昭和20年8月29日 終戦後…康男戦死の報せ届く…

前回投稿した昭和20年2月22日に三郎が両親に宛てた葉書を最後に、終戦までの約半年間は通信関係の書類は小生の手許には残っていない。
実際には三郎と実家とのやり取りはあった筈であるが、本土空襲の激化等戦況の著しい悪化により日本国内の混乱はピークに達しており、郵便物が正常には配達されなくなったことは想像に難くない。

上述の様な状態により本ブログは半年間の空白を置いて戦後に突入する…

 

戦死公報封筒表
戦死公報封筒裏

 

死亡告知書 留守担当者宛

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死亡告知書
本籍 廣島縣雙三郡三次町一四五一番地
陸軍少尉 三原康男
右十一月十七日黄海南方方面ニ於テ戦死
セラレ候條此段通知候也
追而町長ニ對スル死亡報告ハ戸籍法第百十九條ニ依リ官ニ於テ處理可致候
昭和二十年八月二十五日

廣島聯隊區司令官 富士井末吉

留守擔當者 三原芳一 殿
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死亡報告書 三次町長宛

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死亡報告書
本籍 廣島縣雙三郡三次町一四五一番地
戸主         男 陸軍少尉 三原康男

右昭和十九年十一月十七日午後10時七分黄海南方方面ニ於テ戦死シタ
ルコトヲ確認ス
右報告候也
昭和二十年八月二十五日

廣島聯隊區司令官 富士井末吉

三次町長 殿
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遺骨交附二関スル件通牒

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遺骨交附ニ関スル件通牒
昭和二十年八月二十六日  船舶司令部矢野部隊長
廣島縣雙三郡三次町一四五一
三原芳一殿
左記者ニ係ル主題ノ件ニ関シ別途所轄联隊区司令部
ヨリ死亡通報アリタルモノト思料セラルルモ左ノ事由ニ依リ屍
體発見セラレズ遺骨ハ交附シ得ザルニ付右御諒承相願度

一、 戦死者官等級氏名生年月日
故陸軍少尉 三原康男(進級上申中)
二、 戦死日時場所      (午后十時0七分)
昭和十九年十一月十七日 二二・0七
黄海南方東経一二四・三四・五、北緯三三・三五海上
三、 屍體発見セラレザル理由
輸送途中敵ノ攻撃ニヨリ輸送船ト運命ヲ共ニセリ
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死亡告知書 留守担当者宛②

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死亡告知書
本籍 廣島縣雙三郡三次町
陸軍少尉 三原康男
昭和十九年
黄海南方
右十一月十七日東経一二四、三四五  ノ戦闘ニ於テ戦死
北緯三三、三ノ五海上
セラレ候條此段通知候也
追而町長ニ對スル死亡報告ハ戸籍法第百十九條ニ依リ官ニ於テ處理可致候
昭和二十年九月十日

廣島聯隊區司令官 富士井末吉

留守擔當者 三原芳一 殿
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戦後突入の最初は哀しい報せ…
長男康男戦死の報せであった…

康男が配属されていた船舶司令部矢野部隊より添付画像のうちの「死亡告知書」(上2枚)と「遺骨交附ニ関スル件通牒」の3枚が昭和20年8月29日午前9時に芳一の許へ届いた。
二週間程後に戦死場所の正確な経緯を記したものが届いている。(添付画像4枚目)

終戦直後の混乱の中、このような通知・報告がされている事に少々驚かされるが、亡骸はおろか遺骨さえも無い別れである。
この報せを受けた時の芳一や千代子、敬、芳子の心情を想うと胸が押しつぶされそうな気持ちである。

康男は三次にある三原家の墓に遺髪と遺爪だけを残し、今も黄海南方の海に眠っている…

三原家累代之墓

 

令和6年2月3日追伸

最近歳甲斐もなくアラン・ウォーカーの”Faded”と云う洋楽が気に入ってしまい耳から離れないのでネットで和訳をググってみた。

所謂「失恋ソング」だと思うのだが、歌詞の内容が康男戦死の報せを知った母千代子の心中とあまりにも重なる様に思えてならなかったのでリンクさせて頂く。宜しければご覧頂きたい。

https://youtu.be/eQhUSQGZQtE

象徴的に繰り返される”Where are you now?”或いは”海底の奥深くへ”等々、小生は涙を禁じえなかった(( ノД`)シクシク…)

 

昭和20年9月8日 陸軍船舶司令部矢野部隊長から芳一への返信 「御閲覧後 焼却下され度し」

 

前回康男が所属していた陸軍船舶司令部の矢野部隊から届いた「死亡告知書」及び「遺骨交附ニ関スル件通牒」を投稿したが、芳一は悲嘆に暮れる間もなく「わが子の最後」の状況を知るべく矢野部隊長に「申越し」を返信していた様である。

 

昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙封筒表
昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙封筒裏
昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙①
昭和20年9月8日陸軍船舶司令部矢野部隊長からの巻手紙②

「実は特事態発生の為」の部分はちょっと自信が無いが他に適当な語彙を見つけられなかった…
解読結果は以下の通り。

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御閲覧後 焼却下され度し(本状のみ)

拝復
再度御状拝誦 御心の中
拝察仕り候 お申越しの件
実は特事態発生の為 資
料は凡て焼却仕りし故 残りし
ものの中より判断せし部分のみ
御通知申上候間 何卒御宥
免ヒ下度く候

時下暑気去らず切に御自愛
ヒ過度く候
敬具
九月八日
矢野光二
三原芳一殿

追伸
残務整理の為 小官以下少数の者のみ残り居る
現況につき 万事意にまかせず御諒承を乞ふ
***********************

「御閲覧後 焼却下され度し(本状のみ)」
とあるが、封筒にはもう一通「生死不明トナリタル迄ノ経歴」が同封されていた。
「焼却下され度し」とは占領(米)軍の進駐の際に余計な書類・資料が発覚するのを恐れた為と思われるが、芳一は焼却しなかったので「本状」はこうして残っている。
康男と同様に輸送船諸共撃沈され生死(亡骸)不明となった部下将校は相当数に上るが、今日の様にパソコンなど無く、しかも終戦直後の大混乱の軍部での残務整理は重要書類や武器等の処分などで多忙かつ煩雑を極めたであろう時に、その一人一人に対して手書きの「生死不明トナリタル迄ノ経歴」を書いたとすれば大変な作業である。
然しながら矢野部隊長以下残された部隊の方々が、戦死した多くの部下将校の「戦死の状況」を親族へ報せる為に書類を何枚も何枚も書き続けたのは生き残った者としての責務を強く感じていた為に違いないであろう…

次回の投稿でその
「生死不明トナリタル迄ノ経歴」
をご覧頂く。

 

昭和20年9月8日 陸軍船舶司令部 矢野部隊長から… 康男の「生死不明トナリタル迄ノ経歴」

 

今回は前回投稿の陸軍船舶司令部矢野部隊長から芳一宛の手紙に同封されていた「生死不明トナリタル迄ノ経歴」である。

 

昭和二十年九月八日 生死不明トナリタル迄ノ経歴①
昭和二十年九月八日 生死不明トナリタル迄ノ経歴②

解読結果は以下の通り。

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生死不明トナリタル迄ノ経歴
一、 生死不明トナリタル日時場所
昭和十九年十一月十七日二十二時0七分 黄海南方 東経一二四・三四・五 北緯三三・三五 海上
二、 生死不明トナリタル前後ノ状況
昭和十九年十一月十五日 〇〇隊要員トシテ陸軍輸送船 江戸川丸(輸送指揮官 河滿
大尉)ニ乗船シ 同日十六・00頃 大連港ヲ出帆シ「マニラ」ニ向ヒ航行中 十一月十七日二二・
0七分江戸川丸ハ前記海上ニ於テ敵潜水艦ノ魚雷攻撃ヲ受ケ遂ニ同船
右舷側三番艙ニ被雷大音響ト共ニ爆發浸水シ機関モ亦停止セリ
次テ甲板上ノ舟艇・自動車等ニ引火シ火災ヲ生起スルニ至レリ被雷直後全員
警急集合所タル左舷甲板上ニ集合シアリシモ輸送指揮官ノ退船命令ニ據リ
海中ニ飛込ミ退避セルモノノ如シ 江戸川丸ハ翌十一月十八日 0一・三0頃 艏部ニ積
載シアリシ爆雷ニ引火セルモノノ如ク大爆音ト共ニ沈没セリ
退船者ハ船中ヨリ投出或ハ流出浮上セル筏木片 浮胴衣等ニ據リ漂流中
同日0三・00頃ヨリ一三・00頃ニ至ル間護衛艦タル海防艦一、掃海艇一ニ依リ乗
船者二千余名中一九六名ヲ救助セリ引續キ附近海面ヲ捜索セルモ他ハ發見スルニ
至ラズ 當時天候和風程度ニテ良好ナリシモ闇夜ナリ
三、 採リタル捜索手段
被雷當時敵潜水艦ノ攻撃は執拗ニシテ護衛艦ハ驅潜並ニ他ノ船舶ノ護衛ニ任シ
タリシ為僚船鎮海丸専ラ遭難者ノ救助ニ任シアリシモ之亦敵潜ノ為撃沈セラレタリ
十八日0三・00頃ヨリ護衛艦ハ救助ニ着手セルモ闇夜ノ為意ノ如クナラズ依テ一時
之ヲ中止 天明ヲ待チ再ビ救助ヲ開始セリ
然ルニ朝来風速加ハリ波浪髙ク捜索困難トナリタルモ極力遭難地点ヲ中心
トセル海域ノ捜索ニ努メシ結果一九六名を救助セルモ他ハ何等ノ手掛ナク同日
一三・00頃捜索ヲ中止シ十一月二十日上海ニ入港セリ
***********************

因みに康男が乗船していた「江戸川丸」は「ミ二十七輸送船団」であり、船団の状況等以下サイトをご覧頂きたい。

http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/pdf/mi27.pdf

戦時下であり敗戦の状況は徹底的に隠蔽されたのであろう。恐らく司令部はこの状況を発生直後には把握していた筈であるが、芳一は十か月程経過した終戦後に報らされている。
その間の家族とりわけ母千代子の心労は大変なものであったであろう。
そして最終的には「戦死」の報せ…
家族の悲しみは計り知れないほどに大きかったに違いない。

当時この様な状況が日本各地の家庭で起こっていたのである…

 

康男が乗船していた輸送船「江戸川丸」は商船であった…

康男が乗船していたミ二十七船団の「江戸川丸」は、昭和十九年十一月十七日二十二時七分 敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、翌十八日一時三十分頃に沈没したと「生死不明トナリタル迄ノ経歴」(前回投稿)に記されている。

沈没迄の三時間半…康男は必死で生きようとしたであろう…
いや、沈没後もひたすら味方の救援を待ちながら冷たく暗い黄海でもがいたに違いない…
寒かったであろう…
怖かったであろう…
悔しかったであろう…

大東亜戦争に於いては、ガダルカナル島や硫黄島などの激戦地や神風特攻隊などで勇ましく果敢に散華された方も多くいらっしゃるが、康男の様に戦闘の遑もなく無念のうちに散って逝った方も決して少なくはない。
特に米軍に制海制空権を握られた戦争末期の輸送船団は悲惨であった。

今回の投稿にあたり下記サイトで勉強させて頂いた。

http://www.jsu.or.jp/siryo/

こちらのサイトによると、康男のような輸送船で戦地に向う途中等で攻撃を受け沈没や座礁により戦死された方は6万柱を超えている。

http://www.jsu.or.jp/siryo/honseki/

康男が遭難した黄海に於ても23隻が撃沈され9000柱近い英霊が今も尚海底深く眠られているのである…

http://www.jsu.or.jp/siryo/map/korea/china/yellowsea/yellowsea.html

もちろん康男も…

康男 昭和19年頃 撮影日不明

 

昭和二十年十月二十二日 「罹災戻」…芳一が廣島商業校長に宛てた康男戦死の手紙は原爆惨禍の為届かず…

 

終戦から二ヶ月ほど過ぎ多少落着いたのであろう、芳一は康男の母校である廣島商業学校の校長宛に康男が戦死した旨の報告と生前のご厚情への御礼を巻手紙に認めている。
が、しかしながら当時の広島市は未だ原爆による惨劇の真っただ中であり、「書留・速達」で出された封書は非情にも「罹災戻」の赤い印と共に差し戻されてしまった。

昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻 封筒表
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻 封筒裏

 

昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻①
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻②
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻③
昭和二十年十月二十二日 芳一罹災戻④

当ブログ開始当初より芳一の手紙・葉書は(小生にとって?)非常に読み辛いのであるが、今回の巻手紙は最強である。
故に未解読部分が数箇所あるが、内容に影響がある程では無いのでご容赦願う。

解読結果は以下の通り。
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拝啓 時下高天肥馬の候益々
御精達〇〇〇〇〇〇〇賀候
附は御校第三十七回卒業生たる
(昭和十四年三月卒業)
愚息 三原康男義 松山高等
商業学校卒業後 日本興行銀
行に就職中 昭和十七年二月一日
応召 広島西部第二部隊に入隊
同年五月 北支保定の豫備士官
学校に甲種幹部候補生として
入校 同年十一月卒業帰還致し
見習士官として丸亀第三十二部隊へ
転属 昭和十八年十二月一日 少尉に
任ぜられ 船舶要員として 暁第
二九四〇部隊に転属 船舶練
習部学生の課程を了へ マニラ
第三船舶輸送司令部附特殊
水上勤務要員として 昨十九年
十一月内地出発 輸送船江戸川丸
に乗船 マニラに向け航行中
同年十一月十七日午後十時七分
黄海南方海上に於て 敵の
魚雷攻撃を受け 同乗者二千
餘名中 百九十六名の被救助者
を除く外 船と運命を共に致し
愚息康男も武運拙く戦死者
の中に入り候旨 此程公報に接
し也候
御校在校五年 不一方御恩顧を
被り乍ら碌々御恩返しも為し
不得 二十四年を一期として散華
致し事は誠に残念に存じ益
素より本人は皇国の隆昌と必勝
の信念と後に続くものあるを確信
し 戦死致し儀に御座候得共
事志を違い 敗戦後の今日
戦死の報に接し候事は遺憾
此上もなく 私の心中御愍案
被下度く
諸先生に対しても校長様より
宜敷御傳へ被下度 先つ不取敢
戦死公報 先○○○度 時下〇
〇御自愛被下○○○
      敬具
昭和二十年十月二十二日
故陸軍少尉 三原康男
(進級上申中)
 父 三原芳一

廣島県立
廣島商業学校長殿

追て戦死公報写並に戦死当時の状況
経緯等写同封致置く○御高覧被下度
尚公葬の儀は十月二十九日執行の事に
相成益て御高会○○○○○○
***********************

前々回の投稿で掲載した陸軍船舶司令部矢野部隊長からの「生死不明とナリタル迄ノ経歴」の内容を踏まえ康男が広島商業卒業してから戦死するまでの経歴を述べた後に生前のご恩への感謝と康男本人そして父である芳一の無念を認めている。

芳一(祖父)、三郎(伯父)、芳子(母)は康男(大伯父)のことは殆ど小生には話さなかった。
芳一の納骨の際だったと記憶しているが、芳子が墓下から大きめの薬瓶を取り出して
「この中に康男伯父さんの爪と髪の毛が入っとるんよ…」
と教えてくれたことが唯一であったと思う。

やはり家族にとっては辛い記憶であり想い出したくなかったのであろう。

この後芳一が再度広島商業校長に手紙を出したか否か定かではないが、この手紙が「罹災戻」として差し戻されていなければ小生が目にすることも無く、康男に対する芳一はじめ家族の気持ちを明確に(文字として)知ることは無かった訳であり結果的には良かったのかも知れない…

昭和18年6月 康男

 

康男絶筆 昭和19年11月10日 比島への出陣直後下関市阿弥陀寺町音羽旅館から出された小包の荷札…

 

昭和19年10月31日に四国三島港(陸軍船舶司令部矢野部隊駐屯地)を出港した康男の部隊は一旦下関に逗留し11月9日に出陣となったのであるが、実際には11月10日に下関を出港したと思われる。
その際「不要衣類等返送小包」を実家の芳一宛に発送しているのだが、結果的にその時の「荷札」が康男の絶筆となってしまった。
もちろん芳一はその「荷札」を大事に保管していた。

 

康男絶筆①
康男絶筆②

遺書は遺っていない…
康男は生還を信じ、まだまだ遺書など書く段階だとは思っていなかったのであろう…

果たして親・家族にとって「遺書」が在ることが良いのか否かは判らないが、芳一が書いたと思われる【絶筆】の文字が悲しい…

因みに父親の命日が11月10日の小生にとっては偶然とは言え何かの因縁を感じずには居られないのである…

 

戦後…混乱…遺された手紙類も無く…

前回までに投稿した手紙・葉書・各種資料等々で終戦直後までの小生の手許にある遺品は品切れである。
続きは恩給等の請願資料や昭和二十六年以降の芳子(小生の母)宛の手紙類が遺っているが、これらは機会があれば追って投稿したいと思う。

康男の戦死と云う悲しみの中で父芳一はじめ家族はどうしていたのだろうか…
陸軍予科士官学校生徒であった三郎がその後終戦までの間どの様に生きていたのか…
病弱であった母千代子と敬の容態は…
女学校に通っていた芳子の学生生活は…

家族全員が鬼籍入りした今となっては全く判らないのである…

ただ、
昭和23年6月 7日に次男敬が、
昭和25年6月17日に母千代子が
他界しており、残された芳一、三郎、芳子にとっては相当に辛い数年間であったであろうと推し量られる。

残念ながら小生は三人の誰からもその当時の状況を聞かされたことがない。
康男の戦死と同様に「思い出したくないこと」だったのであろう…

と云う状況なので暫くは遺されたその他資料を掻い摘みながら投稿してゆきたいと思う。

今回は康男が見習士官として配属されていた「西部第二部隊」当時の集合写真をご覧頂きたい。

昭和18年1月康男 西部第二部隊時 前列左から6番目が康男

少々見辛いので康男部分だけ拡大して…

康男 拡大

ググってみたところ、この「西部第二部隊」は広島市中広町(広島城の西側)にあったらしいのだが、詳細は解らなかった。

因みに当時康男の階級は「曹長・見習士官」であり、写真では軍刀を携えている。
現在、小生の手許には芳一が残した「康男遺刀」なるものがあるのだが、写真のものとは違うもののようである。
この辺りに関しても次回以降で投稿してゆこうと思う。

 

「軍装用赤牛皮編上靴」盗難証明書…二ヶ月足らずの間に一度ならずも二度までも…

 

少し遡るが、今回は康男の軍靴が盗難に遭った際に警察に提出した「證(証)明願」である。

2枚在り、小生は同一被害に於て警察署と派出所の2ヵ所へ提出したものと思っていたのだが、今回投稿するにあたり「よぉ~く」読んでみたところ、別々の被害のものだった事に気付いた。

盗難証明書 昭和19年1月
盗難証明書 昭和19年3月

片や
「昭和19年1月9日 18:00~18:30の間」
もう一方は
「昭和19年3月2日 午後6時頃」
とあるが、どちらも提出日が
「昭和19年10月11日」
なので(恐らく)軍の配給関連の部署辺りから提出を薦められたのではないかと思う。
だが、ではなぜここに遺っているのか??
(これも想像でしかないが)提出しようとして書いたものの、出征準備等に忙殺され遂に提出されず終いとなったのではないかと思う。

どちらも自宅での被害でしかも同時刻の出来事であり、案外身近な人物の犯行だったのでなないかと考える。
まぁ、今となってはどうでも良い事ではあるが…

戦争が長期化し日本全体が経済的にも苦しくなってきた頃である。窃盗などの犯罪も増えていたのかも知れない。

 

昭和18年7月 丸亀市日の出旅館の領収書 芳一と康男が宿泊 親子で何を語り合ったのかなぁ…

 

今回も少々遡ったモノである。

香川丸亀市の日の出旅館で芳一と康男が親子二人で宿泊した際の領収書である。

 

昭和18年7月25~26 日の出旅館領収書

康男は昭和18年6月10日に香川丸亀市の第64兵站警備隊に補充要員として転属しており、おそらく芳一が夏休みを利用して康男に会いに行ったのであろう。
この時期は三男の三郎が陸軍予科士官学校への進学(受験)を決めた時期であり、芳一がその辺りの相談や情報収集をかねて既に軍隊経験のある長男の康男に会いに行ったのではないかと思う。

当時と現在の貨幣価値で換算すると2名で3万円位の金額であるから左程高額でもないであろう。
ただ、「宿泊費+飲食費」で20円ほどの料金が税とサービス料で総額が1.5倍以上になっている。
やはり「旅館で一泊」は贅沢だったのだろう…
ビールも1本しか頼んでおらず「呑む」ことが目的では無かったのか、或いは節約したのか…

芳一にとっては三郎の進路が本題であったとしても康男の現況も気に掛かっていたことは間違いない。

そして、この1年余り後に康男が戦死することを考えると芳一にとっては本当にかけがえのない時間となってしまったのである…

 

船舶司令部潜水輸送教育隊矢野隊長からの「戰死認定書」発見…何故か日付は終戦前の昭和20年6月8日

 

 

戦前戦中の遺品の投稿がひと通り終り、今後投稿してゆく題材を求めて遺品漁りをしていたところ、長男康男の戦死に関し「戦死認定書」なるものが出てきた。

昭和20年6月8日 戦死認定書①
昭和20年6月8日 戦死認定書②
昭和20年6月8日 戦死認定書③
昭和20年6月8日 戦死認定書④

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戰死認定書
船舶司令部潜水輸送教育隊
陸軍少尉 三原康男

一、生死不明トナリタル日時場所
日時 昭和十九年十一月十七日二十二時0七分
場所 黄海南方東経一二四度三四・五北緯三三度三五海上
二、生死不明トナリタル前後ノ状況
昭和十九年十一月十五日特設水上勤務第自一四四至一五一中隊要員
トシテ陸軍輸送船江戸川丸(輸送指揮官河滿大尉)ニ乗
船シ篠田大佐ノ指揮スル「ミ二七」船團ニ加ハリ同日十六・00
頃大連港ヲ出帆「マニラ」ニ向ヒ航行中十一月十七日二二・
0七分(頃)江戸川丸ハ東経一二四度三四・五北緯三三度三五
海上ニ於テ敵潜水艦ノ魚雷攻撃ヲ受ケ遂ニ同船
右舷側三番船艙ニ被雷大音響ト共ニ爆發浸水
シ機関モ亦停止セリ
次テ甲板上ノ舟艇・自轉車等ニ引火シ火災ヲ生起スル
ニ至レリ 被雷直後全員警急集合所タル左舷甲板上
ニ集合シアリシモ輸送(司)指揮官ノ退船命令ニ據リ海
中ニ飛込ミ退避セルモノノ如シ 江戸川丸ハ翌十一月十八日
0一・三0分頃艏部ニ積載シアリシ爆雷ニ引火セルモノ
ノ如ク大爆音ト共ニ沈没セリ
退船者ハ船中ヨリ投出或ハ流出浮上セル筏木片浮
胴衣等ニ據リ漂流中同日0三・00分頃ヨリ一三・00分頃
ニ至ル間護衛艦タル海防艦一、掃海艇一ニ依リ乗船
者に貮千余名中約一九六名ヲ救助セリ 引續キ附近
海面ヲ捜索セルモ他ハ發見スルニ至ラズ 當時天候和風
程度ニテ良好ナリシモ闇夜ナリ
三、採リタル捜索手段
被雷當時敵潜水艦ノ攻撃は執拗ニシテ護衛艦ハ驅潜
並ニ他ノ船舶ノ護衛ニ任シタリシ為メ僚船鎮海丸専ラ
遭難者ノ救助ニ任シアリシモ之又敵潜ノ為メ撃沈
セラレタリ 十八日0三・00分頃ヨリ護衛艦ハ救助ニ着
手セルモ闇夜ノ為メ意ノ如クナラズ依テ一時之ヲ中止
天明ヲ待ッテ再ヒ救助ヲ開始セリ
然ルニ朝来風速加ハリ波浪髙クナリタルタメ捜索困
難トナリタルモ極力遭難地点ヲ中心トセル海域ノ捜索
ニ努メシ結果一九六名を救助セルモ他ハ何等ノ
手掛ナク同日一三・00分頃捜索ヲ中止シ十一月二十日
上海ニ入港セリ
四、戰死認定ノ理由
前記ノ如ク捜索スルモ得ル所ナク其ノ後半歳餘ヲ經タ
ル今日本人ニ関シ何等消息ナキハ船ノ遭難(者)時爆死又
ハ退船ノ餘祐ナク船ト運命ヲ倶ニスルカ又ハ海上ニ退船
スルモ大海中ナルタメト寒冷ノ為メ游泳力盡キ溺死
セルカ何レカニシテ茲ニ事實ヲ精査シ死体ハ發見セ
サルモ戰死シタルモノト認定ス
昭和二十年六月八日
船舶司令部潜水輸送教育隊長陸軍大佐矢野光二
***************************

昨年11月8日に投稿した「生死不明トナリタル迄ノ経歴」とほぼ同じ内容なのであるが、今回のものは毛筆書きにて丁寧に認められており「正式な書類」感が強い。
ただ今回のものは日付は終戦前の昭和20年6月8日となっており、終戦後の昭和20年9月8日付で矢野隊長から送られてきた前回投稿のものよりも前に書かれたものとなるのだが、内容的には今回のものの方が詳しく記されている。

https://19441117.com/2020/11/08/

例えば
「二、生死不明トナリタル前後ノ状況」の次の件は9月8日の新しい(後の)ものでは
「〇〇隊要員」と省略されているが、今回の旧い(前の)ものでは「特設水上勤務~中隊要員」と正確に書かれており、他にも細かい部分で記述が異なっている部分が散見される。

小生の推測であるが、元々戦死認定書は昭和20年6月8日付で作成されていたが、戦争末期~終戦直後の混乱の中遺族への通達が出来ず、親族からの要請に応えるために矢野隊長以下船舶司令部の方が書類を書き写して(占領軍に隠れて)送付したのではないかと思う。
故に前回の投稿のものに同封された矢野隊長の手紙(こちらは昨年10月31日に投稿)に
御閲覧後 焼却下され度し
と朱書きされていたのであろう。

https://19441117.com/2020/10/31/

「四、戰死認定ノ理由」は前回投稿のものには記載がなく今回初めて目にする部分であるが、
「爆死、溺死」と遺族にとっては心をえぐり取られるような言葉が並んでいる。

これが「戦争」である…