昭和19年4月22日 熊本薬科入学の同級生Yさんからの葉書

 

先日、熊本薬学専門学校への入学が決まった旨の連絡があったYさんからの葉書。

目指した旧制松江高校への夢が叶わず少なからず落胆していたが、その後の三郎からの便りなど友人達から慰められたようで気を持ち直している様子が伺える。

昭和19年4月22日 三次中学同級生Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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有難う。君があゝ言って呉れ(た)のが一番嬉しい。僕は是が非
でもしっかりとやる積りだから、御安心を願う。本當に僕の事
に気を遣って呉れて。君の課業に支障を来たしたかも知れぬが
此處にお詫をする次第だ。君は仕務に追われているだろう。
然し、僕も多忙で暇を見付けぬ限は、ろくに手紙を書く時もな
い。それ程時勢は逼迫している。講義も今年の中に一年生の
授業は了えて、更に三学期からは二年生の講義を始めるのだ
そうだ。夏休暇も廃止だしね。何も今は平時とは異なっている。否、
皇土の一端が醜敵米英に汚されているのだ。日本の興亡時だ。
僕は君の事を胸に置いて励んでいる。君は必ずとも、頑張って呉れ
なければならない…。こちらは正に初夏の候。花は散り、新緑萌
えだして心機一轉の時。実習々々と日を暮れさす。そちらには
お変りなきや?女恋しき事あらば僕を恋人と思え。奮闘を祈る。
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三郎がどんな言葉をかけたのか不明だが、Yさんとしては有難かったようで甚く感謝されている。
そんなやり取りから、三次中学在学中も仲良しだったと想像できるが、
「女恋しき事あらば僕を恋人と思え」
はちょっと気持ち悪い。(笑)

戦況が悪化の一途を辿るなか、学生達を一刻も早く一人前の戦力とするために講義や実習は全て前倒しされ、夏休みはおろか土日すらまともに休めなかったのではないかと想像するが、皆黙々と頑張っていた…いや、頑張るしかなかったのである。

差出しの住所を見ると「熊本市大江町九品寺」とある。
ネットで確認したところ現在の熊本大学医学部・薬学部のすぐ傍である。

因みに三郎は終戦後、熊本医科大学に入学している。
なぜ熊本だったのか小生が知る由もなかったのだが、この仲良し状況からすると”Yさん”の存在が三郎を熊本に向かわせた大きな理由だったのかも知れない…

 

投稿者: masahiro

1959(昭和34)年生まれ。令和元年に還暦を迎える。 終活の手始めに祖父の遺品の中にあった手紙・葉書の”解読”を開始。 戦前~戦後を生きた人たちの”生”の声を感じることが、正しい(当時の)歴史認識に必要だと痛感しブログを開設。 現代人には”解読”しづらい文書を読み解く特殊能力を身に着けながら、当時の時代背景とその大波の中で翻弄される人々が”何を考え何を感じていた”のかを追体験できる内容にしたい。 私達の爲に命を懸けて生き戦って下さった先達を、間違った嘘の歴史でこれ以上愚弄されないように…。

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