昭和20年1月1日 三郎から父芳一への巻き手紙 謹賀新年 聖戦第五年目も勝利に明け…

今回は三郎が父芳一に宛てた巻き手紙。

昭和二十年の年賀の挨拶として巻き手紙の形で認められている。

陸軍予科士官学校として生徒全員がこの様な”年賀状”を認めたのか三郎が個人的に認めたのか定かではないが、最後の辺りに「候文不出来の所御訂正をお願い致します」とあるのをみると、どうやら慣れない候文の訓練等で生徒全員が認めたのではないかと思われる。

昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙①
昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙②
昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙③
昭和二十年元旦 三郎から芳一への巻き手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
謹賀新年
聖戦第五年目も勝利に明け我等
は皇國の彌榮を冒頭に祈願致し候
将校生徒として否醜の御楯としての最
初の新春に候へば何となしに意義深き
印象に残るものを感じ居り候も時局は
非常を超え驕敵米鬼は我が神州
を覬覦し止まざる状態に候へば冬期休暇
も僅かに東京付近に直系尊族の住
居し居る者 大阪等々相当遠距離なるも右記人
上京せる場合は許可せられ候
のみに三泊四日間を與へられし程に候間
歸郷御尊顔を拝する事叶はず候
我が家に居らる四人にて楽しく御過し
被遊る事御拝察申上候
私も外出致さば■■様方に御厄介を
御掛け申す心算に候へば
父上よりも宜しく御礼申上被下度候
如是謂ひ居る際にも康男兄様は
南方決戦場比島に於て晝夜を別
たぬ激戦を續行されつつあるやも不知所候
我身の幸福を不可忘却一刻も早く
一人前と可成く努めざる不可所御座候
昨年の此頃は御母上は病床に在られ候も
康男兄様時々歸宅され敬兄様私
等も居り家内打揃ひし事にても本年は
左様に之無く淋しき事とても
母上壮健にあらせられ敬兄様も殆ど全快
されし由私達二人の不在をも補ひて餘り
ある事に存じ上候
一生の問題たる兵科も私事にして只〃
命のまヽ區隊長海老澤英夫大尉殿
にお任せ致し居り候 為念区隊長殿
の御芳名を記し置き候間
御誤り無之き様御願申上候
十二月廿一日出の御芳翰本廿五日受
取り年賀と共に以上書述候
嚴寒の砌り尚〃御躰に御配慮
の程遙かに振武臺上より御祈り
申し上候
敬具
昭和二十年元旦
三郎
父上様

追伸
日附けには廿年と書きましたが十二月廿五日に認めました
小包東京に送られずば書籍・文房具として學校
にお送り下さるゝもよくあります(■■様へ送られずば)
候文不出来の所御訂正をお願い致します

敬兄様
余り動ず元の立派なる躰に一日も早く
なって下さい 風邪は絶對引かざる様
御注意下さい

芳子殿
作業等に負けずしっかり勉強して
この立派な成績を落さない様に
くれぐれも躰に氣をつけて
***********************

あまり馴染みのない語彙があったのでググってみた。

・彌榮:いやさか、いやさかえ、やさかえ、やさか、やえい と複数の読みがある。主に「一層栄える」という意味。「万歳」に意味が近く、めでたい意味でも使われる。
・醜の御楯:しこのみたて。天皇の楯となって外敵を防ぐ者。武人が自分を卑下していう語。「今日よりは顧みなくて大皇(おおきみ)の 醜の御楯と いふ物は 如此(かか)る物ぞと 進め真前(まさき)に」と云う万葉集に歌より。
・覬覦:きゆ。 身分不相応なことをうかがいねらうこと。非望を企てること

冒頭「聖戦第五年目も勝利に明け…」と始まっているが、実際には「時局は非常を超え驕敵米鬼は我が神州を覬覦し止まざる状態に候へば」と本土への空襲が頻繁になり始めた時期でもあり、危機感は相当強まっていたと思われる。
実際に昭和二十年に入ってからは6大都市(東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・京都)だけでなく地方都市への空襲も激増した。

この国家の非常時に於ては「我身の幸福を不可忘却一刻も早く一人前と可成く努めざる不可所御座候」と将校生徒としての矜持を見せてはいるものの、まだまだ17歳も青年である。帰郷して家族の顔が見たい気持ちが強く感じられる手紙である…

※追伸にもある通り19年12月25日に認められた手紙であり、前回投稿した手紙とは時系列が前後しているが表向きの日付を優先した。

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書 待望の兵科発表 ん?消印が「大和」? 振武臺は埼玉県のはず…

 

今回の投稿は三郎が父芳一に宛てた葉書。

入校後約一年が経過し「待望」の兵科が発表された事を知らせている。

 

昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書①
昭和20年1月20日 三郎から父芳一への葉書②

解読結果は以下の通り。
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冠省 其の後お変りは御座居ませんか お蔭様で私
は風邪も引かず元氣にやって居りますから御安心下さい
さて待望の兵科が発表されました 私は予期の如く地
上兵科です(地上兵科中の細部は未だ先のことです)
ですから又當分予科に残る事となりました すぐ航空士官
學校の方へ行くものもあります 惜別の情に堪えないもの
があります 次の外出日は二月十一日 紀元節 其の間三週間
待遠しい事オビタダシイです 小包(十三日提出された)未到着
(廿日現在)です まだ日数がかかるとおもいます 試験も本日(廿日)
をもって終り成績は良好です 試験の終った喜はどこでも同じですよ
では早速お報せまで 草々
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冠省(かんしょう):「手紙の時候の挨拶などの前文を省略する」という意味で手紙の冒頭に使われる頭語。
結語として「草々」「怱々」「草々」「不一」が使われる。

これまで気付かなかったのだが、葉書の消印が「大和」となっている。
振武台(陸軍予科士官学校)は埼玉県北足立郡朝霞町である。ひょっとすると振武台からの通信物(手紙・葉書等)は一旦(神奈川県大和市に隣接している)相武台(陸軍士官学校)に移送され再度検閲されて発送されていたのではと思いググってみたが真偽の程は解らなかった。

また、一年程前の入校当時の郵便物は大体3~4日で配達されていたのだが、この時期になると一週間~10日程要しており、空襲等による戦況悪化が交通機関へも大きな影響を与えていたと思われる。

扨て、陸軍予科士官学校入校からほぼ一年が経過し、三郎「待望」の兵科が発表された。
予想通り?の「地上兵科」となったが細かい兵科区分は未定との由。

飛行機好きの三郎は本心では「航空兵科」に進みたかったのではないかと思うが、以前「船舶兵となって(故郷三次に近い)宇品へ行きたい」と云っており思惑通りだったのであろう。学年試験の首尾が良かったこととと合わせて安堵している様子が伺える。

この後三郎たち生徒は約半年間程各兵科に分れて専門教育を受けてから、本科(相武台)へ入学するのだが、実際にはこの後半年間は終戦までの混沌期間であり実際に予定通りに入学したかどうかは不明である…

 

昭和20年2月12日 三郎から父芳一への葉書 入校から早や1年…「月日の過ぎるのは早 いものです」

 

今回は三郎が芳一に宛てた葉書。

上京し陸軍予科士官学校入校から1年が経過し、月日の経つのが早い事を感じながらも「今からは段々と暖かな方に向うのですから楽しみです」と漸く酷寒から解放されることを喜んでもいる。

昭和20年2月12日 三郎から芳一への葉書①
昭和20年2月12日 三郎から芳一への葉書②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

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前畧
大分御無沙汰致しましたが
其の後お変りは御座居ま
せんか 御蔭で私も元氣に毎
日を送って居ますから御安心
下さい 月日の過ぎるのは早
いものです 最早二月も半
ば終らんとし この葉書が到
着する頃は丁度私が上京
してから一年になるでしょう
今からは段々と暖かな方に向
うのですから楽しみです
扨て 去ると謂っても昨日ですが紀元節に一月五日以来の
外出が許可され喜び勇んで常の如く■■様方にお邪魔
致しましたら岩本に頼まれたものがきれいにとってあり 私は
非常に嬉しくありました 水にひたしてあり全然かたくなく実
に感謝致しました お父さんの御言葉を讀み女々しき氣
持等絶對に起しませんから充分御安心下さい お母さん
敬兄さん 芳子ちゃん皆様の御心づくし「有難う御座居
ます」と云って頂きました 康男兄様の事は御心配でしょ
うがあまり氣をつかわれない様特にお母様にお願申し
ます 三月十一日迄外出はないのですが それまでにノートを心配して頂け
ませんでしょうか 三月十一日に着く様 ■■様方へでも送って頂きたいの
です お母様に腹巻が非常に暖かいとお傳え下さい では要用のみ
***********************

「岩本に頼まれたものがきれいにとってあり」の「岩本」が解らないのだが、おそらく地元(三次)にある和菓子屋さんなのではないかと思う。実家から送られてきた後■■様方で、お餅等を固くならない様に保管しておいて下さったと云うことであろうか…

「康男兄様の事は御心配でしょうがあまり氣をつかわれない様特にお母様にお願申します」
とあるように長男康男の消息は未だ不明であり、(当然の事であるが)家族全員特に母千代子が心配している様子である。
康男が出征してから既に3ヶ月が経過しており、皆最悪の事態(戦死)を恐れながらも最後まで望みを捨てずに堪えていた。
父芳一はその様な状況下で三郎が弱気にならぬ様「檄」を飛ばしたのであろう。
「お父さんの御言葉を讀み女々しき氣持等絶對に起しませんから充分御安心下さい」
と三郎が応えている…

 

昭和20年9月8日 陸軍船舶司令部矢野部隊長から芳一への返信 「御閲覧後 焼却下され度し」

 

前回康男が所属していた陸軍船舶司令部の矢野部隊から届いた「死亡告知書」及び「遺骨交附ニ関スル件通牒」を投稿したが、芳一は悲嘆に暮れる間もなく「わが子の最後」の状況を知るべく矢野部隊長に「申越し」を返信していた様である。

 

昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙封筒表
昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙封筒裏
昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙①
昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙②

「実は特事態発生の為」の部分はちょっと自信が無いが他に適当な語彙を見つけられなかった…
解読結果は以下の通り。

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御閲覧後 焼却下され度し(本状のみ)

拝復
再度御状拝誦 御心の中
拝察仕り候 お申越しの件
実は特事態発生の為 資
料は凡て焼却仕りし故 残りし
ものの中より判断せし部分のみ
御通知申上候間 何卒御宥
免ヒ下度く候

時下暑気去らず切に御自愛
ヒ過度く候
敬具
九月八日
矢野光二
三原芳一殿

追伸
残務整理の為 小官以下少数の者のみ残り居る
現況につき 万事意にまかせず御諒承を乞ふ
***********************

「御閲覧後 焼却下され度し(本状のみ)」
とあるが、封筒にはもう一通「生死不明トナリタル迄ノ経歴」が同封されていた。
「焼却下され度し」とは占領(米)軍の進駐の際に余計な書類・資料が発覚するのを恐れた為と思われるが、芳一は焼却しなかったので「本状」はこうして残っている。
康男と同様に輸送船諸共撃沈され生死(亡骸)不明となった部下将校は相当数に上るが、今日の様にパソコンなど無く、しかも終戦直後の大混乱の軍部での残務整理は重要書類や武器等の処分などで多忙かつ煩雑を極めたであろう時に、その一人一人に対して手書きの「生死不明トナリタル迄ノ経歴」を書いたとすれば大変な作業である。
然しながら矢野部隊長以下残された部隊の方々が、戦死した多くの部下将校の「戦死の状況」を親族へ報せる為に書類を何枚も何枚も書き続けたのは生き残った者としての責務を強く感じていた為に違いないであろう…

次回の投稿でその
「生死不明トナリタル迄ノ経歴」
をご覧頂く。

 

昭和二十年十月二十二日 「罹災戻」…芳一が廣島商業校長に宛てた康男戦死の手紙は原爆惨禍の為届かず…

 

終戦から二ヶ月ほど過ぎ多少落着いたのであろう、芳一は康男の母校である廣島商業学校の校長宛に康男が戦死した旨の報告と生前のご厚情への御礼を巻手紙に認めている。
が、しかしながら当時の広島市は未だ原爆による惨劇の真っただ中であり、「書留・速達」で出された封書は非情にも「罹災戻」の赤い印と共に差し戻されてしまった。

昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻 封筒表
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻 封筒裏

 

昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻①
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻②
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻③
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻④

当ブログ開始当初より芳一の手紙・葉書は(小生にとって?)非常に読み辛いのであるが、今回の巻手紙は最強である。
故に未解読部分が数箇所あるが、内容に影響がある程では無いのでご容赦願う。

解読結果は以下の通り。
***********************
拝啓 時下高天肥馬の候益々
御精達〇〇〇〇〇〇〇賀候
附は御校第三十七回卒業生たる
(昭和十四年三月卒業)
愚息 三原康男義 松山高等
商業学校卒業後 日本興行銀
行に就職中 昭和十七年二月一日
応召 広島西部第二部隊に入隊
同年五月 北支保定の豫備士官
学校に甲種幹部候補生として
入校 同年十一月卒業帰還致し
見習士官として丸亀第三十二部隊へ
転属 昭和十八年十二月一日 少尉に
任ぜられ 船舶要員として 暁第
二九四〇部隊に転属 船舶練
習部学生の課程を了へ マニラ
第三船舶輸送司令部附特殊
水上勤務要員として 昨十九年
十一月内地出発 輸送船江戸川丸
に乗船 マニラに向け航行中
同年十一月十七日午後十時七分
黄海南方海上に於て 敵の
魚雷攻撃を受け 同乗者二千
餘名中 百九十六名の被救助者
を除く外 船と運命を共に致し
愚息康男も武運拙く戦死者
の中に入り候旨 此程公報に接
し也候
御校在校五年 不一方御恩顧を
被り乍ら碌々御恩返しも為し
不得 二十四年を一期として散華
致し事は誠に残念に存じ益
素より本人は皇国の隆昌と必勝
の信念と後に続くものあるを確信
し 戦死致し儀に御座候得共
事志を違い 敗戦後の今日
戦死の報に接し候事は遺憾
此上もなく 私の心中御愍案
被下度く
諸先生に対しても校長様より
宜敷御傳へ被下度 先つ不取敢
戦死公報 先○○○度 時下〇
〇御自愛被下○○○
      敬具
昭和二十年十月二十二日
故陸軍少尉 三原康男
(進級上申中)
 父 三原芳一

廣島県立
廣島商業学校長殿

追て戦死公報写並に戦死当時の状況
経緯等写同封致置く○御高覧被下度
尚公葬の儀は十月二十九日執行の事に
相成益て御高会○○○○○○
***********************

前々回の投稿で掲載した陸軍船舶司令部矢野部隊長からの「生死不明とナリタル迄ノ経歴」の内容を踏まえ康男が広島商業卒業してから戦死するまでの経歴を述べた後に生前のご恩への感謝と康男本人そして父である芳一の無念を認めている。

芳一(祖父)、三郎(伯父)、芳子(母)は康男(大伯父)のことは殆ど小生には話さなかった。
芳一の納骨の際だったと記憶しているが、芳子が墓下から大きめの薬瓶を取り出して
「この中に康男伯父さんの爪と髪の毛が入っとるんよ…」
と教えてくれたことが唯一であったと思う。

やはり家族にとっては辛い記憶であり想い出したくなかったのであろう。

この後芳一が再度広島商業校長に手紙を出したか否か定かではないが、この手紙が「罹災戻」として差し戻されていなければ小生が目にすることも無く、康男に対する芳一はじめ家族の気持ちを明確に(文字として)知ることは無かった訳であり結果的には良かったのかも知れない…

昭和18年6月 康男

 

昭和18年7月 丸亀市日の出旅館の領収書 芳一と康男が宿泊 親子で何を語り合ったのかなぁ…

 

今回も少々遡ったモノである。

香川丸亀市の日の出旅館で芳一と康男が親子二人で宿泊した際の領収書である。

 

昭和18年7月25~26 日の出旅館領収書

康男は昭和18年6月10日に香川丸亀市の第64兵站警備隊に補充要員として転属しており、おそらく芳一が夏休みを利用して康男に会いに行ったのであろう。
この時期は三男の三郎が陸軍予科士官学校への進学(受験)を決めた時期であり、芳一がその辺りの相談や情報収集をかねて既に軍隊経験のある長男の康男に会いに行ったのではないかと思う。

当時と現在の貨幣価値で換算すると2名で3万円位の金額であるから左程高額でもないであろう。
ただ、「宿泊費+飲食費」で20円ほどの料金が税とサービス料で総額が1.5倍以上になっている。
やはり「旅館で一泊」は贅沢だったのだろう…
ビールも1本しか頼んでおらず「呑む」ことが目的では無かったのか、或いは節約したのか…

芳一にとっては三郎の進路が本題であったとしても康男の現況も気に掛かっていたことは間違いない。

そして、この1年余り後に康男が戦死することを考えると芳一にとっては本当にかけがえのない時間となってしまったのである…

 

広島市本川町の三郎宅での新年会…かな? 昭和45(1970)年頃か…

明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

令和三年が明け当ブログも足かけ三年目を迎えました。
本年も出来るだけ沢山の方々にご覧頂けるよう頑張る所存です。

扨て新年第一回は、昭和45年頃の正月に三郎宅に芳一・三郎・芳子の揃った(小生にとってはかなり懐かしい)写真が発見されたので、それを投稿したいと思う。

三郎宅での新年会にて 昭和45年頃

後列の3人の女性は左から、三郎次女・長女・奥さん
前列左より、三郎・常子(芳一後妻)・芳一・芳子長女・芳子
最前列右に鎮座しているのが小生(芳子長男)
である。

実はこの写真は小生の手許にあったものではなく、国際新報社から出版された「新 昭和回顧録 我が人生の記」と云う分厚く立派な書物に掲載されていたものである。

以前よりこの書物が遺品の中にあることは知っていたのだがこれまで内容については知らなかった。
「何か投稿出来るモノはないかなぁ」と漁っていたところ(笑)目に留まったので開いてみた訳である。

この「新 昭和回顧録 我が人生の記」と云う書物は先の大戦で散華された軍人・軍属の方々を称え記録に残すべく広島県遺族会の協賛によって出版されたもので長男「故 三原康男」が掲載されているのだが、編纂当時芳一は既に他界しておりどうやら常子が写真・記事を提供して掲載されたものらしい。

写真でもお判りの様に三郎は(三原家の中では)体格も良く陸軍士官学校で鍛えられた厳格さもあった。
かなり以前の投稿(2019/05/08)の最後の件でこの写真当日の出来事をお伝えしたのだが、その中で三郎は小生にとっては「怖い伯父さん」であったと言っている気持ちが多少分かって頂けるのではないだろうか…
https://19441117.com/2019/05/08/

 

明治30年頃の三原家の写真 芳一は1歳 千代子は生まれる前…

 

小生から見ると芳一・千代子は祖父母にあたるのだが、遺品を漁っていると結構古い写真などが出てくるもので、今回のものはその芳一・千代子から見て父・祖父母にあたる人々の写真である。

 

三原家の写真 明治30年頃

写真と共に芳一が昭和13年に取得したと思われる戸籍抄本が保管されていたのでそれと照らし合わせてみた。
小生から見れば曽(ひい)祖父・高(ひいひい)祖父母にあたり、120年以上も昔の「ご先祖様」を拝むことが出来るとは思っていなかったので少々興奮気味である。

戸籍で確認したところ高祖父母(和七・キク夫妻)はともにそこそこ長命で、和七は大正十三年に72歳で、キクは昭和12年に77歳で没している。
しかしその息子(曽祖父)の常一は(この写真が明治30年のものだとすると)翌31年に結婚し33年に長女千代子を儲け翌34年に23歳の若さで他界している。(何故亡くなったのか詳細は不明)
千代子にすれば物心がついた時には既に父親は居なかったわけである。
いや、それどころかもう数年彼の死期が早ければ千代子は生まれておらずその末裔たる小生など将に「影も形もなかった」のである。

明治29年生まれの芳一は当時1歳くらいであった。
その後大正10年29歳の時に千代子と結婚し同時に一人息子を亡くし跡継ぎのいない和七・キク夫妻と養子縁組をしている。
ただし、その年の8月に長男康男が生まれているので「できちゃった婚」のにおいが…

因みに康男も常一と同じ23歳で戦死している…

 

大正4年3月11日撮影 芳一18歳… 慰安旅行か? 三次の某旅館にて

 

前回に続き今回も100年以上前の旧い写真を投稿。

上掛けのトレーシングペーパーには「大正四年三月十一日撮影」と記されているので、芳一18歳の時のもので、小生の手許にある芳一の写真の中では一番旧い。

 

大正四年三月十一日 芳一18歳の頃

二階外廊下の右から四人目の新聞らしきモノを読んでいるのが若かりし頃の芳一である。
建物や人の影が長く伸びていることから察するに夕刻の様で、会社の慰安旅行等で観光地を巡った後宿に到着し一風呂浴びたあとでの一コマのようである。
場所等の詳細は不明だが、写っている人力車をトレーシングペーパーには「三次某車夫」と書いているので、三次或いはその近郊であろう。

扨て、慰安旅行だとすれば当時芳一は何処に勤めていたのか小生は知らないのだが、「銀行マン」だったと云う話は芳子から聞いてはおり、また遺品の中に「広島縣農工銀行創立三十五周年記念 昭和八年九月」と記された置時計があるので、おそらくこの「広島縣農工銀行」につとめていたのではないかと思う。

広島縣農工銀行創立35周年記念置時計①
広島縣農工銀行創立35周年記念置時計①

 

広島縣農工銀行創立35周年記念置時計②
広島縣農工銀行創立35周年記念置時計②

人物自体は小さく写っているため芳一の表情がはっきり確認できないのが残念であるが、小生の手許にある唯一の「禿げていない時の芳一」の写真である…

 

昭和23年6月5日 投函されず手許に遺ったままの手紙…認められたのは敬が亡くなる二日前…

 

 

今回は終戦後3年程経過した昭和23年に芳一が書いた手紙なのだが、どうやら投函されなかった様である。

 

昭和23年6月5日 芳一の手紙 封筒表
昭和23年6月5日 芳一の手紙 封筒裏
昭和23年6月5日 芳一の手紙①
昭和23年6月5日 芳一の手紙②
昭和23年6月5日 芳一の手紙③
昭和23年6月5日 芳一の手紙④

解読結果は以下の通り。

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六月四日附のハガキ今朝お医者さんへ薬
を貰いに行って帰って拝見しました。茂も可愛そうに
遂にあの世に先立ちました由 姉上様の御心中
お察しするに餘りありです。五月三十日に私が
参りまして見てやったのですが最後であったと思えばせめ
て一夜泊って最後迄見てやりたかったと思います。
然し茂は果報者であったと思います。
可愛い女房に親切に介抱して貰った事は、誰
よりも果報者であります。悪るい顔一つ見せず
に介抱してやってくれた事は私も誠にうれしく
存じます。親子は一世 夫婦は二世 と申しま
す。若死にした事は可愛そうでなりませんが
是れも前世よりの運命と諦らめる外はありません。
姉上様も嘸かしお力の落ちた事と思ひますが
茂の為めになげかず 元氣を出してあれの瞑福
を祈ってやって下さい。そして残った妻子が路
頭に迷わぬ様にしてやって下さい。何れ君田の
親類も何とか善くされると存じますが姉上
様や兄弟が力になってやらなければと思います。
私も今日でも参上廻向してやり度いのですが
私方にも敬が全く絶望状態となり氣分はハッキリ
して居りますが食事も進まず重態に陥りましたの
で二三日前からは夜もロクロク休まずに見てやって
居ります様な状況で参れません。何れ此処二三日
の内と思われます。可愛そうでなりませんが
もう手の尽くし様もありません。短い寿命と
諦める外ありません。あまりにも意識が明瞭な
ので苦しい事だろうと たまらなくなります。
お互いに子供に先立たれて。情ない事であり
ます。姉上も私も何と不運な事かと存じます
が、まあ私も元氣を出してやって居ります。是れも
私等の前世の種のまき様が悪るかったので因果
の報いでありましょう。善根を施して罪をわびる
外ありません。お寺参りでもして子供の冥福を祈
ってやりましょう。
つまらぬ事を申しましたが世の中は凡て運命で
あります。天にまかす外ありません。
どうか落胆せずに元気を出して居て下さい。
同封の香典どうか茂の霊前に供えて下さい。
残った嫁に呉れぐれもお悔み申したと傳えて
下さい。元気を出して子供を育てる様にと申して
下さい。
先は不本意乍らも書中でお悔み申し上げ
ます。私方にも変った事があれば直ぐに
様子しますから どうか御心配下さらぬ様願
います。
皆様の御自愛を祈ります。
六月五日 夜十二時半
芳一より
玉井姉上様
茂の遺族様

***************************

芳一は小生の実祖父なのだが、その家族関係に関しては正直殆ど知らない。
芳子(芳一の娘、小生の実母)がその類の話を殆どしてくれなかった事が大きいのだが、「何故話してくれなかったのか?」に関しては不明である。

この手紙の宛名にある「玉井タズノ」なる女性が芳一の実姉なのか義姉なのかもハッキリしないのだが、文面から察するに義姉のようである。

手紙には甥の「茂」の訃報に触れているが、この時既に次男の敬は危篤状態であり親戚とはいえ他人の不幸を悲しんでいる余裕は無かった筈である。
事実、手紙の内容からは葬儀の際にお坊さんが説く様な諦めとも自虐ともとれる文言が並んでいる。
そのことに自ら気付いたから投函しなかったのか、或いは混乱に紛れて投函しそびれてしまったのか、これも不明である…

戦争で長男(康男)を失い、戦後の大混乱の中で病に伏した妻(千代子)と次男を必死で看病した芳一。

次男の敬が他界したのはこのわずか二日後の昭和二十三年六月七日であった…