芳子は… vol.2

前回投稿からの続きである。

明日三月一日は46回目の芳一の命日。
当時小生は15歳の中学三年生であったが、46年前の事なので正直なところ詳細までは詳しく覚えていない。

夕方18時頃に自宅を出た我々(芳子・姉・小生)は20時位に三次の芳一の許に着いたと思う。
ただ、芳一の亡骸がどの部屋に安置され、その亡骸と対面した芳子や姉がどんな表情であったのかよく覚えていない。
三郎一家も既に到着していたのであるが、その三郎の表情も覚えていない。
さもあらん、そもそも自分自身がどの様な感情を覚えたのかすら記憶にないのであるから…

三次に向うまでと翌日の告別式の事は断片的ではあるものの多少記憶はあるのだが、到着した当日の夜の状況は全くと言っていいほど記憶が無いのである。
悲しみに暮れる母(芳子)の様子は本能が記憶を拒んだのかも知れない…

芳一の最後はあっけないものだったらしい。
常子(芳一後妻)の話では
「いつもは朝6時に起きて(就寝前に振り子の音が気になって眠れないからと止めていた)柱時計の振り子を動かして起きて来なさるのに、今朝はよう寝とられるのう。昨日の夜”胸がザワザワする”言うてトンプクを飲んじゃったんが効いとってんかね?」
と思っていたらしい。
その後
「そろそろ起こしてあげんと…」
と枕元に行ったときには既に冷たくなっていたそうである。

因みにその柱時計は現在小生宅にある。

柱時計

確かに”カチコチカチコチ”と気になるし正時の時報も結構大きな音である。
寝ている間は止めているのが正解かも(笑)

翌日の告別式での様子は以前の投稿でも少し紹介しているが、大勢の方にご参列頂きしめやかに行われた。

https://19441117.com/2019/10/27/

式では三郎が喪主として挨拶を述べたのであるが、小生にとっては強面の伯父も父親の死はさすがに辛かったのであろう。涙声での挨拶であった。

それでも数時間後、三次郊外の火葬場では真っ白な灰となった芳一のお骨を鉄箸で拾いながら
「マサヒロ(小生の名前)、これが踵でこの大きいのが大腿骨じゃ。人間もこうなったら一巻の終わりじゃのぉ。ハハハ。」
と優しく笑っていた様子は今も忘れられない…